2013年12月30日月曜日

ツンベルク (その5) その著作

ツンベルクの著作についてまとめておきたいと思います。
日本では、昭和以降、彼の著作は2冊が出版されたのみであり、現在 新本で入手できるのは1冊のみです。
ところが、ヨーロッパでは今もって出版物が刊行されており、その多さに驚かされます。
しかも、著作のほとんどがインターネットにより無料で目にすることができます。

1 博士論文


最初に博士論文です。静脈に関するものでしょうか。
当時の植物学者の多くは医学を学んでおり、まず医師として生活の基盤を得ていました。

➜ 博士論文  De venis resorbentibus(1767 大学に提出)

4ページ目に母親の再婚相手である ガーブリエル・フォッシュベリ(Gabriel Forsberg)の名前と 自分の母親 マルガレータ・スタルクマン(Margaretha Starkman)の名前が大きな文字で印刷されています。自分を養ってくれた義父と母への感謝をこめた献辞でしょう。

博士論文における 義父と母親への献辞


2 日本植物誌


次に、Flora Japonica (『日本植物誌』)です。
これもラテン語で書かれています。

Flora Japonica(1784)

この本は、文政12年〔1829〕に『泰西本草名疏』(たいせいほんぞうめいそ)として花繞書屋というところから翻訳出版されています。
訳者は、シーボルトから直接 植物学(本草学)の手ほどきを受けた伊藤圭介(舜民)です。

 Wikipedia 伊藤圭介

1827年、彼はシーボルトからこの原著を手渡され、その2年後の1829年に翻訳・出版しています。
幸いなことに、『泰西本草名疏』は 早稲田大学の古典籍総合データベースで読むことができます。以下がリンク先です。

➜ 早稲田大学 古典籍総合データベース  『泰西本草名疏』

➜ 『泰西本草名疏』(上巻) (1829)

➜ 『泰西本草名疏』(下巻) (1829)

➜ 『泰西本草名疏附録』 (1829)

 

3 旅 行 記 


3つ目に、旅行記です。
まず、スウェーデン語による原著。

➜ Resa uti Europa, Africa, Asia (1788)


次は、山田 珠樹(訳註)による『ツンベルグ日本紀行』(駿南社) 昭和3年〔1928〕の底本となった仏訳本です。旅行記の部分的な翻訳です。
2巻に分かれていますが、第1巻の終わりの方で日本への紀行についてふれはじめたかと思うと第2巻につづくとなって終わります。
フランス人の商売のうまさを感じます。
なお、自然誌に関わる部分はラマルクが校訂を行っています。
用不用説で有名な進化論者ラマルクですが、元々は植物学者であったようです。
下記のリンク先は、なぜか本来あったはずのツンベルク肖像の口絵が欠けています。

➜ 仏訳本  Voyages au Japon  第1巻 (1796)

➜ 仏訳本  Voyages au Japon   第2巻 (1796)

上の仏訳本から日本紀行に関する部分だけを訳出したのが、以下の山田珠樹による『ツンベルク日本紀行』です。

➜ 邦訳『ツンベルグ日本紀行』(駿南社) 昭和3年〔1928〕

『ツンベルグ日本紀行』とほぼ同じ範囲を翻訳してあるのが 平凡社刊の『江戸参府随行記』です。
書名で誤解されそうですが、江戸参府のことだけではなく、日本滞在中のすべてのことがカバーされています。
こちらは 高橋文氏によるスウェーデン語原典からの翻訳です。

山田訳は インターネットで見られることと、古書でしか入手できないことから、こちらの本の購入をお勧めします。
高橋訳は山田訳を参考にしていますし、地名や人名等も現在一般的に用いられている読み方になっています。
通常版とワイド版があり、新本が購入可能なようです。
絶版となった場合には、古書またはオンデマンド版で入手できます。

 Amazon  『江戸参府随行記』 (ワイド版東洋文庫 583)(平凡社)

『江戸参府随行記』(通常版)(平凡社)(1994)

この原典からの翻訳を山田訳と比べて読むと 章の順序に違いがあります。
仏訳する段階で編集し直され、文章の順序が入れ替えられたようで、仏訳本と山田訳本は 目次の並び順が同じです。
このことは、山田訳本の「序」 XI ページでもふれられていて、文章自体にも手が加えられているため、訳出する際に記述の仕方を工夫するかどうか迷ったと書かれています。そして、参考にした英訳版はスウェーデン語原典の順序どおりだったと述べています。

この本の抜き書き帳のような記事があります。以下のサイトです。

 ➜ ツュンベリーの記録――江戸参府随行記  (オロモルフ)

この記事を書いたオロモルフという人について調べたら、なんと SF作家として有名な石原藤夫氏でした。


欧米では今なおツンベルクの著作に関する新しい出版がなされています。
以下は、日本旅行記の部分を英訳した本であり、イギリス、アメリカ、カナダで同時発行されました。
新しいだけあって、挿絵の質が高く大変きれいです。
しかも、原著にない挿絵を大量に載せており、飽きさせません。
まだまだ版権が有効なため、以下のリンク先では3分の1程度しか目をとおせませんが、ぜひご覧いただきたいと思います。

➜ 英訳本  Japan Extolled and Decried  (2005)


➜ ツンベルク(その6) ウプサラ大学 資料 (1)  「使徒たち」

 

2013年12月29日日曜日

ツンベルク (その4) Art Directory 記載の略伝

前に「ツンベルク (その2)」でご紹介した Art Directory  Carl Peter Thunberg の記事には、山田珠樹によるツンベルク略伝には書かれていないことが いくつか載っていることががわかりました。
そこで、拙訳ですが以下に掲載します。
なお、訳出に当たっては、「ツンベルク」を原語の発音に近い「トゥーンベリ」と表記しました。


 カール・ペーテル・トゥーンベリ


 カール・ペーテル・トゥーンベリ(Carl Peter Thunberg)は、1743年11月11日にスウェーデンのヨンショピング(Jönköping)で生まれた。カール・リンネの弟子としてウプサラ大学で医学と自然哲学(natural philosophy)を学んだ。1767年には博士論文 Dissertationem physiologicam De venis resorbentibus (ラテン語にて訳出できず)を提出した。1770年にはパリ、アムステルダム、ライデンで勉学を続けた。

 アムステルダムでは、カール・リンネの推薦があり、ヨハネス・ビュルマン(Johannes Burman)からオランダの植民地と日本を訪問する機会がトゥーンベリに与えられた。植物園のための植物採集が目的である。トゥーンベリは1772年4月にケープタウンに到着した。そこでは植物標本を収集するという使命のために多くの危険を冒した。研究で滞在していた1772年、医学博士号を授与された。

 1775年、ジャワへと旅を続け、バタヴィア(インドネシアのジャワ島にあり、現在名はジャカルタ)、サマラン(ジャワ島北岸の港湾都市、インドネシア語ではスマラン)、ボイテンゾルフ(ジャカルタの南約60kmにあり、現在名はボゴール)を訪れ、2カ月間滞在した。その後、日本へと向かった。

 同年、出島(長崎港にある人工島)のオランダ東インド会社に到着した。そこでは外科医として1776年まで勤務した。

 ジャワ、セイロン島のコロンボ、ケープタウンでの短い滞在を経て、1778年にアムステルダムに到着した。

 故国に最終的に戻る前にはロンドンを訪れた。そこではジョゼフ・バンクス(Joseph Banks)(高名なイギリスの博物学者)の知遇を得て、ドイツの博物学者であるエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)による日本の植物コレクションを訪れ、ヨハン・ラインホルト・フォースター(Johann Reinhold Forster)(先祖がスコットランド人であるドイツの博物学者)にも会った。

 1779年にスウェーデンに到着したトゥーンベリは、恩師、カール・リンネの死を知った。彼はすぐに母校であるウプサラ大学の植物学の講師に任じられ、1784年には医学と自然哲学の教授に任命された。ツンベルクは1828年8月8日にウプサラ近郊のトゥナベリで没するまで、その地位にあった。


念のため原文を以下に引用します (赤い字は 訂正箇所)。
ただし、段落を細かく分けてあります。


 Carl Peter Thunberg


 Carl Peter Thunberg was born on November 11, 1743, in Jönköping, Sweden. As a student of Carl Linne, he studied medicine and natural philosophy at the University of Uppsala. Carl Peter Thunberg defended his doctoral dissertation "De venis resorbentibus" in 1767. In 1770, he continued his studies in Paris, Amsterdam, and Leiden.
 There Johannes Burman, on the recommendation of Carl Linne, offered Thunberg the chance to visit the Dutch colonies and Japan, in order to gather plants for the botanical garden. Carl Peter Thunberg reached Capetown in April 1772, where he risked many dangers in order to complete his task of collecting plant samples. During a research stop in 1772, Carl Peter Thunberg received his doctorate in medicine.
 In 1775, he continued on his way to Java, where he spent two months visiting Batavia, Samarang, and Buitenzorg. He then went on to Japan.
 In that same year, he reached the Dutch East India Company in Deshima, an artificial island in the Bay of Nagasaki, where Carl Peter Thunberg worked as a surgeon until 1776.
 After short stops in Java, Colombo, Ceylon, and Capetown, he arrived in Amsterdam in 1778.
 He visited London before finally returning to his homeland. There he made the acquaintance of Joseph Banks, visited the collection of Japanese plants of the German natural scientist Engelbert Kaempfer, and met Johann Reinhold Forster.
 Arriving in Sweden in 1779, Carl Peter Thunberg learned of the death of his teacher Carl Linne. He was soon named lecturer for botany and was appointed professor for medicine and natural philosophy at his home university in Uppsala in 1784. Carl Peter Thunberg held this position until his death on August 8, 1828, in Thunaberg near Uppsala.


➜ ツンベルク (その5) その著作

 

ツンベルク (その3) 邦訳『日本紀行』の目次

山田 珠樹(訳註)による『ツンベルグ日本紀行』(駿南社) 昭和3年〔1928〕は大変面白い本であり、さらっとでも目をとおしていただきたく、参考のため 目次部分を以下に掲載します。

ページ番号の右にある ( )内の数字は、国立国会図書館 近代デジタルライブラリー『ツンベルグ日本紀行』の画像のコマ番号です。


本文の参照先は以下です。

 ➜ 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー『ツンベルグ日本紀行』



『ツンベルグ日本紀行』 目 次


序                        I   ( 8 )

目 次                      I   (15)

第 1 章 バタヴィアより日本に至る危険な航海    1  (24)
第 2 章 長崎到着 密輸入に対する日本人の要慎  19  (33)
第 3 章 日本の通訳               36  (42)
第 4 章 欧州人の交易              40  (44)
第 5 章 中国人の交易              55  (51)
第 6 章 長崎の町及び港   出 島          61  (54)
第 7 章 江戸の出発までの長崎滞在中の記事    69  (58)

第 8 章 江戸参府紀行              92  (70)

第 9 章 日本の位置及び気候            196  (122)
第10章 日本人の顔貌及び性格           203  (125)
第11章 日本人の姓名及び服装           222  (135)
第12章 日本の政治組織              235  (141)
第13章 日本の宗教及び儒教徒           250  (149)
第14章 日本語                  272  (160)
第15章 日本の司法・行政            284  (166)

第16章 遊 女                  294  (171)
第17章 日本人の風俗・習慣           303  (175)
第18章 日本においてなしたる動物学的観察    314  (181)
第19章 日本の鉱物                332  (190)
第20章 日本人の食物その他、家事に関するもの  338  (193)
第21章 日本人の祭、娯楽及び遊戯          353  (200)
第22章 日本人の武器               361  (204)

第23章 日本の農業                365  (206)
第24章 日本の暦                 413  (230)
第25章 日本の科学、芸術及び産業          423  (235)
第26章 日本の商業                461  (254)
第27章 日本出発までの記事            472  (260)

 

日本貨幣考


第 1 章 金 貨                 477  (262)
第 2 章 銀 貨                 487  (267)
第 3 章 銅 貨                 496  (272)
第 4 章 鉄 貨                 502  (275)



「第10章 日本人の顔貌及び性格」を読むと、いかにツンベルクが日本人に好意を寄せていたかがわかり、二百数十年の時を超えて励まされます。

「第23章 日本の農業」では、植物の研究と農業との深い関係がみて取れます。単に農業についてだけではなく、日本人の性質や日本の植物についての記述に溢れています。



➜ 原著  Resa uti Europa, Africa, Asia (1788)

上は原著です。リンク先は Google books になっています。
「RESA」というのは、スウェーデン語で「旅行」という意味。
全編、スウェーデン語で書かれています。
山田 珠樹による邦訳本は、仏訳本からの重訳です。

余計なことですが、ウップサーラの綴りが、現在のスウェーデン語表記である 「Uppsala」 とは違っています。
ちなみに、ラテン語では、ウプサラ大学のことを「Universitas Upsaliensis」というそうです。
この時代には「Upsala」と表記するのが一般的だったのでしょう。


➜ ツンベルク (その4) Art Directory 記載の略伝

 

2013年12月28日土曜日

ツンベルク (その2) 邦訳『日本紀行』の序文

山田 珠樹(訳註)による『ツンベルグ日本紀行』(駿南社) 昭和3年〔1928〕 の「序」には、ツンベルクについての詳細な記述があります。

この本は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができますが、文字づかい等が若干古くなっているので、書き改めてみました。
また、読みやすいよう段落を多く設け、内容に応じて小見出しをつけました。

Thunberg の読み方は、「ツンベルグ」を「ツンベルク」に直してあります。
ただし、よりスウェーデン語の発音に近いのは「トゥーンベリ」ですので、頭の中で読みかえていただけると幸いです。
あえて「ツンベルク」とした以外は、スウェーデンやオランダ等の人名や地名などについては、できるだけ現地の発音に近いものに変更しました。


『ツンベルグ日本紀行』  仏訳本 元版の口絵



 『ツンベルク日本紀行』  序

山田 珠樹□□

 ツンベルク旅行記 Resa uti Europa, Africa, Asia, förrättad åren  1770-1779 の日本紀行の部分だけを、1796年パリ出版の、同地国立図書館東洋文書係 L・ラングレ(L. Langrès)の手になった仏訳本によって、邦訳したものがこの本である(原文はスウェーデン語)

 原題のスウェーデン語について

 ・ 「resa」(レエッサ)は、「旅行」の意。
 ・ 「uti」(ユーティー)は、前置詞で「に」の意。
 ・ 「Europa, Africa, Asia」は、スウェーデン語では「エウロッパ、アーフリカ、アーシア」と発音か。

 ・ 「förrättad」(フェレタッド)は、「職務を果たした」の意か。
 ・ 「åren」(オーレン)は、「年」の意。
 ・ 「förrättad åren 1770-1779」は、「滞在期間 1770~1779」といった意か。


 ツンベルクの生い立ち

 ツンベルク(Carl Peter Thunberg)は1743年11月11日にスウェーデンのヨンショピング(Jönköping)で生れた。父親は牧師であったともいい、あるいは炭坑の図書係をして傍ら小商いをしていたものであるともいう。いずれにしても早く死んでしまって、その子供たちはあまり楽でない境遇に置かれたのであったが、幸いにして母親が商人フォッシュベリ(Forsberg)という人と再婚したために苦しまずに済んだということである。


 ウプサラ大学に入学

 ツンベルクは18歳までその土地の学校で教育を受けたが、非常に優秀な学蹟を示したので、ついに1761年にウプサラに送られ、そこの大学でさらに研究を積むことになった。
 主として学んだのは医学及び博物であった。ことに当時、同大学には植物学の世界的大家 大リンネ(Linneus)が齢63歳でなお矍鑠(かくしゃく)として教鞭をとっていたので、これに厚く師事した。かくて在学9カ年の後、De Ischade という論文を提出して博士の称号を得るに至った。


 奨学資金と研究旅行 ― リンネとビュルマンによる導き ―

 当時、学資ゆたかならざる優秀の学徒にして旅行をして研究を完成せんと欲するものに、学資を供することを目的としてケーリング(Koehling)(一書に Koehzing とある)という人がケーリング奨学資金(Stipendium Kohleanum)というものをつくっていたので、ツンベルクはこの補助を受けることになった。
 よって、これに僅かながら自分の貯金を加えて、1770年8月13日にウプサラを出発して、研究旅行の首途に上った。

 デンマークを通って、10月初めにオランダのアムステルダムに到着し、リンネの紹介により植物学者ビュルマン(Burman)に会ったところが,非常に優遇され、その所蔵する東洋の各種博物見本を分類しかつ命名することを託された。ツンベルクはこの仕事にみごとな成績を示したので、ビュルマンは非常に喜んで、後日、ツンベルクをオランダ政府に喜望峰の博物調査を完成させるのにもっとも適当な人として推薦する決心をした。
 ツンベルクはオランダに滞在することわずかにして、さらにその旅行を続け、12月初めにパリに出た。パリでは王立植物園やゴブラン織り工場を見学したり、病院で教授連中に従って診察したり、その講義を聴いたりした。

 そして翌年の7月末にまたオランダに帰っていった。ビュルマンは一層ツンベルクに好意を示し、彼を喜望峰の動植物研究に派遣するために非常な努力をしてくれた。その結果、二三の富裕なる篤志家がこの費用を負担してくれることになった。
 同時にリンネはツンベルクに、その産物があまり知られていない日本にぜひ赴くべきことを慫慂した。幸いにしてツンベルクの保護者たちはこの日本行きの費用をも弁じてくれることを約束してくれた。


ビュルマンについては以下をご参照ください。

 Wikipedia ヨハネス・ビュルマン
 Wikipedia ニコラアス・ビュルマン

上記の「ビュルマン」が、父の方か子の方か明示されていませんが、以下のサイトの記載によると、リンネの旧友である父の方であるようです。

 Art Directory Carl Peter Thunberg


ツンベルク  65歳のときの肖像画


 アフリカでの調査

 かくて準備的研究を終えた後、オランダ東インド商会の員外船医という資格を得て、極東に至る前に少なくも2年間は喜望峰に留ることを約束して、ヨーロッパを出発した。1771年の11月30日にテセル(Texel)(オランダ領の島)から出帆し、翌年4月17日にケープタウンに到着した。
 ツンベルクは直ちに研究に従事した。初めケープタウンの近郊を歩いて種々の調査をしていたが、続いて当時、植民地と絶えず闘争していたカフィル族、ホッテントット族の住む アフリカ内地に危険を冒して3回の大旅行をした。
 そのうちにこの地方の博物材料をことごとく蒐集し得たし、また日本行の都合もついたので、1775年の3月初めにこの地を出発して、極東に向った。


 日本への旅

 1775年5月18日にジャワのバタヴィア(現ジャカルタ)に到着した。下船後直ちに日本行隊長船の主任医に任じられたけれども、出帆までには3カ月の余裕があったので、この間にジャワ島の産物・習慣などを観察し、かつジャワ語の語彙すら蒐集している。

 1775年6月20日にいよいよ日本に向ってバタヴィアを出帆し、8月14日に長崎に入港した。時にツンベルクは33歳である。
 翌1776年、オランダ使節に従って、江戸に参府した後、豊富な研究を貯えて、12月3日に日本を離れた。

 バタヴィアには1777年1月4日に到着し、7月までここに滞在して調査を続け、さらにセイロン島に移って、ここにも半年間滞在して調査をなし、ようやく1778年2月6日にコロンボを発し、ケーブタウンを経てオランダに帰ることができた。
 ヨーロッパを見ざること7年間、この間に完全にその学徒としての任を果たし、アフリカ、インド、日本の豊富な博物材料を蒐集したのである。


 故国での栄誉

 オランダで東インド会社の職を辞するや、イギリスに渡り、諸地訪問の後 1779年3月10日に故国スウェーデンのイースタ(Ystad)の地を踏むことができた。この9カ年間の大旅行を記述したものがここに一部を訳出した旅行記である。
 ツンベルクは不在中にウプサラ大学の植物学講師に任ぜられていた。よって直ちに任に就き、さらに1781年に小リンネ(大リンネは1778年に死す)が海外旅行中に代わって植物園長をしたこともあるが、同年11月に員外教授( Professor extraordinarius)となり、1784年に小リンネが死するや、植物学及び医学の正教授に任ぜられた。(翌1785年にウプサラ大学学長となる。)
 この職に非常に真面目に尽くし、1785年には国王よりヴァサ(Vasa)動章を授けられ、1815年にはヴァサ勲位のコマンドール(Commandeur)に叙せられたが、これは学徒としては前例のない名誉であって、大リンネすらこの栄をうくるには至らなかったものである。


 著 作 物

 ツンベルクの余生は将来した莫大な植物標本の整理に費やされた。その結果は1823年に出版された『喜望峰植物誌』(Flora Capensis)及び1784年に出版された『日本植物誌」(Flora Japonica)となって表われたのである。
 なお前者に先だって『喜望峰植物誌前説』(Prodromus plantarum Capensium)を発表し、後者に続いて『日本植物図譜』(Icones plantarum Japonicarum)を出版している。
 これらの著述は多くの新種を世に発表しているのみならず、リンネの植物整理法に改訂を加えたところが少くない。なお新種の発表については以上の四著では勿論足りないので、少なからぬ数の小論文が発表されている。
 学術的著述のほかに、彼は旅行記を1788年から1793年にかけて四冊に分かって出版したが、これは非常に興味のあるものとして、間もなく英仏独 各国語に翻訳された。


ツンベルクの肖像


 リンネとツンベルク

 かくて、その学名ようやくヨーロッパに高く、各国の多数の学会の会員に推薦され、ライデン及びロシアからは大学教授として赴任することを懇願されて辞退に苦しみ、リンネの高弟として出藍の誉れがあった。

 42歳のとき、妻をめとったが、彼女は子なくして1815年に死んだ。
 かくてツンベルクは、1828年8月8日に 84歳でウプサラに近きトゥナベリ(Tunaberg)で永眠したが、常に健康であり、かつ その隔てなき性格と親切な心とは万人から愛され、ことに学生から愛されていた。

 スウェーデンのある学者は次のごとくいっている。

 『リンネ及びツンベルクの二大学者は同じ方面を別な道で歩いていったものである。
 リンネは一般法則を求め、ツンベルクは特殊を離れずにいた。
 リンネは時代に先行し、ツンベルクは常に時代とともにいた。
 リンネは新植物を増加することはしなかつたが、ツンベルクは数万の新種を発表した。
 リンネは過去の材料を整理したものであるが、ツンベルクは新知識を人々に授けたものである。』


 ツンベルクと日本

 かかる高名の学者が150年の昔に日本に訪れたということは、日本にとって非常な幸福であった。長崎出島のオランダ屋敷に関係のある多くの外人が忘れられても、ツンベルクの名は、ケンペル、シーボルトとともに、常に記憶に新たなのは当然のことである。
 かかる人の著述があれぱこそ、ヨーロッパ人は初めて極東に日本という文明国のあることを信ずるに至ったのである。かかる人の訪日によってこそ初めて泰西の文化が我が国に輸入されたのである。その功績は忘れることのできないものである。


これ以降は、話題がツンベルクから逸れますので省略します。
また、本文には日本での見聞がたっぷりと書かれています。
興味のある方は、次のリンク先でご覧ください。

 ➜ 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー『ツンベルグ日本紀行』


➜ ツンベルク (その3) 邦訳『日本紀行』の目次

 

2013年12月25日水曜日

ツンベルク (その1) 『日本紀行』と『日本植物誌』

美しい実をつける植物について このブログの記事を書いていると、それらの多くが 日本に赴任したことがある スウェーデンの植物学者 Thunberg により命名されていることがわかりました。

この Thunberg という名前については、元々がスウェーデンの人名であるため、「トゥーンベリ」、「ツンベルク」、「ツュンベリー(いったい、どう読めというのでしょう?)」など、いろいろな読み方をされています。
紛らわしいので、一般的と思われるドイツ語風の読み方「ツンベルク」に統一します。

ツンベルクはスウェーデンに帰った後、この時代の人の常として、旅行記を出版しています。
それが Resa uti Europa, Africa, Asia, förrättad åren 1770-1779  (1788) です。


 Resa uti Europa, Africa, Asia  (1788)

上記のリンク先は見やすいのですが、残念ながら第1・2巻だけの所収ですので、日本滞在記が入った全4巻版をご覧になる際には、以下のリンク先をご覧ください。

 Google books  Resa uti Europa, Africa, Asia  (1788)


この書の日本に関した部分が 翻訳出版されています。
以下の本です。

 山田珠樹(訳註)『ツンベルグ日本紀行』(駿南社) 昭和3年〔1928〕

「ツンベル」と名前の最後が濁っているのは、元々のスウェーデン語からフランス語に翻訳されたものを重訳したことに関連しているのでしょう。
重訳であることは、訳者の山田がこの書の冒頭に置かれた「序」のはじめで述べています。
訳・註を行った山田珠樹については Wikipedia に詳述されています。

 Wikipedia 山田珠樹

訳・註を行った山田珠樹による「序」は一読に値します。
ツンベルクについて細かに述べており、日本に来たのもリンネの勧めがあったからだと書いています。
リンネと日本にも、こんなつながりがあったとは...

➜ 訳書『ツンベルグ日本紀行』(1928) 見返し (国立国会図書館)

この本は、すでに版権が切れているため、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができます。
以下は、奥川書房版(1941年刊行)ですが、版組等は駿南社版とほとんど変わるところがありません。
グレイスケールでスキャンしてあり、フルカラーのものより読みやすいようです。


駿南社版と奥川書房版の奥付を載せておきます。
いくつかのことがわかるでしょう。

『ツンベルグ日本紀行』 奥 付  左: 奥川書房版  右: 駿南社版

以下の本の P.95 には、奥川 榮についての記述があります。

➜ 反町茂雄『蒐書家・業界・業界人』(1984)八木書店

画像下の文字部分をクリックしてみてください。
Google books が開きますので、次に 左側のメニューにある検索ボックスに「奥川」と入力して 検索ボタンをクリックしてください。
奥川榮に関して書かれたページが開きます。

余談ながら、この本はアーネスト・サトーの古書蒐集に関する記述から始まっており、大変面白い本です。


ツンベルクによる日本に関係する本として紹介する2冊目は Flora Japonica (1784) (『日本植物誌』)です。
ラテン語で書かれていますが、多くの部分は植物の一覧であり、図も入っています。

東京大学農学部図書館所蔵資料 Flora Japonica

上は実物の写真です。
「名誉教師 ヤンソン氏寄贈」と寄贈者を示す赤い印が押されていますね。
本来のラテン語には「J」の文字がないので 「I」を使って「IAPONICA」と綴られています。
この Flora Japonica については、以下に詳しく書かれています。

 ➜ 東京大学農学部図書館所蔵資料 Flora Japonica の解説

この書物も Google books 等において読むことができます。

Google books FLORA JAPONICA

Google books には、複数の PDFファイルがアップされています。
暇があったら、比較してみたいと思います。

 Google books  FLORA JAPONICA (複数のコピー)

ツンベルクは江戸に向かう途中で立ち寄った箱根で多くの植物を観察しています。
それについてまとめた労作が以下の論文です。
神奈川県 生命の星・地球博物館の3名の学芸員によるものです。

 ➜ 神奈川県 「ツュンベリーの日本植物誌に記録された箱根産植物」


なお、ツンベルクの50年ほど後には、有名なシーボルトが来日しています。
シーボルトによる  Flora Japonica (『日本植物誌』) は京都大学の電子図書館で見ることができます。
図版はツンベルクのものとは比較にならない美しさで、半世紀の時の流れを感じさせられます。

➜ シーボルト『日本植物誌』(京都大学図書館)


➜ ツンベルク (その2) 邦訳『日本紀行』の序文


2013年12月24日火曜日

鎌ケ谷で見られる木本(9) ムラサキシキブ

美しい紫の実 2012.11.10 鎌ケ谷市・粟野の森にて撮影

ムラサキシキブ(紫式部、学名  Callicarpa japonica Thunb.)はクマツヅラ科ムラサキシキブ属の落葉低木です。
属名は、ギリシア語の「callos(美しい)+ carpos(果実)」が語源となっているそうです。ムラサキシキブにぴったりの属名です。

学名を見るとわかるとおり、前回取り上げた「ゴンズイ」と同様に、命名者は日本に赴任していたことのあるツンベルク(Thunberg)です。
それどころか、ここ5回 連続で取り上げた実の美しい植物の学名は、すべてツンベルクが初命名者であることに気づきました。
ジャノヒゲ、ヒヨドリジョウゴ、ヤブコウジ、ゴンズイ、ムラサキシキブと、気ままに取り上げたのにも かかわらずです。

このことは偶然の一致ではないのでしょう。
リンネの高弟・ツンベルクは、日本に来ていた折に、美しい実をつける植物見つけては命名していったのではないかと思います。
ウプサラ大学に保存されているという、ツンベルクが日本から持ち帰った植物標本800余種の中身を知りたくなりました。

花 (蕾) 2015.05.26 粟野の森にて撮影


花 2015.06.06 粟野の森にて撮影


まだ青い実 2013.09.07 市川市・大町公園にて撮影


色づいた実 2012.11.03 市川市・大町公園にて撮影


葉が残っています 2012.11.10 鎌ケ谷市・粟野の森にて撮影


美しい紫色に 2013.12.07 市川市・大町公園にて撮影


この実もまた美しい 2013.12.07 市川市・大町公園にて撮影


全体の樹形 2013.12.07 市川市・大町公園にて撮影


枝の広がりのようす 2013.12.07 市川市・大町公園にて撮影


2013年12月23日月曜日

鎌ケ谷で見られる木本(8) ゴンズイ

ゴンズイの若葉 2012.04.22 鎌ケ谷市・粟野の森にて撮影

ゴンズイ(権萃、学名  Euscaphis japonica (Thunb.) Kanitz)は、ミツバウツギ科ゴンズイ属の落葉小高木です。
暖地の 二次林 などに生え、 雑木林 の構成要素の一つとなっています(本記事末尾の「付記」参照)。

属名の Euscaphis は、ギリシア語で「eu(良) + scaphis(小舟)」という意味だそうで、果実が赤く色づいて美しいことから名づけられたようです。
種小名の japonica は、言わずもがな「日本の」という意味です。

学名に付いた「(Thunb.) Kanitz」の意味ですが、「(Thunb.)」の部分はスウェーデンのウプサラ大学の植物学教授 ツンベルク(Carl Peter Thunberg : 1743 - 1828)によって初めて命名されたことを示しています。

その後ろの「Kanitz」の部分は、その後、ハンガリーの植物学者 カニッツ(August Kanitz : 1843 - 1896)により 現在のようにゴンズイ属に移されたことを示しています。

ゴンズイの袋果 2014.08.20 印西市・竹袋にて撮影

ツンベルク(スウェーデン語では「トゥーンベリ」と発音するようです)については、Wikipedia に興味深いことが書いてあります。

・ウプサラ大学のカール・フォン・リンネに師事して植物学、医学を修めた。
・フランス留学を経て、1771年オランダ東インド会社に入社。
・1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任。
・翌1776年4月、商館長に従って江戸参府を果たし徳川家治に謁見。
・わずかな江戸滞在期間中に、吉雄耕牛、桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導。
・1776年、在日1年で出島を去り帰国
・1781年、ウプサラ大学の学長に就任。
・在日中に箱根町を中心に採集した植物800余種の標本は今もウプサラ大学に保存されている。

リンネの弟子にして、日本に縁のある人だったのですね。
この時期から明治のはじめにかけて、ヨーロッパから日本に赴任し、後に大成した学者や軍人が多いように思います。

トゥーンベリについては、以下をご覧いただけると幸いです。

➜  ウプサラ大学のサイトからの資料 (2) ツンベルク略伝


裂開した果実 2012.10.31 印西市・松虫寺近辺にて撮影

ゴンズイの実は、実にしゃれた色合いで目をひきます。

果実は袋果(たいか)で、長さ約1センチ、果皮は赤色を帯びていて、裂開(れっかい)して光沢のある黒色の種子を露出します。
「袋果」とは、「乾果」のうちの「裂開果」の一種であり、成熟すると果皮が乾燥し,縦に裂開して種子を出す実をいいます。

ゴンズイの実を手に取ってさわってみると、果皮の厚みや種子の堅さが感じられます。


葉の色が赤みを帯びています 2013.12.07 市川市・大町公園にて撮影

ゴンズイの葉は、秋が深まってくると赤みを帯びてきて、落葉します。
下の写真にあるように、落葉した後も実は枝についたままです。

以下の2枚の写真は 同じ日に、同じ場所のゴンズイの木を撮ったものです。
このゴンズイの木は、市制記念公園から市道2130号線の坂を下って粟野の森に向かって進んでいくと、国道464号線に入る道の手前に見えてきます。
「ゴミ捨てを禁ずる」の看板が目印になります。

葉は散っています 2013.12.14 鎌ケ谷市・市道2130号線沿いにて撮影


枝が道の上に 2013.12.14 鎌ケ谷市・市道2130号線沿いにて撮影


ゴンズイという和名の由来ですが、海水魚のゴンズイ(権瑞)と同様に「役に立たない」という意味だという説や、樹皮がこの魚に似ているからという説などがありますが、定説はないようです。

2013.12.13 松戸市・21世紀の森と広場にて撮影


付 記
二次林については、環境省 自然環境局の『里地里山保全再生計画作成の手引き』にある「2-2 里地里山を活用する」に詳しく書かれており参考になります。



追 記 2015.09.23

ゴンズイの冬芽と葉芽の写真を載せておきます。

ゴンズイの特徴的な冬芽 2015.01.27 粟野の森で撮影


ゴンズイの葉芽 2015.03.24 粟野の森で撮影


2013年12月21日土曜日

鎌ケ谷で見られる木本(7) ヤブコウジ

この時期、ヤブコウジの赤い実が さまざまなところで見られます。

ヤブコウジ 2013.11.27 鎌ケ谷市・中沢の谷津にて撮影

ヤブコウジ (藪柑子、学名  Ardisia japonica (Thunb.) Blume)は、ヤブコウジ科ヤブコウジ属の常緑小低木です。
別名、十両(ジュウリョウ)と呼ばれます。

ちなみに、別名を加えると、「万両」から「一両」までの名前が付いた植物がそろっています。

マンリョウ (万両、学名  Ardisia crenata
センリョウ (千両、学名  Chloranthus glaber
カラタチバナ(唐橘、学名  Ardisia crispa)    別名 ヒャクリョウ(百両)
ヤブコウジ(藪柑子、学名  Ardisia japonica)   別名 ジュウリョウ(十両)
アリドオシ (蟻通し、学名  Damnacanthus indicus)別名 イチリョウ   (一両)

赤い実が美しいこれら5種の植物ですが、このうちの3種をヤブコウジ科ヤブコウジ属(Ardisia)が占めているのはさすがです。
マンリョウとセンリョウは、庭に植えられていることが多いので よく見かけます。

「万両」 マンリョウ 2013.12.01 近所のお宅の庭で撮影


「千両」 センリョウ 2013.12.01 近所のお宅の庭で撮影


「百両」 カラタチバナ 2014.01.11 鎌ケ谷市内にて撮影


「十両」 ヤブコウジ 2013.12.07 市川市・大町公園にて撮影

センリョウ(センリョウ科センリョウ属)と比べてみると、ヤブコウジ科ヤブコウジ属の植物の実は、深紅に近い色合いに見えます。
 
「センリョウ」という名前についてですが、もともと「仙蓼」(センリョウ)という字を当てられていたものが、江戸時代の後期になってから 縁起を担いで マンリョウ(万両)に対応させ「千両」となったもののようです。
別名で付いている「百両」「十両」「一両」も、同じように縁起担ぎで名付けられたものでしょう。

なお 小学館『日本大百科全書』には、ヤブコウジについて以下の記述があり、参考になります。

・かつて男子5歳、女子4歳になると、髪の先を肩あたりで切りそろえる髪削(かみそぎ)の儀式が行われ、ヤブコウジを髪に挿した。
  参考サイト ➜ 髪削(かみそぎ): 源氏物語

・正月などに松竹梅と組み合わせてヤブコウジを飾る風習は江戸時代から記録に残る。

・明治中期には園芸品種が大流行し、投機の対象とされ、新潟県は県令で売買を禁じた。



追 記 2015.06.16

庭に植えたヤブコウジの花が咲いていました。
このヤブコウジは、昨 2014年3月22日、粟野地区公園の開園式でいただいたものです。

植えたのは1株でしたが、3株に増えました


葉の下に白い花が咲いています


花は下向きについています 実も下向きにつきます


花の下から撮った写真


夕方に見たら、花が みな散ってしまっていました。
花びらを拾い集め、クローズアップ撮影してみました。

雌蕊の部分がすっぽりと抜けて、花冠には5本の雄蕊が残っています