所在地は、千葉県香取郡
現在、旧「十余三区」の大半は 多古町に属し、一部が大栄十余三として成田市に属しています。
この周辺は、江戸幕府によって管理されていた馬の放牧地でした。
明治になり、牧であったこの地は農地として開拓されました。
一連の開拓地の13番目であったことから、この地は「十余三」と名づけられました。
「十余三」の読み方については、いまでは「とよみ」とよばれていますが、命名の当初には「とよみつ」と読んだようです。
『野馬土手は泣いている』で有名な青木更吉氏は、「東京新田」として、明治初期に開拓された13カ所を取り上げています。
青木更吉 『「東京新田」を歩く』(崙書房出版 2011)より引用 |
これら13の「東京新田」は、開墾局知事であった北島秀朝によって以下のように名づけられています。
➀
➁
➂
➃
➄
➅
➆
➇
➈
➉
⑪
⑫
⑬
漢学の素養を感じさせる素晴らしい命名であり、これらの地名はいまも用いられています。
なお、「十余一」の読み方については、いまでは「とよいち」とよばれていますが、命名の当初には「とよひと」と読んだようです。
赤池稲荷神社については、『多古町史(上巻)』の728~729ページに詳しく書かれています。
明治21年(1888)、現在地に移されています。
鳥居には、いまも「豊作稲荷大明神」という神額が懸かっています。
なお、これらのことは、以下のサイトにも端折って書かれています。
鳥 居 奥に見えるのは神楽殿のような拝殿 |
神額には「豊作稲荷大明神」とあります |
参 道 正面は横拝殿です |
拝殿 建物の向こう側に見えるのは 本殿 |
拝殿 右側から見た全景 |
神楽殿を兼ねています 舞台に上がれるようになっています |
「奉納」とある扁額 ここでは「赤池十二神楽」が奉納されました |
「赤池十二
下記の情報によると、2003年以降は奉納されていないそうです。
神楽殿の内側 |
奉納の札 右端の札には「奉納 拝殿 昭和27年(1952)」とあります |
額が4枚かかっていました 奥に見えるのは本殿 |
神楽殿の後方から鳥居側を見たところ |
境内から鳥居の方を見返した景観 |
境内に本殿を建て替えたときの記念碑がありました。
「赤池稲荷神社 本殿造営記念碑」 由来が刻されています |
鳥居には「豊作稲荷大明神」とありますが、地元では「赤池稲荷神社」とよばれてきたようです。
記念碑には本殿造営の経緯についてふれていますので、以下に書き写します。
赤池稲荷神社 本殿造営記念碑
当社は明治初頭、開拓者が村の真ん中に石塔を祀り、農耕神お稲荷様として崇め、心をひとつに結束して成功を祈願したことに始まる。
先人の遺徳に感謝し、心を新たに敬虔な祈りを捧げるものである。
「本殿造営記念碑」の裏側には、平成17年(2005)建立とあります |
境内に同様な石碑は見あたりません。
それだけに、当社の由緒について詳しく述べられていないことが至極残念です。
また、『多古町史』の記述とは若干の異同があります。
表現にも正確さを欠いているように思えます。
本殿 1 左手から見たところ |
本殿 2 右手から見たところ |
本殿 3 正面 |
前には「祓詞」として、お祓いの言葉を書いたものが置かれていました |
本殿から鳥居に向かって戻りました。
神楽殿床下の旗竿丸太 |
手水舎 |
手水舎の水盤の裏には、本殿建て替えと同じ年が刻されていました |
静かな境内 |
神社は 社叢林にひっそりと包まれていました |
追 記 2017.03.31
横縦比 4:3 の写真が、掲載当初からのものです。
横縦比 3:2 (横長) の写真が、追加したものです。