2013年8月30日金曜日

鎌ケ谷の神社(2) 根頭神社(その1)

2回目は、根頭(ねず)神社を取り上げます。
前回取り上げた道野辺八幡神社と同じく、旧道野辺村に当たる地域にある神社です。
「根頭神社」という名前は、根頭の大神が信仰対象であることに由来しています。
東京都文京区根津にある「根津(ねづ)神社」とは発音が同じですが、漢字一文字とそのふりがなが違います。


根頭神社の参道入口


参道入口に建っている鳥居

根頭神社で特徴的なものは美しい参道です。歩いているだけで心洗われる気がします。

杉木立の中を進みます


とても気持ちのよい参道


社叢林は隅々まで手入れが行き届いています


参道は社殿へと続いています

根頭神社の社殿は簡素そのもので、見ていると心が落ち着きます。
神社とは、本来こういうものだったのではないでしょうか。

根頭神社の簡素な拝殿


拝殿の後ろにある本殿 これもまた簡素です


本殿の後ろから見た社殿

根頭神社の境内には「御由緒」が掲げられています。
宮司の北山武司氏の手によるものです。

根頭神社 御由緒

この御由緒も少々難しいので、以下に書き直したものを載せます。
10月19日が例大祭であると明記されています。


    根頭神社について


 根頭(ねず)神社は、道野辺地区の氏神また鎮守の神として、古来当地や周辺住民から「産土(うぶすな)様」と尊称され、あがめられてきました。
  信仰の対象は、根頭の大神(国津神・大地主の神)です。

  創建の年代は不詳ですが、神社境内に続く場所では「西山遺跡」が発掘されています。これは縄文中期の阿玉台(あたまだい)式に属す遺跡であり、住居跡や土器・石器・土製器を出土しています。大昔から人びとがこの地区に住み、生活を営んでいたことは、研究者の認めているところです。

 当地の伝承の一つによれば、この地には「草分け八軒衆」 とよばれる開拓者の八軒がありました。このうちで三橋孫六家の遠い祖先に当たる藤原左衞門丞は、ゆえあって京の公家を辞し、東国に下向するにあたり、当主から権威ある保証の文書とともに大神の神器を授けられ、この地に持ち奉りました。そして、八軒衆に相談して自分の土地を寄進し 社(やしろ)を設け、根頭神社と称したことに始まるといいます。

 本殿は、旧千葉県立師範学校が所持していた天皇・皇后の写真を安置し奉った場所であり、千葉県護国神社の仮本殿であったという由緒ある建物です。

 10月19日は例大祭。神社総代以下、数日、祈願のお籠りをして心身を清め、素朴ながら伝統の神事を執り行います。
  7月15日は宮薙ぎ詣で。氏子が総出仕し、境内の除草や社殿内外の清掃を行ったあと、神恩への感謝の参拝を行います。

  昭和61年(1986年)10月大安吉日
根頭神社宮司 北山武司 記す
 
 
元の御由緒と書き改めたものを対照させたものを以下に載せます。
画像をクリックすると拡大されます。
 
根頭神社 御由緒 (原文・リライト対照版)
 

根頭神社には、古峯(ふるみね)神社の社も設けられています。
このように一つの神社に他の社が置かれているのは、珍しいものではありません。
八百万の神々の伝統でしょうか。
 
古峯神社の社と説明書き


古峯神社についての説明書き
 
説明書きの終わりの部分には、講中と代参講について詳しく書かれていて、とても参考になります。
私は、この部分を読んで、講がどういうものであるのかを初めて理解し、代参講というものが行われていることを知りました。
以下にわかりやすく書き改めます。
 
 

    古峯神社について

       古峯神社からここに勧請(分霊を移して鎮祭)された
 
 古峯神社の本社は、栃木県鹿沼市古峯ヶ原(こぶがはら)にあります。
 信仰の対象は、日本武尊(やまとたけるのみこと)〔第十二代景行天皇の皇子で、別の名は小碓命(おうすのみこと)・倭男具那命(やまとおくなのみこと)〕です。

 古峯神社は、約1300年前に日本武尊の臣下である藤原隼人が京都から古峯ヶ原に移り住んで、日本武尊の御威徳を仰ぎ敬い、その御霊(みたま)をお祀(まつ)りしたことに始まると伝えられます。
 古峯ヶ原は前日光ともよばれるように、日光開山の祖、沙門勝動上人が願を立てた霊地であり、日光山修験者たちの修行・修法の道場、そして祈祷・祈願の一大霊地として繁栄しました。

 御利益は、日本武尊ご東征の途次に火難を逃れたという故事により「火防鎮火の神」として信仰されています。また、海神の怒りを鎮めたという故事により「海上守護の神」として崇められています。さらに、暴風雨を消滅させた故事により「五穀豊穣の守護神」として尊ばれています。
 そのご威光は高く、農村・山村・漁村の人々は熱烈な信仰を捧げています。
 また、日本武尊の神力によって安全・安泰を保ち、商売や家業の繁昌を得られると言い伝えられています。
 
 先祖代々信仰を続けている信者が多く、当地もその例に漏れません。講社をつくり、春秋のどちらかに講中の代表か代参者となって本社に参拝し、御祈祷のうえ御神札をいただいてくるのを慣わしとしています。
 講社もしくは講中とは、神社を崇め敬う人々が集結して組織する団体です。本社参拝の代表者を選定したり代参の費用を準備することなど、講運営のすべてを、講元や世話人を中心にして、講の仲間の人々が執り行います。
  代参とは、講中の代表として本社に代理の参拝をし、御祈祷していただき御神札を受け取って帰り、それをすべての講中の人々に配布するのがその役割です。講中から毎年何人かが選定され、毎年交代で全講員がこの役を務めます。
 
               根頭神社宮司 北山武司 記す

  昭和61年(1986年)10月大安吉日
      社殿改修完成を記念して
         道野辺 古峯ヶ原講社 これを建てる


これについても元の文章と書き改めたものを対照させたものを以下に載せます。
画像をクリックすると拡大されます。

古峯神社について (原文・リライト対照版)


2013年8月24日土曜日

鎌ケ谷の神社(1) 道野辺八幡神社(その1)

鎌ケ谷の神社について取り上げていきたいと思います。
最初に取り上げるのは、道野辺八幡神社です。
神社としての歴史はそんなには古くはありませんが、現在では鎌ケ谷を代表する神社となっています。

道野辺八幡神社 鳥居 東武野田線 鎌ケ谷駅から歩いて5分の距離です


道野辺八幡神社に至る参道は2本あります


きれいに掃き清められた境内


道野辺八幡神社 拝殿


拝殿の後ろに見える本殿


拝殿に向かって左にある参集殿


2011年の秋に開催された鎌ケ谷市郷土資料館の「第12回ミニ展示 地区の歴史と文化財④  ―道野辺―」において、「由緒は不詳ですが、江戸時代の半ばころまでは小金中野牧の内であったようです」と述べられています。


神社の境内には「御由緒」が掲げられています。

道野辺八幡神社 御由緒

少々わかりづらいので、以下に書き直したものを載せます。


 道野辺八幡神社について


 道野辺八幡神社は 、鎌ケ谷市内の代表的な神社として「道野辺八幡宮」と尊称され、市民や近隣の住民からあがめられています。
 信仰の対象としては、八幡大社の誉田別尊(ほんだわけのみこと)〔応神天皇〕ほかを祀(まつ)っています。

 創建の由来は、長い栄枯盛衰の歴史の中で資料が散逸したり、世情の遷(うつ)り変わりにより伝承や伝説が風化してしまったりしたため、明らか ではありません。
 伝承によれば、鎌倉時代に中沢城(東城と西城)の築造に関わって、この地が城の鬼門の方角にあるとし、厄除け・方位除けの神、弓矢兵馬の神、文武勝運守護の神として、城を守護するために創建されたものだといいます。
 また土地の伝説によれば、平将門が下総地方を征服し、市川大野の地に宮殿を建てて、中沢にも築城した際、置かれたものだといいます。

 ご利益は、信仰対象の特色から、厄除け開運、殖産・興業、学芸成就、子育て安全・成育、安全息災、勝運守護に、特に霊験あらたかなものがあります。

 一年間をとおしての行事は数多くあります。

  1月1日 歳旦祭
  1月2日 開運祭
  1月3日 元始祭
  1月25日 学神祭
  2月節分 節分祭
  5月5日 春祭
  10月15日 秋祭
  11月15日 七五三祭
  12月31日 除夜祭

  毎月1日と15日 月次祭

 どの行事も人出が多く、社前は終日参拝者で賑わいます。初宮詣で、車祓い、地祭(地鎮祭他)等は隨時行われています。

                   道野辺八幡神社 社務所
 
 
元の御由緒と書き改めたものを対照させたものを以下に載せます。
印刷して見る場合には、これが一番わかりやすいでしょう。
画像をクリックすると拡大されます。

道野辺八幡神社 御由緒 (原文・リライト対照版)
 

 
 境内を歩いてみると目を楽しませてくれるものが見つかります。

実物大の白馬像が置かれています


数多くの絵馬 年始には参拝者で賑わいます

 
「学問の神 天満宮」 の小社


境内にはさまざまな小社や祠が並んでいます


手水鉢の上には和歌の書かれた扁額が かかっています


割 込 2015.08.19

上の写真の手水舎は、もうありません。
2012年11月に 新しく建て替えられています。
扁額もすでにありませんが、手水鉢自体は前と同じです。
現在の手水舎については、以下の記事の中ほどを ご参照ください。

➜ 鎌ケ谷の神社(7) 道野辺八幡神社(その2) 「福市」

割込終了


扁額の部分を拡大


扁額の写真の3行目にある「丈部の」は、書き違いだと思われます。
この部分を修正して写すと、以下のとおりになります。

    萬葉集弐拾 上丁 丈部の鳥

    道野辺の 荊の末に はほ豆の
       からまる君を 離れか行かむ

原文 : 美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃
       可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟

読み : 道の辺(へ)の 茨(うまら)のうれに 延(は)ほ豆の
       からまる君を 別(はか)れかゆかむ

意味 : 道端の ノイバラの先端に 絡まるマメの蔓のように
       私にまとわりつく妻の手を
       振りほどいて 旅に出なければなりませんでした

防人(さきもり)として選ばれた、兵士の階級が「上丁(かみつよほろ)」である 丈部鳥(はせつかべのとり)という人が、妻との別れを惜しんで詠んだ歌です。

「道野辺」という地名と同じ言葉が使われている歌が 万葉集にあることを知っていた人が、手水鉢の扁額として掲げたものでしょう。


この歌について調べてみたところ、次のようなことがわかりました。

出典 : 万葉集 第二十巻 第4352首

題詞 : 天平勝寶七歳乙未(きのとひつじ)二月 相替遣筑紫諸國
      防人等謌

      「相替遣筑紫諸國防人等謌」の部分は、「相替りて筑紫に遣
      はさるる諸國の防人等(さきもりら)の歌」と読む

補足 : 二月九日 上総國 防人部領使 少目従七位下 茨田連沙弥麻
      呂 進謌數 十九首 但拙劣謌者不取載之

      「防人部領使(さきもりことりづかい)」は、防人の交替に
      あたり、東国の防人を筑紫まで引率する使いのこと

     「但拙劣謌者不取載之」は、「但し 拙劣(つたな)き謌は之
      を取り載せず」と読む
      進上せず、打ち捨てられた歌も数多くあったのだろう

      天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年 (755年) 2月
      9日に、 上総國(かずさのくに)の防人(さきもり)を引
      率する役人であった茨田連沙弥麻呂(まむたのむらじさみ
      まろ)が進上したとされる歌の一つがこれである

作者 : 右一首 天羽郡 上丁 丈部鳥(はせつかべのとり)

      「天羽郡(あまはぐん)」は、上総國にかつて存在した郡
      上総國西端の富津岬から浦賀水道に面した区域がその領域
      現在の富津市の大部分に相当する

      「上丁(かみつよほろ)」は、兵士の階級であり、課役を負
      った成年男子をいう

      「丈部(はせつかべ)」は、走り使いの部民(べのたみ)の
      こと



追 記 2013.08.30

iPhone 等のスマートフォンでも表示がくずれないよう、改行の位置を変えました。
ただし、ウェブバージョンだけに対応しています。


追 記 2015.01.01

道野辺八幡神社には、すばらしいホームページがあります。
多くの写真や説明が大変参考になります。
ぜひ、ご覧になってください。

➜  道野辺八幡宮 トップページ

➜  道野辺八幡宮のご案内 


 

2013年8月19日月曜日

2013.08.18 八千代市立郷土博物館

古文書講座に参加するため八千代市立郷土博物館を訪れました。

郷土博物館の入口とその周囲

講座での学習のあと、博物館の展示やその周囲を見学しました。
まず はじめに、博物館入口の左に置かれている道標を見にいきました。

めずらしい道標です わかりやすいですね

指さしている手の左の部分は着物のたもとです。
この部分の石の色が違っています。
どうやったのでしょう。芸が細かいです。

文政3年(1820年)に建てられたもので、説明書きによるとバイパス工事のため一時的に この博物館に移設されているそうです。
道路が完成したら、元の場所に戻されるとのこと。
この道標とそっくりなものが館内にも置かれていました。

外に置かれている道標のレプリカのようです

外に置かれている本物が、元の場所に戻されたときに備えてレプリカを作ったのでしょう。
なかなか立派なことです。
本物と違って着物のたもとの部分がはっきりしません。

再び外の景色。
かつては この地にあった村上小学校が建設された際に植えられたというクスノキがそびえています。

堂々とした大樹です

植えられたのは明治40年(1907年)のこと。
今から1世紀以上も前になります。


館内は広々としており、常設展と企画展の展示を見ることができます。
企画展は「昆虫展 in 八千代」と題した昆虫標本の一大展示です。

みごとな企画展の展示

前にも見たことがあるのに、モルフォ蝶の翅が、あんなにも青く金属のように光っているとは気づきませんでした。
この翅の輝きは、構造色によるものだそうです。カワセミの羽と同じですね。
写真撮影禁止となっていたので、代わりにチラシを載せます。

左の青い翅はモルフォ蝶のものです

この企画展は9月1日(日)まで です。
小・中学生たちの夏休みの期間を開催期間としたようです。
詳しくは八千代市のサイトにある以下のファイルをご覧ください。
http://www.city.yachiyo.chiba.jp/content/000028976.pdf

この企画展は、足を運んで見る価値があると思いました。


八千代市立郷土博物館は、「季節展示」というものを継続的に行っているようで、いまは「七夕と盆行事」について展示しています。

知っているようで 知らないこと

お盆について詳しく説明がなされていて、大変参考になりました。
お盆に関する一般的な知識が得られるとともに、八千代市域におけるお盆の時期の様子がわかります。

お盆についての説明


お盆で使われるものの展示


八千代市域における お盆のスケジュール


個人的に興味をもっているガラガラについての展示もありました。
これについては、以前の記事に追記してあります。

 白井市神々廻で目にしたもの


常設展は時間がなくてゆっくりと見られませんでした。
いずれ ご紹介したいと思います。

市域を流れる新川(印旛疏水路)に平行して車で走り、起伏のある地形を楽しみながら帰ってきました。