2015年6月12日金曜日

北総の宗像神社(6) <印西市・平賀ひらか

今日、折よく近くを通りましたので、平賀の宗像神社に立ち寄りました。
この神社の素晴らしさは、前日にお仲間の Iさんから聞いていました。
行ってみると、Iさんの言うとおり 本当に素晴らしい神社でした。

梅雨の時季にて、雨に濡れたアジサイがきれいでした


神社入口の右手に祀られていた 冨士山浅間大菩薩


1 平賀宗像神社


平賀の宗像神社は、印西市平賀1番地にあります。
ここが「1番地」であることには、きっと理由があるはずです。
なお、「平賀」は濁らずに「ひらか」と読みます。

宗像神社の鳥居です


鳥居の前の右手には碑(いしぶみ)が建っています


「村社宗像神社」とあります 平賀村の村社の意です


かつての鳥居の土台が前方に見えます


社殿に向かって少しずつ高くなっていきます


立派な両部鳥居です


参道の奥に かすかに見える社殿


深い鎮守の杜の静寂に守られています


拝殿に続く参道は とても長い



拝殿に近づきました 堂々とした狛犬


様々に時期に建てられたと思われる灯籠が並んでいます


拝殿の正面 注連縄が独特です


拝殿の後ろにある本殿 美しい曲線を描いた屋根です


背面から見た本殿と拝殿


本殿の後ろにあった矢 魔除けでしょうか

立ち去る際、氏子と思われる方にお会いしました。
「実に立派な宗像神社ですね」と話しかけると、「岩戸の宗像神社の方がずっと立派でしょう」というお返事。
岩戸の宗像神社を訪れた折に、大変立派な本殿を見て驚かされましたので、言わんとすることが分からなくもありませんが、「建物が立派であることが、神社の立派さではないと思います」と自分の思いを告げました。
平賀の宗像神社は、規模の雄大さと 神社本来の簡素な美しさとで 抜きん出ています。


* * * * *


大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「六合村誌」には、村社 宗像神社の一つとして以下のように書かれています(後編 P.389~390)。


(8) 村社 宗像神社

平賀村 字宮前にあり、湍津姫命たきつひめのみこと田心姫命たきりびめのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみことを祭る。
由緒不詳。

社殿(本殿) 方 6尺。
拝殿 間口 4間3尺、 奥行き 2間3尺。
境内 880坪あり。
神官は香取兵吉にして、氏子 125戸を有し、管轄庁まで6里18町あり。

境内4社を祭る。
即ち、
1 琴平神社 大物主命おおものぬしのみことを祭る。 由緒不詳。 建物 方5尺。
2 三峯神社 伊弉諾命いざなきのみこと伊弉冊命いざなみのみことを祭る。 由緒不詳。 建物 方3尺。
3 疱瘡神社 稻脊胵命いなせはぎのみことを祭る。 由緒不詳。 建物 方3尺。
4 五社神社 大日靈貴命おおひるめむちのみこと埴安姫命はにやすひめのみことおお貴命むち の みこと少彦名命すくなびこなのみこと倉稻魂命うかのみたまのみことを祭る。 文化年中、旧領主 堀田殿によるお達しに付き、社日しゃにちを祭日と為し、五穀成就を仕来たり候う(慣例としている)。 建物は石祠いしぼこらなり。

「伊弉諾」の読み方には、一般に流布し、辞典や百科事典が見出し語として採用している「いざなぎ」と、多くの研究者に支持されている「いざなき」の二通りの読み方があります。
ここでは「いざなき」としておきます。
詳しくは、以下のサイトをご参照ください。

➜  雑想庵の破れた障子  イザナギなのか? イザナキなのか?


拝殿の手前、左側に小祠がふたつあります。

手前の小祠 左側が金刀比羅宮、右側が三峯神社です


奥の小祠 「天満宮」と書かれた額が かかってます


本殿の後ろ、右側にも小祠があります。

この小祠は 疱瘡神社なのでしょうか


疱瘡神に関わる 赤い御幣が立っています


少し離れた場所には、石の鳥居を備えた石柱が祀られています。

五社神社 いまは石祠ではなく 五角形の石柱です


『千葉県印旛郡誌』の続きを見ていきましょう。


式外なり(『延喜式』の「神名帳」に記載のない神社、いわゆる式外社)
祭神を、田心姫命たきりびめのみこと湍津姫命たきつひめのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみこととす。

人皇第15代 応神天皇の12年、みことのりして、印旛の地に印旛国造 伊都許利命いつこりのみことを置く。
まず印東を鎮め、公津の地に居す。 「公津」は「神津」なり。
命、印西の地に渡るや、必ず鳥居河岸(成田市台方にあり、印旛沼の中に鳥居が建っている)より当地・字公津の川岸に上陸す。

ここにおいて、まず平賀の地をひらく。「平賀」は「開く」の義にて、印西の地、まず この地より開かんとの旨にて、後世に遺して村名となれり。

この地や、ほぼ四面湖水に臨み、北端の一角 わずかに一地峡により山田むらに接続す。
年々、水難を被むること夥し。ここに南端に水神 水波女神みづはのめのかみ(『日本書紀』では 罔象女神みつはのめのかみを祭りて、土民を安堵せしむ。
命、自ら治水の功を績む ここに、宗像神社を鎮めさせ給う。
命の功績とともに後世に伝う。
これ往古より「平賀の二宮」と伝わる所以ゆえんなり。
土人、代々、命の息瀬(?)に おじ畏み(?)、違う心なきものありて、二社に仕え奉る。
自然、族姓となりて「二宮」という。これ偶然にあらざるなり。

この地 開くや、まず麻とこくとを植え、耕作の進歩を計る。
ここにを数造るの人を生ず。
「麻」は口に宇牟(「む」:「繊維を細く長くより合わせる、紡ぐ」という意か)ものにて、「多」は古語に「澤」に訓ず。
「宇澤」「鵜澤」という一字違いの姓多し)の号、これより出づ。
(上の記述部分、意味不明)

「穀」を作るの一族、後世また姓となる「米野」「豊田」の類、これなり。

「二宮」「鵜澤」 両氏寄進による 拝殿前の防火水槽

命、また、居家を定め、天津日嗣あまつひつぎ(天皇の位を継承すること) 応神天皇を祭り、大伯父 神八井耳神かんやいみみのみことを以て鎮祭の礼を行わしむ。
今日に残れる笠井の一族は、神八井耳神の後裔にして、「笠井かさい」は「神八井」の略言なり。

世俗に、平賀・山田の地は、「粟」または「氾海」(?) (「氾」の元の字は「サンズイ(氵)に厄」)と称す。これ、阿波忌部あわいんべに因みあるによる。

古来、一村挙げて齎食す(「齎」の元の字は「齊」の下の部分が「頁」)神孫の遺風、今日に確立す。嘉ぶべきなりとあり。

(以上、古老の口碑ならびに宗像神社由緒による)


神社には珍しい小ぎれいなトイレがありました


2 平賀地区構造改善センター


平賀の宗像神社から そう遠くないところに「平賀地区構造改善センター」があります。

平賀地区構造改善センター

これまでにも、いくつかの構造改善センターを見てきましたが、こんなに大きくて美しい建物を見たことがありません。
平賀地区に住む人々の思いがこもっているように思いました。

なお、ここは印西市の平賀出張所ともなっています。

堂々としたきれいな建物です 奥行きがとても深い


3 平賀小学校


平賀地区構造改善センターの近くには、平賀小学校があります。
オレンジ色の屋根が特徴的な、実にしゃれた建物です。
ここにも地域の人の願いが込められていると強く感じました。

印西市立平賀小学校