2014年12月9日火曜日

北総の宗像神社(3) <印西市・瀬戸>

印西市(大字)瀬戸1081番に 瀬戸地区の宗像神社はあります。

瀬戸宗像神社とその周辺
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用



1 神社前にある石塔


神社の前には土盛りをされて塚のようになった 細長い三角形をした場所があり、多くの石塔が並んでいました。

鳥居の前には 多くの石碑が建っています

これらの仏教関係等の石塔は、神社境内に置くわけにはいかないため、この場所に集められたのではないでしょうか。

中には光明真言塔が建っていました。
石塔の上部に、真言部分が比較的よく残っており、興味を惹かれました。

光明神咒供養塔こうみょうじんしゅ くようとう」 嘉永5年(1852)建立

「真言」とは 「マントラ」の訳語であり、密教における「仏の教えや功徳などを秘めている呪文」であるといいます。

「光明神咒供養塔」の真言部分

下図は、鎌ケ谷市佐津間にある「光明真言道標」の真言部分を写したものです。
上の写真の「光明神咒供養塔」とは、円く配列したときの文字の傾きに違いがありますが、文字自体は同じです。

『鎌ケ谷市史  資料編 Ⅱ  (金石文)』 P.155 より

23の梵字(種子しゅじ)からなる「陀羅尼」(仏の教えの精髄を凝縮しているとされる呪文)が、最下部 6時の位置の文字から 時計回りに円く配置されています。








唱え方や意味は、以下のとおりです。

オン ア ボ キャ ベイ ロ シャ ノウ
マ  カ  ボ  ダラ マ  ニ ハン  ドマ
ジンバ  ラ ハラ  バ  リタ  ヤ ウン

唵 阿謨伽 尾盧左曩
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽

オーン(聖音) 不空なる御方(不空成就如来)よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ
偉大なる印を有する御方(阿閦あしょく如来)よ 宝珠マニ宝生ほうしょう如来)よ 蓮華ハンドマ阿弥陀如来)よ
光明ジンバを 放ち給え フーン(聖音)

 「五智如来(上記の五大如来)よ、智慧と慈悲をたれてお救いください」といった意味なのでしょう。

なお、以下で CDに収録されている光明真言の読誦どくじゅを試聴できます。

 ➜  HMV  ONLINE 高野山真言宗  壇信徒勤行


中央にある5文字は「胎蔵界大日真言」です。
大日如来に祈るときの呪文であり、 中央 → 下 → 左 → 上 → 右 の順(「の」の字状)に読みます。

   ア    ビ    ラ  ウン ケン

五大である「地 水 火 風 空」を表しているそうです。

下の写真は鎌ヶ谷市佐津間にある光明真言塔です。
残念ながら、上部にある 呪文(陀羅尼と真言)は、残念ながら すでにかなり薄れてしまっています。

参 考 鎌ケ谷市佐津間にある「光明真言道標」


「光明神咒供養塔」の近くには「甲子」と刻された 庚申塔のようなものが建っていました。
下部には、大黒天が陰刻されています。

甲子塔こうしとう 明治18年(1885)建立

甲子塔は、広義の日待塔ひまちとうの一種だといいます。
日待塔は以下のように分類されるそうです。
 ➀ 狭義の日待塔
 ➁ 月待塔 (二十三夜塔など)
 ➂ 庚申塔 ・ 甲子塔 ・ 己巳塔の類
 ➃ 念仏塔 ・ 題目塔の類
 ➄ その他 (代参講の類など)

甲子きのえねまたは子の日に、講中または個人で夜遅くまで起きていて、精進供養(祭祀)をする行事を子待(ねまち)または甲子待(こうしまち)というそうです。
子待の礼拝本尊は大黒天(大国主神おおくにぬしのかみ)であり、きのえねとか子の日の夜に、当番の家でご馳走をつくり、一室に大黒天の掛軸をかけて灯明や供物を供え、講中一同集まって礼拝したのち 飲食・歓談して楽しい一夜を過ごしたといいます。
(以上、雄山閣『日本石仏事典』を参照。)



2 瀬戸宗像神社


では、本題の宗像神社を見ていきましょう。

宗像神社の全景 社叢林に覆われています


宗像神社の鳥居 (両部鳥居)


宗像神社の拝殿


宗像神社の簡単な説明書きがありました

大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「六合村誌」には、村社 宗像神社の一つとして以下のように書かれています(後編 P.385)。

 (1) 村社 宗像神社

瀬戸村 字宮作みやさくにあり、田心姫命たご(ぎ)りひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと素盞男命すさのおのみことを祭る。
寛和かんな元年(985)9月、筑前の国 宗像郡田嶋より瀬戸村に勧請し、「宗像大明神」と唱え来たり。
弘化元年(1844)、社号改め「宗像神社」と唱う。

祭日は往古より9月28日にして、明治42年2月26日、許可を得て 瀬戸字宮作にありし無格社・天王神社を本社に合祀す。

社殿(本殿)、間口 5尺 奥行き5尺。 拝殿、建坪 8坪。
鳥居、高さ 1丈(3.03m、10尺)3尺。 冠木(かぶき)、長さ 2丈。
瑞垣(みずがき)、延長 15間2尺。
水盥(みずだらい)(手水鉢)、高さ 1尺5寸、幅 1尺5寸、長さ 3尺5寸。
境内、355坪あり。 氏子114戸を有す。

境内1社を祭る。 即ち、
 ・御嶽神みたけ(?)社 国常立尊くにのとこたちのかみ大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなびこなのみことを祭る。明治12年12月の創立にして、建物 2尺四面。(「神社明細帳」より)


龍の彫刻がありました 扁額は すでに読み取れず残念


宗像神社の本殿


後方から見た 宗像神社の拝殿と本殿


御嶽神社 外側の覆屋おおいや


覆屋の中に鎮座している 御嶽神社


「(1)  村社 宗像神社」の記述には、「官報報告に云える」として以下のとおり重要なことが付け足されています。

創建年代詳らかならず。されど『佐倉風土記』に「宗像神社」と載する所のもの、ただ一社のみ、曰く、「宗像神社 在瀬戸村遷祭筑紫宗像神社焉」と。
 ➜  参 照 『新撰佐倉風土記』 見開き 二十六 (コマ番号 38)

『佐倉風土記』については、千葉大学図書館のホームページに 以下のように書かれていました。

佐倉藩家臣・磯辺昌言いそべ まさのぶにより享保7年(1722)に完成した。
元禄14年(1701)に佐倉藩主になった稲葉正往いなば まさみち(正通)の命を受け編纂したものであり、漢文地誌の様式通り、封域・風俗・城郭・郡村・山川・人物・古蹟を記している。
下総の地誌としては最も古く、後に明治になって、誤りを修正し現況を加えたものが『新撰佐倉風土記』として刊行された。
文字等   の誤りを訂正し、文章を若干直しました。)

以下の部分は『佐倉風土記』以外の古文書からの情報によるものでしょう。

天保12年(1841)3月12日、神祇官領・卜部良芳卿より奉幣・奉額あり。
文政10年(1827)9月、領主・堀田正睦ほった まさよし殿、領地巡検の際、宮免(みやめん)として田一反歩の寄進あり。
文政丁亥年(1827)9月、御地頭・堀田相模守紀朝臣きのあそん正篤殿より、拝殿造営の際、幣帛料として500疋下賜せらる。


境内には、別宮や合祀された多くの祠が並んでいました。
めずらしいことに、いくつかの祠には説明書きが付けられています。
元はすべての祠に付けられていたのでしょう。

左 「子安神社」、右 「疱瘡神社」


左 「三峯神社」、中央「八坂神社」、右 「羽黒権現」


左 「第六天神社」、中央 「稲荷大明神」、右 不明


本殿の隣に 瀬戸地区構造改善センターが建っています



3 瀬戸地区構造改善センター


旧印旛村地域に置かれている地区構造改善センター。
瀬戸地区が、真珠院の境内にある造谷地区の次の訪問先となりました。

瀬戸地区構造改善センターの庭には 遊具が置かれています


瀬戸地区構造改善センターの建物


玄関の表札には 「平成2年3月吉日」に完成と記されていました

瀬戸地区構造改善センターの前には、道路沿いに 消防団の建物がありました。

印西市消防団 第一分団第一部 の建物

上の建物は、きっと印旛村時代の古くからあるものなのでしょう。
印旛村の「旛村」の部分だけ、印西市の「西市」に塗り直したようです。

印西市を歩いていると消防団の建物をよく見かけるので、印西市の消防団組織を調べてみました。

 ➜  印西市消防団の組織概要

13分団あり、それらは4つの方面に分けられています。
13ある分団はさらに2~5の部に細分化されおり、すべてで46部あります。
鎌ケ谷市には8分団があるだけですから、印西市が市域の広さに対応して、いかに大きな消防団組織をもっているのかが分かります。


➜  北総の宗像神社(2) <印西市・鎌苅かまがり

➜  北総の宗像神社(4) <印西市・山田>