2015年10月31日土曜日

鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (8) 鎌ケ谷大仏・官軍兵士の墓

新京成線 鎌ケ谷大仏駅のすぐ近く、木下街道(県道59号線)と県道57号線(千葉鎌ケ谷松戸線)が交差するところが大仏十字路です。

そのそばにある大仏墓地には、鎌ケ谷大仏や官軍兵士の墓などの史跡があります。

はじめに、鎌ケ谷大仏を見てみましょう。

鎌ケ谷大仏の全景


鎌ケ谷大仏の説明書き (鎌ケ谷市教育委員会)


鎌ケ谷大仏を横から見たところ


大仏墓地の右奥の方には、戊辰戦争(慶応4年/明治元年)における戦闘のひとつ「市川・船橋戦争」で落命した官軍兵士(佐土原藩兵)の墓があります。

官軍兵士の墓


官軍兵士の墓の説明書き (鎌ケ谷市教育委員会)


2名の兵士の墓標 明治19年に(1886)に千葉県が建立

二基の墓石の後方両脇にも、小さな墓石が それぞれひとつずつあります。

佐土原藩(さどわらはん)の藩主は、島津氏の支族である佐土原島津家。
これらの墓石に彫られている 丸に十字の家紋は まさに島津家のものです。

なお、ふたりの墓石の戒名に使われている「義」の字は、同じ字体ではありません。
多分、意味が異なるのでしょう。

蓑毛次右エ門の元の墓石でしょうか (墓の右側)
戒名は「勝利劔義山居士」


己之助の元の墓石でしょうか (墓の左側)
戒名は「義望劔昇立居士」(「義」の左下は 「禾」)

墓地内には、青面金剛塔や馬頭観音塔が多く置かれています。
周辺の路傍に置かれていたものが、ここに集められたのでしょう。


青面金剛像と青面金剛文字塔


馬頭観音塔 左側の塔には 馬の頭が彫られています


右は馬頭観音像 頭上に馬頭を戴いています


墓地の右奥には、かつての野馬土手跡が残っており、墓地外へと続いています。

墓地内に残る野馬土手跡 塀の向こうに続いています


塀の上から撮った野馬土手跡


野馬土手跡 奥に見える塀の向こうが大仏墓地です


つい最近まで大きな木が茂っていましたが、みんな伐られてしまいました


➜  鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (7) 清田家の墓地・駒形大明神

➜  鎌ケ谷の神社(8) 鎌ケ谷八幡神社(その1)


2015年10月27日火曜日

鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (7) 清田家の墓地・駒形大明神

前回ご紹介した「旅籠 丸屋」から程近い住宅地の中に、「清田家の墓地」とそれに隣接した「駒形大明神」があります。

清田家は、中沢の三橋家同様、代々 牧士もくしを継いできた家柄です。
以下の写真は、「清田家の墓地」の一部を撮影したものです。

清田家の墓地

清田家について、詳しくは以下の教育委員会の説明板をご覧ください。

鎌ケ谷市教育委員会による説明板 画像クリックすると 拡大されます


墓地の右手には「駒形大明神」があります。
小祠の扉が開けられるようになっています。
何が入っているか、ご自身の目で確かめてください。

駒形大明神の小祠

「駒形大明神」にまつわる面白い言い伝えが残されています。
それについては、以下の教育委員会の説明板を読んでください。

鎌ケ谷市教育委員会による説明板 画像クリックすると 拡大されます


➜  前の訪問先 (6) 旅籠 丸屋

➜  次の訪問先 (8) 鎌ケ谷大仏・官軍兵士の墓


2015年10月23日金曜日

2015.10.22 身近な植物 (10月下旬)


( 1 )


木下万葉公園に立ち寄りました。

アケビ棚 実が全くついていませんでした
 

カンナの花がきれいです


セイタカアワダチソウ この時季の昆虫にとり貴重です


チカラシバ 猫の尻尾のよう


( 2 )


道の駅の園芸コーナーで面白い植物を見ました。

ダイモンジソウ(大文字草) ユキノシタ科


花弁の大きさが不均一で 「大」という文字のようです


( 3 )


路傍で、赤紫のきれいな穂を見ました。
触ってみると、ビロードのように細かな毛が生えていて柔らかいのです。
これは花ではなく、萼であるとのことです。

サルビア・レウカンサ シソ科 アキギリ属(Salvia
別名 アメジストセージ

シソ科 アキギリ属の植物は、観賞用のものを「サルビア」、薬や香辛料として使用できるものを「セージ」と呼んで区別する場合が多いそうです。

また、最近では「アキギリ属」のことを「サルビア属」ということも多いとのこと。
確かに 学名を見ても「サルビア」(Salvia)となっていますね。
「Salvia」は、ラテン語の「salvare」(治療) や 「salveo」(健康)が語源とされていますが、この種の植物には 薬用になるものが多いということに由来しているようです。


( 4 )


中沢の谷津から外和戸の斜面林脇にかけて歩きました。

中沢の谷津 草が刈り払われていました


外和戸の斜面林の湧水  褐色は鉄バクテリアによるもの


ミゾソバ 別名の「牛の額」は 葉の形から命名


外和戸の斜面林に見られる獣道 タヌキの道でしょうか


ところどころにカラスウリが赤く実っています


2015年10月21日水曜日

鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (6) 旅籠 丸屋

1 今も残る 旅籠 丸屋の建物


江戸時代、鎌ケ谷宿は 木下街道の宿駅として賑わいました。
全盛時には7軒の旅籠があったといいます。

新京成線 鎌ケ谷大仏駅を西に数分歩くと、木下街道沿いに かつての旅籠 丸屋の姿を見ることができます。

旅籠 丸屋 全景 1

この建物は、明治の中期に建てられたものだといいます。

旅籠 丸屋 全景 2


宿の入口周辺のようす 丸屋もこんな風だったのでは



2 『木曽路名所図会』から「釜ヶ原」


木下街道は、かつて 木下道や 鹿島道、印西道とよばれていました。
鎌ケ谷宿を抜けて、北に この道を進んでいくと 一面小金原の牧が広がっていました。
そのようすがよく分かる図絵のひとつが以下のものです。
このシリーズ1回目の「清長庵」でも取り上げていますが、ここでも掲載します。

『木曽路名所図会』(文化2年(1805))から 「釜ヶ原」

牧に群れ遊ぶ駒の姿とともに、右には筑波山、左には富士山が描かれています。
絵図の添え書きは、以下のように読めます。

釜ヶ原

かへり見る 冨士の夕日 かゞきて (輝きて)
    釜ヶ原墅の 駒のかかづ

  籬島 秋里籬島あきざと りとう


このひろくして 東西に四十里あまり りとなん
西冨士ほう見えて 小金原尓津につゞくなり


『木曽路名所図会』の 「釜ヶ原」を一部拡大 大きさや距離は不正確

絵図の左下をよく見ると、鎌ケ谷大仏や 井草三叉路にある魚文の句碑が描き込まれています。
魚文の句碑は、建っている位置が現在とは違っていたようです。



3 松尾芭蕉 『鹿島詣』


この道を歩き、鎌ケ谷を過ぎていった人には、俳人 松尾芭蕉、画家 渡辺崋山、そして 農村改革指導者 大原幽学 らがいます。
彼らは、その足跡を文字や絵にかきとどめています。

まず、松尾芭蕉。
有名な『鹿島詣(鹿島紀行)』には 当時の様子がいきいきと美しく描写されています。

奧の細道行脚之図 (芭蕉と曾良) 森川許六
元禄6年(1693)筆 天理大学附属天理図書館蔵

以下の部分については、1回目の「清長庵」で取り上げていますが、現代語訳部分を一部変更して掲載します。
茶色の文字は原文紺色の文字は現代語訳です。


貞享4年(1687) 8月14日

 舟をあがれば、馬にものらず、細脛(ほそはぎ)のちからをためさんと、かち(徒歩)よりぞゆく。甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはた(八幡)と云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。

 秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり。

  雪は申さずまづむらさきのつくば哉

と詠しは、我門人嵐雪が句なり。

 すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

 萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。

渡辺崋山『四州真景図』(文政8年(1825))から 「釜原」の図

   鎌ケ谷から見はるかす筑波山、野を群がり歩く馬


 舟を上がると、馬にも乗らず、細い脛の力を試そうと、歩いて行く。甲斐国からある人が届けてくれた檜木づくりの笠を、おのおのが被って旅支度をし、八幡という里を過ぎると、そこに、鎌谷が原という広い野原がある。

 この広大な様は、古の詩にある「秦甸之一千(余)里」のようであり、遥か彼方まで見渡すことができる。筑波山が、向う正面に、男体山、女体山の二峰を高く並べて立っているのが見える。かの中国にも双剣の峰があると聞くが、これは、中国山水詩の母たる廬山の一隅に存するものである。

 「雪を頂く姿が見事なのは言うまでもないが、春立つ頃の、山紫に霞みたなびく筑波山は格別のものであるよ」と詠んだ句は、わが門人嵐雪によるものである。

 総じてこの山は、日本武尊と火守り老人との問答唱和が伝えられて、連歌の起源に関わる山とされ、初の連歌撰集の題(『菟玖波集』(1356))にも名付けられた。筑波山を眺めながら、和歌を詠まないことはあってはならない、また、句を詠まずに通り過ぎてはならない。まことに愛すべき山の姿ではある。

 萩は錦を地に敷きのべたようで、昔、橘為仲が長櫃に萩の花を折り入れ、都の土産に持たせたという話も思い出され、風流の心に共感したことである。ききょう・おみなえし・かるかや・尾花 (ススキのこと)などが乱れ咲き、牡鹿が、妻を恋い鳴く声も、いかにもあわれふかい。放し飼いの馬が、よい場所を得た様子で満足げに群がり歩くさまもまた、趣がある。



4 渡辺崋山 『四州真景紀行』


渡辺崋山は、図絵が添えられた『四州真景紀行』において以下のように書いており、鎌ケ谷では鹿島屋という旅籠で夕食をとったことが分かります。
宿泊地は白井のようです。

渡辺崋山の肖像 (崋山の高弟である 椿 椿山 画)

文政8年(1825) 6月29日

八幡宿 鬼越フカ町〔深町〕(を出で)
上山新田(を)南東の方、藤原新田(を)北西(に見て 進み)
釜谷宿(まで)、二里八町
 鹿島屋夕飯、三人にて百四文
  但し、酒一合に付き二十八文共に
釜谷原放牧。原、縦四十里、横二里或いは一里と云う
即ち、小金に続くとぞ
白井宿、逆旅(げきりょ)(宿屋のこと: 旅人を逆(むか)える所の意) 藤屋八右衛門。

(以上、『崋山全集』より)


割 込 2016.01.02

高名な渡辺崋山については、様々なところで述べられているので、ここでは触れません。
下総国古河藩の家老であった鷹見泉石を描いた肖像画は 国宝となっており、大変に有名なものです。
弟子の椿山の描いた崋山像とも通じるものがありますので、ここに掲載します。

国宝  鷹見泉石像 渡辺崋山画
絹本着色  天保8年(1837)  東京国立博物館蔵

割 込 おわり



5 大原幽学 『性學日記』 と 『道の記』


大原幽学は、天保10年(1839)と天保12年(1841)に、3度にわたって鎌ケ谷の丸屋で休憩したり泊まったりしています。
3度すべて、江戸へ上る折に記したものです。

幽学の風貌をもっともよく伝えているという肖像画 (保爾画)

天保10年(1839)5月27日

27日 出立して、木下 河内屋に休らひ、白井澤 肴屋中食、鎌ケ谷 丸屋休み。 八幡 中屋泊り。  (『性學日記』より)

天保10年(1839)9月19日

18日 出立して、安喰にて中食して、木下 河内屋泊り。明る19日 出立して 鎌ケ谷 丸屋泊り。 20日 行徳 山田屋に中食して舟に乗り、海部大工町 筏屋平七泊り。  (『性學日記』より)

天保12年(1841)6月19日

18日 出立して、滑川 桔梗屋泊り。 19日 鎌ケ谷 銚子屋泊り。 明る20日 江戸 近善に宿す。  (『道の記 巻二』より)

(以上、『大原幽學全集』より)



幽学が長部村(現・旭市長部)に招かれ、その地を初めて訪れたのは天保6年(1835)のことです。
以後、亡くなるまで長部村の建て直しに取り組むこととなります。

幽学については、以下の記事が若干参考になります。

 ➜ 大原幽学 ゆかりの地 訪問 (旭市)



➜  前の訪問先 (5) 延命寺

➜  次の訪問先 (7) 清田家の墓地・駒形大明神


2015年10月16日金曜日

印旛を歩く(20) 印旛歴史民俗資料館 (印西市・岩戸)

前回ご紹介した泉福寺の近くには、「印西市立印旛歴史民俗資料館」があります。

元々は、旧印旛村が昭和61年(1986)に設置したものであり、現在 印西市における唯一の郷土資料館です。

追 記 2016.06.06

2016年4月27日、元県立印旛高校の跡地に「印西市立 木下交流の杜」が オープンし、その頂上部に「歴史資料センター」が開所しました。

この追記 おわり

資料館は、宗像中学校が廃校になった跡地に建てられたようです。

宗像中学校は 六合中学校と統合され、昭和50年(1975)に印旛中学校として印旛村鎌苅(現・印西市舞姫)に開校しました。

印旛歴史民俗資料館 玄関 右隣には 印西市の岩戸出張所があります

館内の写真は、申込用紙に記入することにより撮影許可が得られましたが、個人的な利用に限られるため、残念ながら ここに掲載できません。

代わりに、いただいたパンフレットを載せますので、概要をご覧ください。
ぜひ、足を運んで直接 展示をご覧いただけますと嬉しく思います。

印旛歴史民俗資料館 パンフレット 1

印旛歴史民俗資料館 パンフレット 1

個人的に興味をそそられたものとしては、以下の展示があります。

 ・印西大師の解説と巡拝順路図 (他では得られない情報がありました)
 ・大きな埴輪の実物 (実に大きい)
 ・養蚕関係の道具 (岩戸は、かつて養蚕で大変に繁栄した地区です)
 ・印旛沼で捕れたカラスガイの貝殻 (20cmを超える大きさです
 ・印西地域の各時代の航空写真 (階下に展示されています)

規模の小さな旧印旛村が、こうした立派な資料館をつくったことに心から敬意を表したいと思います。


資料館の裏手は崖になっています 下の方へと続く道があります


印旛西部公園のグラウンドが見えました


資料館の手前にある宗像小学校 明治6年(1873)、泉福寺内に開校


校庭に立っている大木 プラタナスだそうです


➜  印旛を歩く(19) 泉福寺 (印西市・岩戸)

➜  印旛を歩く(21) 龍淵寺とその近辺 (印西市・大廻)


2015年10月15日木曜日

印旛を歩く(19) 泉福寺 (印西市・岩戸)

泉福寺 周辺地図
国土地理院 電子国土Webシステム配信の地図を利用

上の地図に書き込んである社寺等については、本ブログの以下の記事をご覧ください。

 ➜  北総の宗像神社(5) <印西市・岩戸>

 ➜  印旛を歩く(13) 西福寺 (印西市・岩戸)

 ➜  印旛を歩く(14) 高岩寺 (印西市・岩戸)

 ➜  印旛を歩く(16) 印西市印旛西部公園 (印西市・岩戸)

 ➜  印旛を歩く(20) 印旛歴史民俗資料館 (印西市・岩戸)

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旧 印旛村(現 印西市) 岩戸にある 泉福寺。
真言宗豊山派の寺院です。
所在地は 印西市(大字)岩戸1671番地。

薬師堂は 国指定の重要文化財となっています。

泉福寺の駐車場前に建っている案内標柱 「重要文化財」と表記あり


泉福寺 山門 注連縄が 横一文字に張られています


山門を入って正面には本堂 左手を上がったところには薬師堂


泉福寺 本堂 左側は庫裏


左手から本堂を見たところ 回向柱が建っています


本堂の裏手は崖になっています


大正2年(1913)発行『千葉県印旛郡誌』の「宗像村誌」のうち、「寺院仏堂誌」には 以下のように書かれています(後編 P.414)。

(4) 泉福寺

岩戸村 字東郷にあり、真言宗(豊山派)にして千手院(佐倉市)末なり。
千手観音を本尊とす。
宗祖 興教大師 法孫 開基、詳らかならず。
中興、開山 法印・宥順、弘治2年(1556)3月 創立。
法流、開基 法印・果阿、明治12年(1879)10月7日。


堂宇 間口 6間、奥行き 4間半。

境内 382坪あり。住職は竹田果阿にして、檀徒 82人を有す。

(『寺院明細帳』より)

   < 中 略 >

土俗 伝う。元、上の坊の地にありしもの。年月不詳、火災のため、今の地に遷す。
当時、秋の最中にして、猛火の際、里民某 これに行きかかり、如来の寒天にさらさるるを見て 憫れと思い、馬上の稲一束を取りて 救い護りしより、爾来 屋根替えには必ず稲穂の藁一束を交じるをもって例とすと称す。


泉福寺 薬師堂   小高くなった場所に建っています


薬師堂とその境内 広々としています


茅葺きの薬師堂 国指定の重要文化財です


薬師堂を左手から見たところ


薬師堂の説明板 用語が難しくて、容易に理解できません


印西市教育委員会発行のパンフレット 「印西市の指定文化財」 から
説明板よりは分かりやすい説明です でも、まだ難しい


薬師堂の南隣は宗像小学校   同校は泉福寺を仮教場として1873年に開校


大師堂と関連する石碑


印西大師 第74番札所の大師堂


菩薩像や卵塔が整然と並べられていました


燈籠や手水鉢


お堂 2体の石像が納まっています


➜  印旛を歩く(18) 長圓寺 (印西市・師戸)

➜  印旛を歩く(20) 印旛歴史民俗資料館 (印西市・岩戸)