2014年12月27日土曜日

印旛を歩く(7) 水神社すいじんしゃ (印西市・瀬戸)

印西市・瀬戸の徳性院から程近く 水神社すいじんしゃがあります。
印西ウエットランドガイドの里山調査で 徳性院の次に訪ねた場所です。

水神社とその周辺の地図
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用


徳性院同様、水神社も 印旛沼に面した切り立った崖の上にあります


水神社の小さな鳥居  くぐって境内に入ります


水神宮の社 周囲に石のベンチが多く設置されています


社には石祠が祀られています


社のそばの古木と地蔵像


美しい顔をしたお地蔵さん


水神社の真ん前は 印旛沼に面した崖です


水道が引かれていました カワセミ型のコック


サネカズラ(実葛、学名 Kadsura japonica) 別名 ビナンカズラ(美男葛)
水神社の近くで 赤い実をつけていました


道に戻り、印旛沼の近くまで下りると 土に交じって白いものが見えます


貝の化石でした 左上はマテガイ


➜  印旛を歩く(6) 徳性院とくしょういん (印西市・瀬戸)

➜  印旛を歩く(8) 八坂神社・庚申堂 (印西市・山田)


2014年12月20日土曜日

印旛を歩く(6) 徳性院とくしょういん (印西市・瀬戸)

印西ウエットランドガイドの里山調査で 印西市の瀬戸地区を歩きました。

https://docs.google.com/file/d/0B0eo8wCrTacCTmJvZ2F5VnJqS0E/edit?usp=drive_web
徳性院とその周辺の地図
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用

以下が当日のコースです。
➀ 瀬戸宗像神社 ➜ ➁ 子育火伏こそだて ひぶせ地蔵尊 ➜ ➂ 徳性院とくしょういん ➜ ➃ 水神社すいじんしゃ ➜ (瀬戸干拓) ➜ (双子橋) ➜ ➄ 双子公園(印旛捷水路しょうすいろ) ➜ (経費老人ホームよしきり) ➜ (願定院がんじょういん) ➜ ➅ 印旛中央公園・印旛公民館

瀬戸宗像神社は、以前訪れたときに記事を書いていますので省きます。
 ➜  北総の宗像神社(3) <印西市・瀬戸>
今回は、訪ねた中から真言宗豊山派の寺院 徳性院とくしょういんを取り上げます。
徳性院の所在地は、印西市(大字)瀬戸2226番地です。


徳性院の説明書きに、正式名称は「合集山 徳性院 多門寺」とあります


大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「六合村誌」の「第10章  寺院仏堂誌」には、以下のように書かれています(後編 P.393)。

 (5) 徳性院

瀬戸村 字梨子の木にあり、新義 真言宗豊山派にして、宝蔵院(松戸市の寺院)末なり。
十一面観世音菩薩を本尊とす。
それ、本尊 観音大士の由来は不明といえども、村民古老の口碑(古くからの言い伝え)に 当観世音は 仝村(瀬戸村)願定院の馬頭観音と同時に 行基僧正作と云い伝えり。

しかるに凡そ五百有余年以前、祝融(中国神話の火の神)の災いに罹り、諸堂宇、由緒 ともに灰燼す。
それ以後、堂宇すこぶる壮観を極むといえども、元治元年(1864)10月晦日、堂宇 大概焼失す。
わずかに該炎に残宇するもの、面門(山門?)、鐘楼堂等のみ。
その後、4ヶ年を経て、慶応3年(1867)、一宇 落成す。 今の客殿これなり。

客殿、間口 7間  奥行き 5間。 鐘楼、間口 2間  奥行き 2間。
門、間口 2間  通り間 2 間。 境内 1024坪あり。 檀徒 227人を有す。

境内庵室一宇あり。 即ち、
 ・大日庵   大日如来を本尊とす。 由緒不明。 建物、間口 5間 奥行き3間。


山門前にある石塔群 1  中央は 珍しい「七夜待塔」


石塔群 2  女人講の石塔が多く見られます 本尊は子育てに効験あり


徳性院の山門


山門を入って左側にある六地蔵 各地蔵の説明書きが右上にあります 


徳性院の客殿 本尊が観音堂にあるため 「本堂」とは呼ばないのでしょう


客殿に懸かっている扁額 右側にある小さな扁額にも注目


観音堂 神社ではないのに なぜ鰐口ではなく 鈴がついているのでしょう


観音堂の扁額   本尊である 秘仏 十一面観世音菩薩は 33年に一度 ご開帳


印西大師 第七十六番札所 大師堂


徳性院は、印旛沼に臨んだ 切り立った崖の上に建っています。
下の地図をご参照ください。

印旛沼に臨んだ崖上に建っている徳性院
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用


さらに先にゆくと 左右に広く印旛沼が見渡せました 曇だったのが残念


印旛沼に向かって 芭蕉の句碑が建っていました

芭蕉の句碑には 以下のように刻されていました。

  観音 甍見やり 花の雲    者せ越はせを

 ( 観音の 甍見やりつ 花の雲   芭 蕉 )

この句は貞享3年〈1686)の春に 深川の芭蕉庵で詠まれたものであり、庵から遠望した「観音の甍」とは 〈聖観世音菩薩〉を本尊とする浅草寺を指しているのだそうです。
ここ徳性院も 〈十一面観世音菩薩〉を本尊とするため、そうした縁でこの句碑が建てられたのでしょう。


➜  印旛を歩く(5) 印西市印旛支所 (印西市・美瀬)

➜  印旛を歩く(7) 水神社すいじんしゃ (印西市・瀬戸)


2014年12月15日月曜日

かまがや散策マップ(10) 軽井沢地区を歩く

 今回の「かまがや散策マップ」は、軽井沢地区です。


https://drive.google.com/file/d/0B0eo8wCrTacCNlE0QkQ0cFFtdlU/view?usp=sharing
画像をクリックすると、拡大できます

軽井沢地区は 鎌ケ谷市の北東に位置しています。
海上自衛隊の下総基地に面し、「クリーンセンターしらさぎ」や「鎌ケ谷市給食センター」といった市民生活に直結する施設が置かれています。


本コースの順路   

白井市のコミュニティバス「ナッシー号」 西白井3丁目 バス停
アクアセンターあじさい
さわやかプラザ軽井沢
さわやか環境緑地 ふれあい散歩道
軽井沢地区集会所
鎌ケ谷市給食センター
軽井沢自治会館
軽井沢八幡神社

さわやかプラザ軽井沢」の駐車場の奥には、2013年4月にオープンした 「 さわやか環境緑地 ふれあい散歩道」があります。
緑豊かな斜面には四季折々に花が咲き、目を楽しませてくれます。
詳しくは、以下の記事をご参照ください。

 ➜   「さわやか環境緑地 ふれあい散歩道」

 ➜   「さわやか環境緑地 ふれあい散歩道」 の竹林

軽井沢八幡神社」は 江戸時代から続く由緒ある神社であり、おすすめの散策スポットです。
いずれ「鎌ケ谷の神社」シリーズで取り上げるつもりです。


月~金曜日には、鎌ケ谷市のコミュニティバス「ききょう号」が運行されています。
さわやかプラザ軽井沢」エントランス前と 「 軽井沢八幡神社」の近くにはバス停があり、新鎌ケ谷駅前バス停との間をつないでいます。

土曜日には、上記の「本コースの順路」で行くのが便利です。
軽井沢八幡神社」と新鎌ケ谷駅の間は歩いていくことになりますが、途中には 以下の記事にあるような見どころがあり、飽きさせません。

 ➜   (5) 市民体育館横の野馬除土手

 ➜   秋の自然観察会 (郷土資料館 主催)

 ➜   市制記念公園 ~ 陸上競技場間の遊歩道

また、 の順に 逆コースを進んでみてもよいと思います。



➜  かまがや散策マップ(9) 粟野地区公園

➜  かまがや散策マップ(11) 粟野 いにしえ散歩


2014年12月13日土曜日

印旛を歩く(5) 印西市印旛支所 (印西市・美瀬)

旧印西市(1996年に単独市制施行)に、本埜村と印旛村が編入され、現在の印西市が誕生したのが 2010年のことです。
それに伴い、旧本埜村と旧印旛村の村役場は、印西市の支所となりました。
印西市は市域が広いので、市民課業務を取扱う窓口として、本庁と これら2支所に加え、7つの出張所があります。

本埜支所については、以下の記事でふれました。
 ➜  本埜の古刹(3) 龍湖寺(印西市・物木)

現在、印旛地域の市民課業務は、複合施設「ふれあいセンターいんば」内にある新しい印旛支所で行われています。
印旛支所旧庁舎(元 印旛村役場)は、平成26年度(2014年度)に解体撤去されました。

印旛支所旧庁舎 解体撤去工事のお知らせ

印旛支所旧庁舎の写真を撮っておかなかったことが悔やまれます。


旧庁舎は 「ふれあいセンターいんば」の左手に建っていました


旧庁舎があった場所周辺への 出入口案内


旧庁舎は解体撤去され、更地となっていました


臨時駐車場の案内図


印旛支所のある「美瀬」は「瀬戸」の北東にあります。
比較的最近まで、「美瀬」という地名の場所は「(大字)瀬戸」の一部でした。
(昭文社『エアリアマップ 千葉ニュータウン』(1992)で確認)

1889年(明治22年)の町村制施行以後、瀬戸には六合村の村役場が置かれました。
また、同じく 岩戸には宗像村の村役場が置かれました。
1955年に 六合村と宗像村が合併し印旛村となった後、その村役場は瀬戸に置かれました。
瀬戸は、まさにこの地域の中心地でした。
(角川書店『千葉県地名大辞典』(1984) 参照)


現在の印旛支所は 「健康づくりセンター」と書かれている建物にあります


「ふれあいセンターいんば」・印旛支所の玄関


複合施設「ふれあいセンターいんば」の中に 印旛支所が置かれています


定礎を見ると、2003年10月に落成したようです



館内に置かれていた マスコットキャラクターの「いんザイ君」

この「いんザイ君」は 「」という字のハンコを持っているんですね。


➜  印旛を歩く(4) 鷲宮わしのみや神社 (印西市・鎌苅かまがり

➜  印旛を歩く(6) 徳性院とくしょういん (印西市・瀬戸)


2014年12月9日火曜日

北総の宗像神社(3) <印西市・瀬戸>

印西市(大字)瀬戸1081番に 瀬戸地区の宗像神社はあります。

瀬戸宗像神社とその周辺
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用



1 神社前にある石塔


神社の前には土盛りをされて塚のようになった 細長い三角形をした場所があり、多くの石塔が並んでいました。

鳥居の前には 多くの石碑が建っています

これらの仏教関係等の石塔は、神社境内に置くわけにはいかないため、この場所に集められたのではないでしょうか。

中には光明真言塔が建っていました。
石塔の上部に、真言部分が比較的よく残っており、興味を惹かれました。

光明神咒供養塔こうみょうじんしゅ くようとう」 嘉永5年(1852)建立

「神咒」または「神呪」と「真言」は、どちらも 「マントラ」の訳語であり、密教における「仏の教えや功徳などを秘めている呪文」であるといいます。

「光明神咒供養塔」の真言部分
最初の文字と最後の文字の間には 句点〔休止符〕の文字(ダンダ)が刻まれています

下図は、鎌ケ谷市佐津間にある「光明真言道標」の真言部分を写したものです。
上の写真の「光明神咒供養塔」とは、円く配列したときの文字の傾きに違いがありますが、文字自体は同じです。

『鎌ケ谷市史  資料編 Ⅱ  (金石文)』 P.155 より

23の梵字(種子しゅじ)からなる「陀羅尼」(仏の教えの精髄を凝縮しているとされる呪文)が、最下部 6時の位置の文字から 時計回りに円く配置されています。








唱え方や意味は、以下のとおりです。

オン ア ボ キャ ベイ ロ シャ ノウ
マ  カ  ボ  ダラ マ  ニ ハン  ドマ
ジンバ  ラ ハラ  バ  リタ  ヤ ウン

唵 阿謨伽 尾盧左曩
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽

オーン(聖音) 不空なる御方(不空成就如来)よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ
偉大なる印を有する御方(阿閦あしょく如来)よ 宝珠マニ宝生ほうしょう如来)よ 蓮華ハンドマ阿弥陀如来)よ
光明ジンバを 放ち給え フーン(聖音)

 「五智如来(上記の五大如来)よ、智慧と慈悲をたれてお救いください」といった意味なのでしょう。

なお、以下で CDに収録されている光明真言の読誦どくじゅを試聴できます。

 ➜  HMV  ONLINE 高野山真言宗  壇信徒勤行


中央にある5文字は「胎蔵界大日真言」です。
大日如来に祈るときの呪文であり、 中央 → 下 → 左 → 上 → 右 の順(「の」の字状)に読みます。

   ア    ビ    ラ  ウン ケン

五大である「地 水 火 風 空」を表しているそうです。

下の写真は鎌ケ谷市佐津間にある光明真言塔です。
残念ながら、上部にある 呪文(陀羅尼と真言)は、残念ながら すでにかなり薄れてしまっています。

参 考 鎌ケ谷市佐津間にある「光明真言道標」


「光明神咒供養塔」の近くには「甲子」と刻された 庚申塔のようなものが建っていました。
下部には、大黒天が陰刻されています。

甲子塔こうしとう 明治18年(1885)建立

甲子塔は、広義の日待塔ひまちとうの一種だといいます。
日待塔は以下のように分類されるそうです。
 ➀ 狭義の日待塔
 ➁ 月待塔 (二十三夜塔など)
 ➂ 庚申塔 ・ 甲子塔 ・ 己巳塔の類
 ➃ 念仏塔 ・ 題目塔の類
 ➄ その他 (代参講の類など)

甲子きのえねまたは子の日に、講中または個人で夜遅くまで起きていて、精進供養(祭祀)をする行事を子待(ねまち)または甲子待(こうしまち)というそうです。
子待の礼拝本尊は大黒天(大国主神おおくにぬしのかみ)であり、きのえねとか子の日の夜に、当番の家でご馳走をつくり、一室に大黒天の掛軸をかけて灯明や供物を供え、講中一同集まって礼拝したのち 飲食・歓談して楽しい一夜を過ごしたといいます。
(以上、雄山閣『日本石仏事典』を参照。)



2 瀬戸宗像神社


では、本題の宗像神社を見ていきましょう。

宗像神社の全景 社叢林に覆われています


宗像神社の鳥居 (両部鳥居)


宗像神社の拝殿


宗像神社の簡単な説明書きがありました

大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「六合村誌」には、村社 宗像神社の一つとして以下のように書かれています(後編 P.385)。

 (1) 村社 宗像神社

瀬戸村 字宮作みやさくにあり、田心姫命たご(ぎ)りひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと素盞男命すさのおのみことを祭る。
寛和かんな元年(985)9月、筑前の国 宗像郡田嶋より瀬戸村に勧請し、「宗像大明神」と唱え来たり。
弘化元年(1844)、社号改め「宗像神社」と唱う。

祭日は往古より9月28日にして、明治42年2月26日、許可を得て 瀬戸字宮作にありし無格社・天王神社を本社に合祀す。

社殿(本殿)、間口 5尺 奥行き5尺。 拝殿、建坪 8坪。
鳥居、高さ 1丈(3.03m、10尺)3尺。 冠木(かぶき)、長さ 2丈。
瑞垣(みずがき)、延長 15間2尺。
水盥(みずだらい)(手水鉢)、高さ 1尺5寸、幅 1尺5寸、長さ 3尺5寸。
境内、355坪あり。 氏子114戸を有す。

境内1社を祭る。 即ち、
 ・御嶽神みたけ(?)社 国常立尊くにのとこたちのかみ大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなびこなのみことを祭る。明治12年12月の創立にして、建物 2尺四面。(「神社明細帳」より)


龍の彫刻がありました 扁額は すでに読み取れず残念


宗像神社の本殿


後方から見た 宗像神社の拝殿と本殿


御嶽神社 外側の覆屋おおいや


覆屋の中に鎮座している 御嶽神社


「(1)  村社 宗像神社」の記述には、「官報報告に云える」として以下のとおり重要なことが付け足されています。

創建年代詳らかならず。されど『佐倉風土記』に「宗像神社」と載する所のもの、ただ一社のみ、曰く、「宗像神社 在瀬戸村遷祭筑紫宗像神社焉」と。
 ➜  参 照 『新撰佐倉風土記』 見開き 二十六 (コマ番号 38)

『佐倉風土記』については、千葉大学図書館のホームページに 以下のように書かれていました。

佐倉藩家臣・磯辺昌言いそべ まさのぶにより享保7年(1722)に完成した。
元禄14年(1701)に佐倉藩主になった稲葉正往いなば まさみち(正通)の命を受け編纂したものであり、漢文地誌の様式通り、封域・風俗・城郭・郡村・山川・人物・古蹟を記している。
下総の地誌としては最も古く、後に明治になって、誤りを修正し現況を加えたものが『新撰佐倉風土記』として刊行された。
文字等   の誤りを訂正し、文章を若干直しました。)

以下の部分は『佐倉風土記』以外の古文書からの情報によるものでしょう。

天保12年(1841)3月12日、神祇官領・卜部良芳卿より奉幣・奉額あり。
文政10年(1827)9月、領主・堀田正睦ほった まさよし殿、領地巡検の際、宮免(みやめん)として田一反歩の寄進あり。
文政丁亥年(1827)9月、御地頭・堀田相模守紀朝臣きのあそん正篤殿より、拝殿造営の際、幣帛料として500疋下賜せらる。


境内には、別宮や合祀された多くの祠が並んでいました。
めずらしいことに、いくつかの祠には説明書きが付けられています。
元はすべての祠に付けられていたのでしょう。

左 「子安神社」、右 「疱瘡神社」


左 「三峯神社」、中央「八坂神社」、右 「羽黒権現」


左 「第六天神社」、中央 「稲荷大明神」、右 不明


本殿の隣に 瀬戸地区構造改善センターが建っています



3 瀬戸地区構造改善センター


旧印旛村地域に置かれている地区構造改善センター。
瀬戸地区が、真珠院の境内にある造谷地区の次の訪問先となりました。

瀬戸地区構造改善センターの庭には 遊具が置かれています


瀬戸地区構造改善センターの建物


玄関の表札には 「平成2年3月吉日」に完成と記されていました

瀬戸地区構造改善センターの前には、道路沿いに 消防団の建物がありました。

印西市消防団 第一分団第一部 の建物

上の建物は、きっと印旛村時代の古くからあるものなのでしょう。
印旛村の「旛村」の部分だけ、印西市の「西市」に塗り直したようです。

印西市を歩いていると消防団の建物をよく見かけるので、印西市の消防団組織を調べてみました。

 ➜  印西市消防団の組織概要

13分団あり、それらは4つの方面に分けられています。
13ある分団はさらに2~5の部に細分化されおり、すべてで46部あります。
鎌ケ谷市には8分団があるだけですから、印西市が市域の広さに対応して、いかに大きな消防団組織をもっているのかが分かります。


➜  北総の宗像神社(2) <印西市・鎌苅かまがり

➜  北総の宗像神社(4) <印西市・山田>