2013年11月11日月曜日

鎌ケ谷の野馬土手(15) 道野辺八幡神社内の林に残る野馬除土手跡

これまで、市域の北の方面に残存する野馬土手〔鎌ケ谷の野馬土手(1)~(7)〕と、南の方面に残存する野馬土手〔鎌ケ谷の野馬土手(8)~(14)〕を見てきました。
今回から、上記2つの散策コースには含まれなかった野馬土手の跡を訪ねてみたいと思います。

はじめに、道野辺八幡神社内の林の中に残存している野馬除土手をご紹介します。
道野辺八幡神社については、以前このブログで取り上げましたので、以下をご参照ください。
 ➜ 鎌ケ谷の神社(1) 道野辺八幡神社(その1)

さて、この野馬除土手は、囃子水を源流とする中沢川と、貝柄山(公園のある場所)を源流とする根郷川に挟まれた丘陵部の、もっとも狭い部分に築かれていました。
明治13年(1880年)に発行された迅速測図を見ると、そのことがよくわかります。

「迅速測図  鎌箇谷駅近傍村落」の一部 画像中央付近が道野辺八幡神社 

また、この土手は二重土手であったことが、地図上の「ロ」という書き込みから知ることができます。
迅速測図は実に周到で、野馬土手が何重であったのかを 地図上に「イ・ロ・ハ」の文字で記しています。
特に「ロ」の字体は、地図上の他の情報と区別させるために特徴的な形にしてあり、すぐに見分けがつくようになっています。

「迅速測図」の注記にある野馬土手の形状

40年近く前に撮られた航空写真によると、今よりも野馬土手が残っていたことが見て取れます。
以下の画像は、その航空写真に野馬土手の現状等を書き加えたものです。

1974~78年の間に撮影された航空写真に現在の情報を加えたもの
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用


では、現在の野馬除土手の跡を見ていきましょう。

「鎌ケ谷市保全林指定標識」の右に林に入る道があります


境内から土手に続く林の中の道


土手の堀が見えてきます


野馬除土手はかなりの高さで残っています 土手上から堀底まで3m程度


土手も堀もよく残存しています


堀の向こう側に見えるのは道野辺保育園の園庭


粟野保育園近くから先の土手は消滅しており、民家が続いています


土手の一方の端は切り立った崖に至って終わります 左は神社の階段

この野馬土手は、神社の境内にあったからこそ残存したものだといってよいでしょう。


2013年11月4日月曜日

鎌ケ谷の野馬土手(14) 山屋食品の南に残る勢子土手跡

稲荷前三差路のすぐ西にある稲荷西交差点(名称がまぎらわしいですね)の近くには、ウスターソースやトマトケチャップを製造している山屋食品の工場があります。その南には勢子土手が残っています。

この土手は、稲荷前三差路の南に残存する勢子土手の延長上にあります。
稲荷西交差点近くの細い道を中央児童センターに向かって歩いていくと見えてきます。

樹木に隠れて、その右側にわずかに見えるのが山屋食品の工場


坂の下、正面に見えるのが中央児童センター


坂を下っていくと右側に土手が見えてきます


土手が残る土地は山屋食品の所有地です


写真の右手、土手の向こう側が山屋食品の工場


土手の盛り上がりが残っています


2013.11.19 追 記

船取線のバイパス側からは、道路に沿った山屋食品のすぐ南の位置で、土手がずっとよく見えることをお仲間のTさんから教えてもらいました。
土手自体を見るのなら、こちらから見た方がいいと思いました。

山屋食品工場の南隣に 道路側から土手の断面が見えます


こんもりとした土手がよく見えます


土手から道路側を振り返ってみたところ


土手の右側が 山屋食品の工場

この追記 終わり


中央児童センターの近辺は、かつては大津川支谷の谷頭でした。
勢子土手は、この谷頭に達して終わっています。
大津川の支川は、今ではここから400m近くは暗渠となっており、その両側には家が建ち並んでます。
コースをたどっていくと、暗渠の下流では大津川支川が顔を出します。
なお、この大津川支川は「長谷津水路」という名前が付いています。



以下は蛇足です。

この辺一帯の小字名ですが、谷頭部分が「谷津鼻方」(やづはなかた)、それから「長谷津」(ながやつ)と続き、その下流は痩せた水田の「三舛蒔」(さんじょうまき)そして「堀尻」(ほりじり)となっていました。

粟野村地引絵図 (1877ごろ)〔篠宮富男氏所蔵〕  活字は小生が追加
元図は、 鎌ケ谷市郷土資料館発行の平成23年度企画展図録『絵図と地図でみた鎌ケ谷の400年』(2012)より

先の小字について情報は、明治10年(1877)ごろに作成された「粟野村地引絵図」と『鎌ケ谷市史  別巻』(2003) P.20 の図から得ました。
市域全体の小字についての正しい情報を得たい方は『鎌ケ谷市史  別巻』を参照されるといいと思います。


『鎌ケ谷市史  資料編Ⅴ(民俗)』(1993) P.25 の図では、大字粟野の「長谷津」と「堀尻」の名称が欠落しています。
また、私が小字のリファレンスとして頼りにしている『鎌ケ谷市史資料集7 民俗』(1971)の P.18次頁挿図「大字粟野」では、どうしたことか 「谷津鼻方」から「長谷津」までの細長い地域部分の図自体を欠いています。

なお、「粟野村地引絵図」については、前に以下の記事でふれています。

 鎌ケ谷の古い地図(3) 粟野村地引絵図〈1877ごろ〉



前述の「長谷津」という小字名ですが、今でも貯留地や公園の名前として残っています。
今回のコースには含まれていませんが、川筋をさらにいくと以下のような景色が見られます。

kiさんに聞いてわかった細い長谷津貯留地 フェンスの左側が大津川支川


大津川支川(長谷津水路)沿いにある長谷津第二公園


さらに下流にある長谷津公園

このあと大津川支川(長谷津水路)は、市制記念公園の脇を抜け、粟野の森沿いに延びる市道2130号線の西側を北上していきます。

粟野の森の西を流れる大津川支川 (下流に向けて撮影) 小字では堀尻

北部小学校の近くでは 集まった支川が一本の川となり、手賀沼に向かってさらに北上を続けます。

大津川合流地点 左手が下流 (コンクリート三面張りではない川)

大津川については 以下でちょっとだけ詳しくふれました。

 ➜ 粟野の森の近くを流れる川の名前は?


 ➜ 鎌ケ谷の野馬土手(15) 道野辺八幡神社内の林に残る野馬除土手跡

 

2013年11月3日日曜日

鎌ケ谷の野馬土手(13) 稲荷前三差路近くの勢子土手跡

かつては野馬の水呑み場跡(東武団地調整池)から北へと勢子土手が延びていました。
その土手の跡の一部が、稲荷前三差路近くに残存しています。

稲荷前三差路から南に延びている道路の東側にあります


土手の近くにはベンチが置かれており、休憩ができます


反対方向から見たところ


歩いている人の背丈よりもずっと高いことがわかります


草に覆われていますが、土手の盛り上がりが見てとれます


この野馬土手には、珍しく 市教育委員会による史跡の標柱が立っています。
下の写真を撮ったのは 今年の暑い夏まっ盛りの時期でした。
標柱を覆って草が生い茂り、撮影の邪魔でした。
お仲間のTさんが手早く取り除いてくれて、うまく写真に収まりました。

市教育委員会による史跡の標柱 (表)


市教育委員会による史跡の標柱 (裏)

裏側の説明書きは「野馬除土手」についてふれていますが、この土手は「勢子土手」です。


➜  鎌ケ谷の野馬土手(12) 野馬の水呑み場跡(東武団地調整池)

➜  鎌ケ谷の野馬土手(14) 山屋食品の南に残る勢子土手跡

 

2013年11月2日土曜日

鎌ケ谷の野馬土手(12) 野馬の水呑み場跡(東武団地調整池) 

下野牧の捕込をあとにして、井草三叉路(三差路)を渡ります。
三差路には芭蕉俳諧の流れを汲む三級亭魚文の句碑が建っています。

木下街道に面して建つ句碑は 道標を兼ねています

この句碑については、以前に「鎌ケ谷 散策マップ(2)  鎌ケ谷大仏コース」 に書きましたので、ご覧ください。

さて、北西に向かって進むと、大きな調整池が見えてきます。
かつての丸山溜井、現在の東武団地調整池です。

東武団地調整池を東南に向かって見たところ

この池は、江戸時代の昔から大きさや形はそれほど変わっていません。
江戸時代の面影を色濃く残している明治13年発行の『迅速測図』を見てみましょう。

鎌ケ谷大仏周辺 左上が丸山溜井、中央右寄りが下野牧の捕込

この丸山溜井は野馬の水呑み場だったことがわかっています。
池と野馬土手の間に広い場所がありますが、その辺りで水を飲んでいたのではないでしょうか。
この部分は、東武団地調整池となるときに掘り下げられ、現在は水面下となっています。

天保14年(1843年)に描かれた「鎌ケ谷村絵図」を見ると、池の周囲の土地の使われ方がよくわかります。

鎌ケ谷村絵図 (天保14年〈1843年〉) 〔白井敏氏所蔵〕
鎌ケ谷市郷土資料館発行の平成23年度企画展図録『絵図と地図でみた鎌ケ谷の400年』(2012) P.6 から一部切り取り

丸山溜井から流れ出した3本の川が木下街道と交わるところには、それぞれ橋が架けられていたことが見て取れます。
また、鎌ケ谷八幡神社の隣には下野牧の捕込もしっかりと描き込まれています。

調整池からの流れは、暗渠となって井草(小字名)を通り抜けたあと、井草水路として姿を現わし、鎌ケ谷と船橋の市境を越えてから 「二重川」という名前になります。
そして、北東へと向かい、船橋市小室町の北で神崎川に合流します。

二重川を下流へ向けて撮影


話題は変わりますが、どこの調整池も冬場はカモ類のメッカとなります。
東武団地調整池にも寒くなると北から多くの種類のカモが渡ってきます。
でも、ここでは一年中 マガモのような鳥が見られます。

これはマガモでしょうか?

マガモのような模様をしていても 体はずっと大きくて、渡りをしないで一年中いるの鳥はアヒルだと聞いたことがあります。
左側の大きく見える鳥は、そのアヒルかもしれません。


 ➜ 鎌ケ谷の野馬土手(13) 稲荷前三差路近くの勢子土手跡

 

2013年11月1日金曜日

鎌ケ谷の野馬土手(11) 船橋市咲が丘に残る下野牧の捕込跡

鎌ケ谷市に残っている野馬土手の跡は、主に中野牧に属しています。
中野牧の南には下野牧(しものまき)が接しており、鎌ケ谷大仏から歩いてすぐの場所には下野牧の捕込跡が一部残存しています。

大仏十字路から井草三叉路の方へと歩くと、左手に千葉興業銀行が見えてきます。
道路を隔てて その反対側に下野牧の捕込跡があります。
その所在地は鎌ケ谷市ではなく、船橋市咲が丘です。

畑の奥に捕込の跡が見えます
作業をしている農家の方に必ず許可を得てから 土手へと進んでください


ここまで近づくと土手がはっきりとわかります


土手の盛り上がりがよく残っています


土手の上から見たところ


下から見上げたところ

かつての中野牧のようすは 絵の形で残っていませんが、この下野牧の絵は残っています。
江戸時代の観光案内とでもいうべき『成田参詣記』〔別名 『成田名所図会』〕(安政5年〈1858〉)の巻三には、下野牧の野馬捕りの絵が5面にわたって載っています。

『成田参詣記』原本  (千葉県デジタルアーカイブより)

なお、『成田参詣記』の作成者は、国立国会図書館サーチによると、「中路定俊(1783~1838)著、中路定得(1821~1870)補校、長谷川雪堤(1819~1882)ほか画」となっています。

ちなみに、以下の「下野牧野馬執の圖」を描いたのは「雪航」という人のようです。印の上にも「佐倉藩 雪航画」と書いてあります。
「雪堤」の印は、瓢箪の形の図案で囲まれ、縦書きで名が入っています。
印章を見ると、『成田参詣記』の図は 多くの人によって描いていることがわかります。

「下野牧野馬執の図」  其 一 (『成田参詣記』より)

まず、野馬捕りです。
勢子たちが、棒をもって馬を追っています。

其 二   「穿處(うど)へ追い入るの図」   (同 上)

「うど」というのは、「大込」と同じです。
第2回でふれたように、鎌ケ谷総合病院には「大込」の土手が残っていましたね。
「大升」(おおます)や「袋ごめ」ともいったようです。
野馬をまず「うど」へ追い込んでおいて、それからあらためて捕込へと追い込みました。

其 三   「込へ追こむの図」   (同 上)

「うど」から捕込へと追い込んでいます。

其 四 (同 上) 『総常日記』(文化12年〈1815〉)からの引用あり

清水浜臣(1776~1824)著の『総常日記』からの引用部は、

  「牧使ひ 心して捕れ 春までは
       野飼ひの牝駒 身籠もりぞする」

と読むのでしょうか。  やさしいこころねのうたです。

前半部分が どうしてもわからなかったのですが、古文書講座でいつもお世話になっているN先生のご教示で何とか読み取れました。

なお、『成田参詣記』の本文にも『総常日記』から長文で引用されており、読むと野馬捕りのようすが詳しくわかって面白いです(これは翻刻されたものを読みました)。

   「下野牧込之圖」(左)    其五「野馬を込より引立るの図」(右)

「下野牧野馬執の図」の其一~四は、鎌ケ谷市のパンフレット『国史跡 下総小金中野牧跡』にも載っています。
パンフレットに載っている図では文字が判読できないので、上の図は復刻本を利用しました。

すぐ上に掲載した「下野牧込之圖」と合わせて 次の絵を見ると、全体的にはどんな形をしていたのかが よくわかります。

上野牧捕込全体図 (『船橋市史  前篇』(1959)より)


下野牧の捕込は、昭和56年(1981年)5月26日~6月10日にかけて、船橋市遺跡調査会により発掘調査が行われています。
その詳細については同会発行の『小金下野牧捕込遺跡』(1982)にまとめられています。
調査当時の写真を見ると、30年前にはもっと広い範囲で下野牧の捕込が残っていたことがわかります。

下野牧捕込を西から撮った写真 (『小金下野牧捕込遺跡』(1982)より)


下野牧捕込を東から撮った写真  (同 上)


 ➜ 鎌ケ谷の野馬土手(12) 野馬の水呑み場跡(東武団地調整池)