(1) 塚崎運動場にて
塚崎運動場の野球場 |
野球場の照明鉄塔も 近くで見ると巨大です |
「沼南」というプレートが付いた下水の蓋 |
アキノタムラソウ(秋の田村草) シソ科 アキギリ(サルビア)属 |
アキノタムラソウには、イチモンジセセリが吸蜜にきていました。
(2) 塚崎神明社の裏参道入口にて
塚崎運動場の隣には、塚崎地区の鎮守である神明社があります。
塚崎神明社の参道は、二つあります。
今回は裏参道の入口を訪れました。
塚崎神明社の裏参道入口 |
鳥居の近くには「竣功記念之碑」という記念碑がありました。
手賀沼土地改良区 塚崎支部土地改良事業「竣功記念之碑」 |
碑文としては長文ですが、この周辺の土地の記録として、とても意味があるものだと思います。
長文ですので、小見出しを付けて 以下に書き写します。
竣功記念之碑
塚崎支部土地改良事業概要
大津川工区塚崎地区の農地は、手賀沼南部に面し、手賀沼の流入河川である大津川の右岸中流部に位置した湿田地帯である。
流域は、鎌ケ谷市・松戸市・柏市・沼南町に跨がり、面積は3,806ヘクタールあまりに及んでいる。
また、その沿岸耕地面積は、192ヘクタールあまりとなっている。
当初、大津川の河川幅は3メートルから4メートルの蛇行した河川であり、沿岸耕地は耕作道も少なく、畔道がほとんどであった。
水田の用水源は湧水と雨水を利用するとともに、大津川からの汲み上げによるほか、中下流区域は昭和の初期に大津川に設置された名称「竜巻の堰」より導水し、田越しによる灌漑を行っていた。
用水の減少 ・ 水質汚濁の進行
このような状況のなか、高度経済成長、都市化の波は 大津川流域にも及び、その影響を受け、沿岸耕地の用水源である湧水並びに河川の流量は減少傾向となり、同時に水質汚濁の進行により、農業用水の確保が困難になった。
それとともに、降雨時には洪水となり、水田が河川に変わることが頻繁であった。
このため、農作物の被害は大きく、沿岸地域の農家にとっては大変な苦労を余儀なくされ、農業を脅かすに至っていた。
泉揚水機場
この時期、手賀沼沿岸の洪水を排除し 営農基盤の安定を図るため、国営手賀沼干拓土地改良事業により 昭和31年(1956)10月、毎秒40トンの排水能力(当時 東洋一)を持つ「手賀排水機場」が完成した。
併せて手賀沼周辺の耕地2,400ヘクタールあまりに用いる農業用水確保のため、基幹揚水施設の建設が着々と進められた。
基幹揚水施設である「泉揚水機場」は、昭和38年(1963)度着工となり、農業用水は確保されるに至った。
その受益面積は900ヘクタールあまりで、手賀沼南部地域の柏市・沼南町・白井町の3市町に跨がっている。
大津川工区と塚崎支部の設立
これを見るに、大津川沿岸の農家408名は、大規模基盤整備による農業生産の向上を図るため、昭和39年(1964)3月、手賀沼土地改良区に編入の後、大津川工区並びに塚崎支部を設立した。
県営圃場整備事業 手賀泉一期地区に続いて、本地域は昭和42年(1967)度 手賀泉二期地区として採択され 工事開始の運びとなった。
塚崎地区耕地面積33.7ヘクタールの関係地権者137名は、事業の早期達成のため 一致協力のもと日夜邁進され、昭和44年(1969)、塚崎地区の字芦川より字三斗蒔に至る耕地全ては、大津川沿岸耕地とともに着工となった。
また、大津川の拡幅と 農道及び用・排水路用地は 受益者である関係農家の減少により確保され、昭和45年(1970)3月、30アール区画の圃場整備事業は完了に至った。
その後 そして 現在
その後、暗渠排水工事・大津川架橋等の附帯工事が進められ、併せて昭和49年(1974)6月、換地総会において換地計画を樹立し、昭和53年(1978)12月に登記完了となった。
なお、これらの事業の総事業費は 7億7千8百万円を費やされ、事業費の地元負担25パーセントについては、その80パーセントを 20年償還の借入により補われ、昭和53年度、事業完成の運びとなった。
それ以後は、維持管理による補修工事等を重ね、圃場整備事業完了 20余年を経過し、借入金の償還も全て終了した。
現在は、手賀沼周辺の優良農地となり、大都市近郊の食料生産地として確立されている。
謝 辞
21世紀を目前に その展望が開かれ 次世代に引き継がれることは、関係組合員の総力結集の成果であり、本事業にご尽力された農林水産省・千葉県・柏市・沼南町の関係機関を始め 心血を注がれた先人諸賢に対し、深甚なる敬意を表し 厚く感謝申し上げる次第であります。
茲に本事業の竣工にあたり 記念碑を建立、縁因を刻し 後世に永く伝えんとするものであります。
平成11年(1999) 5 月 吉 日
手賀沼土地改良区理事長 岩 井 辰 雄 題字書
手賀沼土地改良区事務局長 古 永 哲 彦 撰
鳥居の傍らにある「宗教法人 神明社」という標石 右に見える道路は 千葉県道8号線(通称「船取線」) |
鳥居の左には小祠が見えます |
この小祠「一ノ宮」についての 説明書きが立っています |
この説明書きも書き写してみました。
一 ノ 宮
「一ノ宮」とは、その国で最も神格の高い神社といわれますが、このお社には少し異なる由来があります。
鎌倉時代末期、人々は神明社を参拝する際に、神々の通られる表参道を歩くのは恐れ多いことと考え、氏子地域の方に向けて裏参道を造りました。
神聖なる境内に入ると、まず一ノ宮で祈りを捧げ、身を清め 心を正し、石段を上り神殿を目指したといいます。
この一ノ宮は、神明社参拝で最初にお参りする神社として この地に祀られたのでしょう。
裏参道入口に建つ鳥居 靖国鳥居です |
裏参道 石段は ゆるやかに社殿へと続いています |
塚崎神明社については、後日あらためて訪ねる予定です。