2014年9月21日日曜日

本埜の仏刹(9) 押付の薬師堂 (印西市・押付)

旧 本埜(もとの)村が、平成22年(2010)に印西市に編入されたことは ご存じのとおりです。

この旧 本埜村は、大正2年(1913)に 西の本郷村(ほんごうむら)と 東の新田地帯である埜原村(やわらむら)が合併して成立したもので、実に約百年の長きにわたって存在した村です。
「本埜」という村名は、前身である2村から一文字ずつ取って付けられています。 もっとも、読み方は変えています。

本埜村に合併する前の 本郷村と埜原村は、明治22年(1889)の町村制施行により 江戸時代からの多くの村々が合併して成立したものです。
前回取り上げた南陽院の笠神は 本郷村に属し、今回取り上げる薬師堂の押付新田は 埜原村に属していました。

百年ほど前の大正2年(1913)に発行された『千葉県印旛郡誌』の「埜原村誌」には 〈薬師庵〉として、この薬師堂について 以下のように書かれています。

  押付新田 字堤下にあり、天台宗にして 南陽院持ちなり。
  薬師如来を本尊とする。 由緒不詳。
  堂宇は 間口 2間、奥行き 3間半。 境内 20坪。

押付の薬師堂は、南陽院の北 300mにあります。

薬師堂の周りは、ぐるりと田圃です


入口の右にある六地蔵


薬師堂の右手には 墓地が広がっています


薬師堂の左手には 大師堂や供養塔が見えます


六臂の如意輪観音像ほか


印西大師 第八十三番札所の大師堂


「南無大師遍照金剛供養塔」   昭和4年(1929)建立

上の石碑の右側には、「先達」として以下の3寺が刻まれています。
 ・笠 神 南陽院
 ・砂 田 西福寺
 ・萩 原 龍泉院

南陽院の名があるのは、この観音堂が南陽院の管理下にあったので理解できます。
台座部分には「小廻組」とあります。
笠神、砂田、萩原の旧3村で、印西大師の小廻組を形成していたのではないかと思われます。

砂田は笠神の北隣ですので、大師組合を一緒に運営するというのも分かります。
笠神の南陽院から砂田の西福寺まで、北西に直線距離で1.1kmです。

しかし、笠神の南陽院から萩原の龍泉院まで、南に直線距離で2.3kmも離れています。
まして、旧 萩原村は、1889年に六合村に編入されたという地区です。
その後、六合村と宗像村は、1955年に合併して印旛村となりました。
印旛村が、2010年に印西市に編入されたことは ご存じのとおりです。
前回、南陽院の結願記念碑に見た3地区の結びつき同様、この薬師堂と萩原地区の関係が よく分かりません。

なお、萩原の龍泉院の寺は現存せず、萩原構造改善センター(集会所)があり、敷地内には印西大師第二番札所の大師堂や 八坂神社の鳥居が建っています。
この萩原構造改善センターは、慶昌寺の北東300mの位置にあります。

「構造改善センター」自体については、以下をご参照ください。

 ➜  印西市構造改善センターの設置及び管理に関する条例

印西市の旧印旛村地域に設置されている集会所といったところでしょうか。


➜  本埜の仏刹(8) 南陽院 (印西市・笠神)

➜  本埜の仏刹(10) 安楽院 (印西市・荒野)


2014年9月20日土曜日

「かまがや環境フェア」 2014 (主催 市環境課)の展示

第6回「かまがや環境フェア」の展示が 以下のとおり開催されています。

期 間  2014年9月19日(金) ~ 10月2日(木)
会 場  きらり鎌ケ谷市民会館 ロビー

「広報かまがや」 2014年9月15日号より

「広報かまがや」には、昨年のように 展示者による発表の予定が記されていません。
今年は、9月28日(日)の午前中に出展者が一堂に会すものの、昨年までのような発表はなく、その時間帯に質問等に対して個別的に説明を行うそうです。
私は、昨年のような発表の場を設け、そのあと個々に質問等に応じるという形をとるのがよいと思っています。


市民会館入口正面の展示


パネル展示の位置図 ちょっと見通しの悪い配置です


展示の全内容が掲示されています


入口正面の展示 2014.09.21 追加撮影


粟野の森の会


➁ 鎌ケ谷・大津川を清流にする会


➁で展示されている写真は、どれもが見事なものです


➁の展示の圧巻は、何といっても この大津川流域を描いた鳥瞰図


➁で自連協ニュースの記事が紹介されていました


➂ 囃子水の自然を育てる会 2014.09.21 追加撮影 


➃ かわ・水・みどり


➃の「中沢のビオトープ」に関する掲示の部分


➃の「中沢のビオトープ」 その1


➃の「中沢のビオトープ」 その2


➃の「中沢のビオトープ」 その3



➄ 個人の展示


➄の展示 「二つの海洋島 (1) ガラパゴス諸島」


➄の展示 「二つの海洋島 (2) 小笠原諸島」



正面の展示の反対側 展示が まだできていないところもあります(初日)


上の写真と同じ場所を撮影 大分変わりました 2014.10.01 追加撮影


➅ クリーン推進課


➆ 大津川水質浄化委員会 2014.09.28 追加撮影


➇ 大柏川2池(にいけ)の会・鎌ケ谷 2014.09.21 追加撮影


➇の展示の一部 大柏川第二調節池予定地の特徴が書かれています


➇の展示の一部 上の写真の説明に使われている地図



➈ かまがや環境市民会議


➉ エコネット かまがや


入口通路の背面にある展示


東京電力株式会社 京葉支社


京葉ガス株式会社


入口左側の壁面の展示


鎌ケ谷市放射線対策 市民の会


環境カウンセラー千葉県協議会



追 記 2014.09.28

9月28日(日)の午前中には、発表者がそれぞれのコーナーで質問等に答えていました。

緑のカーテンコンテストの応募写真が掲示されていました

また、この日には、以下の写真に載っている行事が行われました。

当日の予定表



おまけ 2014.09.21

初日に展示されていなかった団体を追加撮影しにいった際、富岡の森の近くで楽しく剪定された木を見ました。

これは鳥さんですね トサカの部分が凝っています


こちらは愛らしいコアラでしょうか




2014年9月19日金曜日

本埜の仏刹(8) 南陽院 (印西市・笠神)

南陽院は 印西市(大字)笠神726番地にあります。
この周辺は明治時代の中頃まで笠神(かさがみ)村という地区でした。

本埜のかつての村域図 (本埜村教育委員会『本埜の歴史』(2008))

笠神地区は 小林地区の東南に位置し、旧本埜村の中心部にあります。
現在、笠神地区には 印西市役所本埜支所や本埜中学校があります。


南陽院は周囲よりも一段高い台地に建っています


南陽院とその周辺の地図
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用


以下のサイトによると、南陽院とその周辺には、鎌倉時代に築かれた笠神城の城址が残っているそうです。
詳しくは、以下のサイトをご参照ください。

 ➜  城郭図鑑 笠神城

 ➜  千葉県の城址 笠神城


山門への階段


山門には 右に「天台宗」、左に「南陽院」と書かれています

1913年に発行された『千葉県印旛郡誌』の「本郷村誌」には、その「寺院仏堂誌」の筆頭に 南陽院についての記述があります。

  笠神村 字船戸にあり、天台宗比叡山派にして 中本寺 泉倉寺末なり。
  阿弥陀如来を本尊とす。 勧請年月 不詳。
  堂宇、間口 7間、奥行き 6間半。 庫裏、間口 8間半、奥行き 5間半。
  境内、1,100坪あり。 檀徒 850人を有す。
  境内 仏堂2宇あり。 すなわち、
   1. 大師堂 元三大師を本尊とす。 由緒不詳。
         建物、間口 2間、奥行き 2間なり。
   2. 観音堂 三十三観音を本尊とす。 由緒不詳。
         建物、間口 2間半、奥行き 2間なり。

これを見ると、かつては大変 威勢のあった寺だったようです。

本堂前の回向柱


本 堂


本堂の左に お堂があります


元三大師堂の近景


鰐口 と 「元三大師」(がんざんだいし)という扁額

余談ですが、「鰐」の意味と語源については、以下が大変参考になります。

➜  語源由来辞典 ワニ


本堂の右手にある 印西大師 第四十四番札所の大師堂


扉が引き戸です 大変珍しい


大師堂に掲げられている扁額

扁額は、以下のように読めます(翻刻ではなく、文字をできるだけ元の字にしました)。


  印西霊場 第四十四番
  伊 豫 菅生山 寫 

    以満乃 世盤 多゛以ひの めぐみ 春がう 左゛ん
    つい尓は 三多゛能 ち可以 をぞ まつ

   笠 神 南陽院


本家である四国八十八箇所霊場の第44番札所、菅生山(すごうざん) 大寶寺(だいほうじ)の御詠歌そのままです(以下)。

    今の世は 大悲のめぐみ 菅生山
    ついには弥陀の 誓いをぞまつ



「新四國靈場  結願祈念碑」

この結願祈念碑には、台座に「印西組信徒中」と刻まれていて、さらに碑の下の方には 次のような 3つの村の寺院名があります。
  ・笠 神かさ がみ 南陽院
  ・平 賀ひら  か  來福寺
  ・師 戸もろ  と  廣福寺

これの意味するものは何でしょう。
南陽院だけでは 結願を実施するのが困難だったからでしょうか?
かつての南陽院の威勢を考えると、たぶん そんなことはないでしょう。

近隣の寺ではなく、遠く離れた平賀村や師戸村の寺の名前があるということは、これらの寺とは特別な縁があったのではないかと考えられます。


追 記 2015.10.15

印西市岩戸にある「印西市立印旛歴史民俗資料館」の展示を見ていると、
「印西大師」の説明があり、そこに解答が書かれておりました。
あっけなく疑問が解決しました。
以下に引用します。

印西大師は、「でぇしさま」と呼ばれ、法螺貝の音と白装束のいでたちでの巡礼は印西の春の風物詩です。
この講は、飢饉などによる民衆の困窮救済が目的で享保6年(1721)(一説には享保2年)に、笠神に所在する南陽院の臨唱法師の提唱により始まりました。
四国八十八か所霊場をうつした札所を巡り、大師講講員によって伝承されています。札所は白井市、印西市にまたがり、89か所の「本番」札所と71か所の番外(掛け所)の札所が所在します。

結願は三寺が1年交代で順番に結願寺になります。南陽院(笠神)➜広福寺(師戸)➜来福寺(平賀)の順で、この結願寺が所在する地区の笠神・師戸・平賀の三地区は「元村」と称されます。

毎年4月1日から9日まで泊りかけて行われていましたが、宿泊がなしとなり平成19年からは日数も短縮され、4月1日から6日までに変更になりました。徒歩ではなく車での移動になったことと、負担を少なくするためとのことです。

追 記 おわり


印西に香取の海があった頃 (本埜村教育委員会『本埜の歴史』(2008))

南陽院の置かれている場所の小字名は 「船戸」です。
香取の海があった頃には、笠神と 平賀や師戸の間を行き来するには 船に乗っていった方が、陸路を行くよりもずっと楽だったことでしょう。
もっとも、その当時にこうした関係が築かれ、結願が行われた頃まで  それが連綿とつながっていたかどうかは わかりませんが。

なお、明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布に伴う町村制施行により、師戸村は宗像村に編入され、平賀村は六合村に編入されています。
昭和30年(1955)に、宗像村と六合村が合併して 印旛村になりました。
さらには 平成22年(2010)には、印旛村は印西市に編入されました。


さらに小高い所にも お堂が見えます


三十三観音堂 建物の後ろには お墓がありました


「前住」とは 〈前任の住職〉という意味でしょうか


三十三観音堂の右手に延びる道には卵塔(僧侶の墓塔)が並んでいました


さらに奥にある「殉國者慰靈塔」 軍での位が書かれた墓が並んでいます


➜  本埜の仏刹(7) 戸崎観音堂(印西市・中根)

➜  本埜の仏刹(9) 押付の薬師堂(印西市・押付)