2013年6月22日土曜日

白井市平塚で目にしたもの

以前、お仲間と今井堤の桜を見にいく際、白井市の神々廻ししばをとおって平塚へと歩を進めました。
平塚に入るとすぐに、道路に面して墓所がありました。
そこでこんなものを目にしました。
小さな腰掛けのようなものを見てください。


いったい何なのでしょう。鎌ケ谷では見たことがありません。
名前も用途もわかりません。
一緒に行った方々もご存じありませんでした。

近づいてよく見てみました。
お供えをするためのものでしょうか。


お墓の前だけではなく、多数、墓所のいろいろなところに置かれています。樹木のそばや馬頭観音の前にも供えられています。


これを見た日から1カ月半も経った頃のこと。
白井市の古文書講座に参加していたとき、休憩時間に前席の人たちが、<ガラガラが ・・・> と話をされていました。
おききすると、それは今井の桜を見にいったときに、墓前で見たもののことでした。
やっと名前がわかりました。「ガラガラ」と呼ぶのです。

その後に参加したある散策会では、白井に住むご婦人から以下のような話をお聞きしました。

  私たちは、「お膳」と呼んでいました。
  お盆のときに墓前に置いてお供え物を載せました。
  ナスやキュウリなどを供えました。

  「お膳」は 真竹で作りました。
  柔らかい若竹を使うと足の部分を作るとき 簡単に折れ曲がります。
  天蓋の部分には四角く真菰を巻き付けていきました。
  この真菰は2~3日天日干ししてから使いました。

  作り方は親から教わりました。
  いまではもう昔のようには作らなくなくなりました。
  真菰が少なくなってしまったのも一因でしょう。
  でも、白井では手作りの「お膳」がまだ供えられているようです。

ネットで検索したら、いくつかのことがわかりました。
東京にもこのガラガラが残っているようです。
「ガラガラ」+「膳」で、「ガラガラ膳」と呼んでいるところもあるようです。
以下は、参考になるネット情報です。

足立区/お盆のガラガラ膳(ぜん)
http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-garagarazen.html

葛飾区のお盆の風習「ガラガラ」
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1426

以下のブログの記事は、すべて同じ執筆者によるものです。
なんとこの方の修士論文のテーマが、このガラガラだそうです。

ブログ「短冊書いた」から 「ガラガラ」の正体
http://d.hatena.ne.jp/tanzakukaita/about

ブログ「短冊書いた」から 千葉県白井市平塚
http://d.hatena.ne.jp/tanzakukaita/20050815

ブログ「短冊書いた」内を「ガラガラ」で検索
http://d.hatena.ne.jp/tanzakukaita/searchdiary?word=%A5%AC%A5%E9%A5%AC%A5%E9&type=detail

いろいろなことがわかりました。
修士論文を書いた人にはお会いしてお話を聞いてみたいと思いました。



追 記 2013.06.28

松戸市常盤平にあるホームセンターで「ガラガラ」が売られているのを見ました。
他のお盆用品にまじって、「お盆用まこも膳」という名前で並んでいました。


脚の部分は、折り曲げられていませんでした。
そぐそばでお盆用品を選んでいた年配の方に、「脚の部分は折り曲げられるのですか?」とおききしたところ、即座に「折り曲げられます」とお返事が返ってきました。
ということは、この方は「ガラガラ」のことをよくご存じであるということです。
松戸市では「ガラガラ」が使われているのでしょうか。
また、新しい興味が涌いてきました。



追 記 2013.07.02

今日は白井にあるホームセンターで「ガラガラ」が売られているのを見ました。
こちらは、より直接的な表現で「お墓用真菰膳」という名前でした。
名前が違うと、使われ方にも違いがあるかもしれません。


松戸のホームセンターで見たものより若干大きいようでした。
値段も30円高かったです。

ガラガラの裏面はどうなっているのか知りたくなって、裏返してみました。


十字にした竹に真菰を巻き付けながらお膳の部分を作っていくのですね。
この真菰は、宗教的な意味合いをもったもののようで、ガラガラ膳以外にも用いられているようです。
真菰をすだれ状にしたものも売られていました。
同じ用途に使うのかもしれません。


どうして真菰が使われるのでしょう。
調べてみる価値がありそうです。



追 記    2013.07.17
訂正・追加 2013.09.13

散策会の折に、白井市に住むGさんから また貴重なお話を伺うことができました。

  「お膳」(ガラガラのこと)は、8月13日の昼頃までには お墓に設けま
  した。
  8月13日の夜には、霊を家に呼び寄せるために、お墓で迎え火を焚き
  ました。
  オガラを玄関先で燃す家もありました。
  ウチではやりませんでしたが。

  14日の朝には、「お膳」の上に野菜等を供えました。
  ナスとキュウリをサイの目に切って生米とともに水に浸し、「お膳」の
  上に一つかみずついっぱいになるまで載せていきました。

  「お膳」は、お盆が終わってもそのままにしていました。
  翌年の8月1日にお墓の掃除をしたときに片づけました。
  だから、一年ほどは墓前に残っているわけです。

白井市・神々廻の墓所にガラガラが残っていたのは、片づけるのを忘れたわけではなく、この地域の風習なのだということがわかりました。



追 記 2013.08.19

昨日、八千代市立郷土博物館を訪れた際に、季節展示のコーナーで「七夕と盆行事」について展示していました。
この季節展示の全体については、以下の記事に載せてあります。
 2013.08.18 八千代市立郷土博物館

この展示を見ていて、八千代市域においても、ガラガラがお盆のときに使われていることがわかりました。

ガラガラが供えられている様子

上の写真のガラガラは、ホームセンターで売られているものとは形が違っていて、ずっと素朴な感じがします。

展示されていたガラガラ 脚の部分が切ってありました

展示されていたガラガラの実物は、ホームセンターで売られているものと同じ形をしていました。

仏壇の前に供える盆棚(精霊棚)についても、ていねいに説明されていました。

ガラガラと関係のある盆棚についての説明

この説明で重要なのは、「この盆棚の下には無縁仏用の供え物をします」という部分です。
この記事の最初の部分で、ガラガラが「お墓の前だけではなく、多数、墓所のいろいろなところに置かれています」と書きました。
このことと呼応しているように思います。



追 記 2013.08.25

昨日、印西市の別所地蔵寺の獅子舞見学を主にしたウォーキングに参加しました。
獅子舞の行列は地蔵寺から出発し、少し離れた地蔵堂(別所熊野神社)まで移動し、そこで舞われます。

地蔵堂の境内を見て回っていると、念佛供養塔の横にガラガラが置かれているのに気づきました。

花は供養塔の前に供えられています

ガラガラが なぜ供養塔の前ではなく、横に置かれているのかは不明です。
これまでに見たガラガラは竹でできた脚が曲げられて地面に刺さっていましたが、ここでは平らに置かれています。

この地区に住む人が作られたものだと思います

武西地区にお住まいの方から、印西におけるガラガラの用い方やお盆についてお聞きすることができました。

  私たちは、これを「お膳」と呼んでいます。
  昔は、神崎川の川岸にマコモを取りに行って、それを2日ほど干して  
  「お膳」や「馬」を作りました。
  マコモは枯れ草のいい匂いがしました。

  マコモで作った「馬」は川に流しました。
  亡くなった人がその「馬」に乗って帰ってくるのだと教わりました。

八千代市立郷土博物館に展示されていた真菰馬

  お盆の1週間前には、お墓の掃除をしました。
  13日の夜にはオガラを燃やして、迎え火を焚きました。
  オガラは燃やしてもそう臭わず、よく燃えました。
  「お膳」には、キュウリの馬とナスの牛、それに洗った生米を載せて、
  お墓に持っていく準備をしました。

  14日と15日には朝も明けやらぬ真っ暗なうちからお墓に「お膳」を持
  っていきました。
  怖いやら、眠いやらで、子どもにとっては嬉しいことではありませんで  
  した。
  お盆が過ぎても「お膳」はそのままにしました。
  翌年のお盆の前に片づけました。

白井と似ているのは、ガラガラをお盆の後も 1年間そのままにする点です。
また、マコモで「馬」を作って川に流すのは、八千代とそっくりです。

地蔵堂横の道路に面した掲示板には、別所地蔵寺の獅子舞の案内が貼ってあり、その1行目には「別所施餓鬼のご案内」とありました。
この施餓鬼はお盆が終わった後に行われる法会であるようです。

Wikipedia には、施餓鬼について以下のように書かれています。

  訓読すれば「餓鬼に施す」と読めることからも分かるように、六道輪廻
  の世界にある凡夫の中でも、死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のために
  食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指す。

ガラガラが、馬頭観音や樹木の前、念佛供養塔の「横」に置かれているのは、上記のこととも深く関連しているように思います。



追 記 2013.12.03

昨日、印西市の北総花の丘公園に出かけた際、戸神川防災調節池にマコモが茂っているのがよく見えました。

橋の上から撮ったマコモ


けっこう長く成長します


水に浸っているのがよくわかります

マコモは飛来したオオハクチョウの餌になっています。

今年飛来してきたオオハクチョウ


オオハクチョウの幼鳥



追 記 2014.07.11

ガラガラについての深い考察が書かれた資料を見つけました。
横地留奈子氏の「家族内無縁仏を鎮める装置としての精霊棚一千葉県白井市平塚榎台における「ガラガラ」の対象について」という修士論文のサマリー(要旨)です。
ぜひ、行間を読んでいただきたいと思います。
リンク先は以下です。

 ➜  国立情報学研究所 学術情報ナビゲータ (CiNii サイニィ) 該当ページ

ページの中程から始まっていて読みづらいので、横地氏のものだけ取り出してまとめました。
この文字をクリックすると拡大されます


この文字をクリックすると拡大されます



追 記 2014.09.04

成田市にある「坂田ヶ池総合公園」の駐車場から すぐ近くにある「天王山観行院」(成田市大竹759番地)を訪れてみました。



近辺には江戸時代初期の墓石などがあり、由緒のありそうな場所に思われました。
大師堂と思われる小堂がありました。


中をのぞいてみると、大師像の前には、ガラガラの上の部分とそっくりなものが置かれていました。


上に載っているものを見てみると、生米、ナス、キュウリといったものです。
ガラガラの上に載せられるものと同じではありませんか。


これがどういう目的のものなのか、どうしてこの場所に置かれているのか、なんとか知りたいものだと思いながら この場所を辞しました。


なお、「観行院」については、『千葉縣印旛郡誌』(1913)に以下のように書かれています (下巻 「八生(はぶ)村史」の第11章中、Pp.834-835 )。

大竹村の字竹之内にあり、薬王寺と称する。天台宗に属し、中本寺である龍角寺の門徒である。本尊は薬師如来である。
開山は、天文(てんぶん)25年(?  天文は24年(1555)まで) 4月、法名權律師 祐海和尚による。この祐海和尚の父親が 二世 道香禪定門 観行房という人であり、院号はこの観行房という名前から付けたという。
六世 三部都法大阿闍梨 法印覚栄は、観行院の草庵に来て 寺院の築造に志し、ついに間口6間、奥行き5間の道場を創立した。時に宝暦5年(1755)2月28日のことである。寛政2年(1790)に再建立。
堂宇は、間口6間、奥行き4間半。境内は127坪である。住職は小見妙聲であり、檀徒は18人。管轄庁までは9里32町ある。
八坂神社の神霊と称する鏡が存在する。また、天台宗では 一字金輪仏頂(いちじきんりんぶっちょう)如来がもっとも貴い秘仏として称えられてきているが、観行院に数百年間 蔵せられてきたといわれるその仏像については 大変疑わしく、本山に照会し研究を委ねているところであるという。



追 記 2014.09.06

『印旛村史  通史Ⅱ』(1990)を読んでいたら、「盆の行事」の項で 「ガラガラ」についてふれていました。

ガラガラ 8月12日 ナス・キュウリなどの野菜を四角に細かく切ったものに米をまぜたものをアラヨネと呼び、これをのせるために、マコモと細
く裂いた竹を使ってお膳のようなガラガラというものを作る。ガラガラは墓のドマンジュウの数だけ用意するため、多い家では20個以上も作る、また、墓参でガラガラと一緒にボンバナ(盆花)を生けるハナタテ(花立て)を使う。このハナタテも竹筒でガラガラと同じ数だけ作る。(Pp.809-810)

ドマンジュウ(土饅頭): 土葬の墓印である


ガラガラの上に載せるものにも名前があるとは考えもしませんでした。
どんな意味なのでしょう。
他の地域でも「アラヨネ」と呼ばれているのでしょうか。
調べてみる価値がありそうです。



追 記 2014.09.10

「アラヨネ」について検索していたら、以下の記事が目にとまりました。

 ➜  千葉県立中央博物館 房総のむら 年中行事「盆」
 ➜  食べ物 新日本奇行 ナス・キュウリ(その3)
 ➜  砂久保日和 お盆です

浅学にて、これらの記事にコメントできません。

「アラヨネ」の語源ですが、「洗い米」という言葉が短縮化したもののように思われます。

 ➜   kotobank 洗い米 【アライヨネ】



追 記 2015.02.18

昨秋、印西市の物木地区を歩いたときに、マコモを身近に見ました。
物木落ものきおとし沿いにマコモが生えているのを見て、かつては こんなふうに多くの水辺に生い茂っていたのだなと思いました。


湧水を集めて流れる 物木落沿いに 多くのマコモが生えていました


マコモが密生している湧水溜まりもありました



追 記 2015.05.16

鎌ケ谷市の郷土資料館に 中沢展(後期展示)を見にいった折に、1階の常設展示スペースのパネルが一新され、展示物がずっと見やすくなっていました。
いつもは見逃してしまうものにもパネルが付けられていて、親しみを感じました。

その中に、何と真菰馬が展示されていました(展示されているものは、マコモの代わりに稲藁が使われています)。
鎌ケ谷にも、真菰馬を作る風習があったのです。
説明を見ると、川に流すことはしなかったようですが、お盆の直前に作られたとのことです。

七夕の馬 (真菰馬)



追 記 2015.10.06

鎌ケ谷市軽井沢にある中央自動車大学校の近く路傍で ガラガラを見ました。


私が鎌ケ谷市内でガラガラを見たのは これが初めてですが、知人の Kiさんによれば 粟野の共同墓地や市制記念公園の近くの畑でも見ることができるそうです。



追 記 2015.11.06

印西市大廻にある宗像神社脇の路傍で多くのガラガラを見ました。
仏像や講中の建てた塔ひとつずつに、竹製の花生けとともに供えられていました。

菩薩像や青面金剛像の手前に ガラガラがありました


二十三夜講など様々な講中が建てた塔の前にも ガラガラがありました



追 記 2016.02.17

『鎌ケ谷市史 資料編Ⅴ (民俗)』(1993)の P.337に、ガラガラについて書かれていましたので、引用します。

 ガラガラづくり

 通常は墓前に、家によっては道辻などに、マコモで編んだ小さな棚を設置する。 この棚のことを多くはガラガラ、単にお棚、あるいは仏様の腰掛けなどと呼んでいる。 竹を脚にし、マコモを巻いて作った。 昨今では売っているのを買うようになった。
 数としては、一つだけ、墓石の数分(かつては一つにまとめていなかった)、あるいは、後述の盆行事とも関係するが、仏様(御先祖様)の数分などと、さまざまである。
 日にちとしては、8月11日という場合が多い。 それ以外では、栗野の7日、軽井沢の12日などがある。ただし、初富の光円寺(真宗大谷派)檀家ではやらない。
〈鎌ケ谷市域 全域〉


また、CiNii(国立情報学研究所 学術情報ナビゲータ〔サイニィ〕)で、以下の大変重要な抄録を見つけましたので、引用します。
なお、読みやすくするため、勝手ながら段落を付けました。
引用元は下記のサイトです。

➜  CiNii 利根川下流域における盆の精霊棚の一例


人文地理学会大会 研究発表要旨 2011(0), 16-16, 2011
The Human Geographical Society of Japan
                  

利根川下流域における盆の精霊棚の一例


横地 留奈子 YOKOCHI Lunako


抄 録

 関東地方南部、利根川下流域である東京都、埼玉県、茨城県、千葉県をまたぐ範囲には、特異な形の盆の風習がある。 一般に、盆は、祖霊祭であるとされている。 かつては旧暦の7月中旬に行われることが多かった。 新暦が導入された明治6(1873)年以後の日程は、さらに多様化している。 7月や月遅れである8月の13日から15日、または13日から14日、そして8月の初旬に行われている地域もある。
 
 祖霊を家に迎えることが主と捉えられているが、同時に無縁仏が家にやってくるともいわれる。 祖霊とは、イエの先祖の霊である。 一方の無縁仏には二種類あり、一つはかつてイエの構成員だったが先祖とならなかった霊、もう一つはイエとは無関係と考えられる霊(行き倒れなど)である。
 
 盆の期間には迎えと送りが行われる。 迎えとはイエの墓地や辻、川や海などからイエまで祖霊を迎えることである。 祖霊に対しては一定期間イエで供物を捧げ、その後再び祖霊を送る。 その祀り方も、地方毎の特色がある。 盆棚と呼ばれる祖霊を迎える台を庭や屋内に設けたり、祖霊と共に家に来た無縁仏に対して屋内や屋外で供物を出したりする。 関東地方南部の利根川下流域では、8月、もしくは7月の13日から15日に行われる。 都市部では7月、農村部では8月に行われるとされる。
 
 盆は、おおよそ以下のように営まれる。 13日の夕暮れに「お迎え」を行う。 集落の墓地に、灯りのない提灯を持って住民が訪れてくる。 家の墓へと向かい、水をかけ、線香を手向け、お供えの食物を供える。 墓石の前で提灯に火を灯すと、また家へと帰って行く。 東京都北西部では、墓地が遠い場合は家の前の道路で祖霊を迎えることもあるという。 素焼きの皿の中でオガラを焚いて音を鳴らせる地域もある。 家ではあらかじめ仏壇の前に盆棚を用意し、位牌を並べて置く。 墓地からイエに着いた祖霊は、そこに留まるという。 盆棚には朝昼晩と3度の食事を出す。
 そうして祖霊が留まる中、千葉県北西部や茨城県南東部では、14日の昼には祖霊が「タカノノセガキ」へ出かけると説明する地域もあった。
 15日は「送り」である。 送る祖霊にお弁当を持たせたる地域もある。 祖霊の乗り物としてナスの牛やキュウリの馬を作ったりする。 そうして夕方、盆棚から提灯を灯して祖霊を迎えた場所まで行き、提灯の火を消すと完了である。
 
 以上のように、祖霊を墓などから迎え、送る一連の動きが、墓とイエとで行われている。 ところが、祖霊をイエに迎え、誰もいないはずの墓地へ、14日早朝に行く地域もある。 千葉県北西部と茨城県南東部である。 民俗学でも「14日の墓参」と呼ばれ、全国に分布してよく知られた風習であるが、その時に使用する台が、今回のテーマである。
 材料は、30cm長の竹棒2本と一晩干したマコモである。 竹棒2本を十文字にし、マコモで四角く編んでいく。 15cm四方まで編むと、残った15cmほどの竹棒を折り、脚がわりとして地面に立てる。 14日の墓参の際には、マコモで編んだ屋根上の部分に「アラヨネ」「ミズノコ」と呼ばれる、イモの茎やキュウリ、ナスなどを刻み生米を混ぜたものを乗せる。
 墓参の対象は、行為者に聞いても不明であった。 一方、全く同じ台を使いながら、その対象を祖霊とし、13日の迎えで使用する地域もある。
  作成に手間のかかる同一の台を広い地域で行われているにもかかわらず、その使用方法や意味付けが異なるのはなぜか。 分布の広がりから考察することが本研究の目的である。



追 記 2016.02.25

印西市・滝にある瀧水寺に立ち寄ったときに、青年館の裏手にある梅の木の近くに多くの花立てがあり、無縁仏を弔っているものではないかと思いました。
お盆の時期にガラガラが置かれるのでしょうか。




追 記 2016.11.12

ガラガラを初めて見た墓所の写真を久しぶりに見ていたら、そのすぐそばの三叉路に3基並んで建っていた石造物に、「平塚村」などと彫られていることに気づきました。

左(➀)には、「平塚 中臺・竹下講中」
中央(➁)には、「平塚村 中臺竹下坪」 
右(➂)には、「平塚邑(むら)」とある

これまで「神々廻」だとばかり思っていた場所は「平塚」であったようです。
遅ればせながら、ここに訂正させていただきます。

左から ➀大日如来(1811)、➁庚申塔〔不明〕(1898)、➂神碑(1838)

これらの石造物については、白井町教育委員会発行の『白井町石造物調査報告書 −−− 第三集 −−−』(1988) Pp.75~76を参考にしました。

同書では、石造物の所在地名を「榎台 入口分岐大日塚」としています。

➀の大日如来坐像の像容は、智拳印の印相を結んでおり、金剛界の大日如来です(材質は安山岩)。
この場所の近くにある「榎台 入口 大日塚」(紛らわしい名前です)にも大日如来坐像(1672)がありますが、こちらは定印(禅定印)の印相を結んでおり、胎蔵界の大日如来です。

➁の庚申塔と思われる石造物は、脆い材質である凝灰岩でつくられており、正面は風化脱落してしまっています。

➂の「神碑」とは、正面に「鳥見大明神 / 香取鹿島☐☐☐ / 金毘羅大権現」と彫られているのを縮約した名前です(材質は砂岩)。



追 記 2017.11.16

印西市萩原にある慶昌寺の墓地でガラガラを見ました。
江戸時代の墓石(無縁仏)の前に置かれていました。

ガラガラ 墓石の前に 45° 傾けて置かれています



追 記 2018.05.24

柏市にある増尾城址総合公園に行きました。
その折に、ビオトープ入口にある増尾湧水の近くでガラガラを見ました。

庚申塔と その隣にある馬頭観音塔


馬頭観音の前には 大きなガラガラが置かれていました
庚申塔に供えられている茶碗と、大きさを見比べてください

ガラガラは、馬頭観音の前に置かれていることが多いように思います。
世話になった家畜への供養なのでしょう。


2013年6月19日水曜日

「鎌ケ谷市民まつり」 ポスター 騎馬武者が 十二騎 参加!!

例年8月に行われていた「鎌ケ谷市 市民夏まつり」ですが、今年から10月に実施されることになりました。
名前もこれに伴い「鎌ケ谷市民まつり」と「夏」が付かなくなります。

今年の呼び物は、福島県からみえる相馬野馬追の十二騎の騎馬武者です。
以下のポスターは、「鎌ケ谷市民まつり実行委員会」の事務局(市の市民活動推進課内)から送っていただいた第1稿のものです。
今後若干手直しされて鉄道の駅等に貼られるようです。
事務局の快諾を得て掲載します。





相馬の野馬追のルーツは下総の小金原にあるといわれます。
鎌ケ谷の北の方面に広がる小金原、そこに放った野馬を敵に見立てて追ったとのこと。
鎌ケ谷には「下総小金中野牧跡」という国の史跡がありますが、この史跡の名前の一部「小金」は小金原のことです。

ポスターには、「鎌ケ谷」と「相馬野馬追」の関係が手短に述べられていますので、その部分を拡大します。

 
十二騎の武者行列は、国史跡「下総小金中野牧跡」のすぐ隣にある貝柄山公園からスタートすることになりそうです。

「鎌ケ谷市民まつり」の取り組みについては、以下のブログをご覧になってください。

 ➜ 鎌ケ谷市民まつり実行委員会のブログ 2013


追 記 2013.09.02

ポスターの正式版はこちらです。

 ➜ 「鎌ケ谷市民まつり」 ポスター 正式版発表!

掲示される鉄道の駅は以下のとおりです。

 ・東武野田線 全線の各駅 (大宮駅~船橋駅)
 ・北総線の各駅
 ・新京成線(交渉中)


追 記 2013.09.27

本日開かれた実行委員会による報告では、掲示される鉄道の駅は以下のとおりになったそうです。

 ・東武野田線 大宮駅 ~ 船橋駅 間の 35駅 (全駅です
 ・北総線   新柴又駅 ~ 印旛日本医大駅 間の 14駅
 ・新京成線  鎌ケ谷市内に駅舎がある5駅



追 記 2014.08.25

本記事へのアクセスが大変多いため、2014年の「鎌ケ谷市民まつり」ポスターについての記事を書きました。
以下をご覧ください。

➜  「鎌ケ谷市民まつり」 ポスター 2014


2013年6月16日日曜日

鎌ケ谷の古い地図(2) 道野辺村地引絵図〈1877〉


「鎌ケ谷の古い地図」の第2弾は、明治10年(1877)に作成された「道野辺村地引絵図」です。
道野辺は前回取り上げた中沢の東隣に位置します。
絵図の南北は時計回りにずれていますので、注意してください。

活字で記入してある小字名ほかは、元図に私が付け加えたものです。
元図は、 鎌ケ谷市郷土資料館発行の平成23年度企画展図録『絵図と地図でみた鎌ケ谷の400年』(2012)に拠っています。


➜ 画像を拡大する (開いた画面をさらにクリック

黄色く塗られている部分は船橋市の丸山飛地です。
ものの本によると、日本でいちばん大きい飛地だそうです。

中央付近には「葉貫台」(はぬきだい)と「五舛蒔」(ごしょまき)という小字があります。
この二つの小字名のつけ方は、どうも関連がありそうです。
そっくりな小字のペアが粟野地区にも見られますので、次回 取り上げます。

追 記 2014.08.17

「葉貫」という言葉は、湿地を好むハンノキ(榛)に由来している説があります。
 ➜  「ほっとはす・さめがわ」のある葉貫地域

また、「五舛蒔」という言葉は、『白井の地名』(2005 白井市郷土資料館 ) によると、狭い下田地を指し、普通に苗を植えても育たないため、種籾を直接蒔いた利用した蒔田を意味し、蒔いた種籾の蒔高が5升であることを示しているといいます。

この追記 おわり


鎌ケ谷市の「鎌ケ谷の河川」(道路河川整備課治水係が担当部署)というページに載っている図は、市内の川が一覧できて とても便利です。
この図に大柏川関連の情報を書き込んでみました。


➜ 画像を拡大する (開いた画面をさらにクリック

道野辺には、2つの準用河川が流れています。
囃子水に発する中沢川と、船橋市に始まり丸山飛地の南を流れる二和川です。
中沢川と二和川は合流して一級河川大柏川となります。
合流地点から少し下ったところでは準用河川根郷川が流れ込んでいます。


2013年6月14日金曜日

粟野の森の近くを流れる川の名前は?

鎌ケ谷市のホームページには、「鎌ケ谷の河川」(道路河川整備課治水係が担当部署)というページがあります。
そこに載っている図は、市内の川が一覧できて とても便利です。
この図に大津川関連の情報を書き込んでみました。

 追 記 2016.03.01

「鎌ケ谷の河川」は、現状に合わせて新たに書きかえられています。
掲載されている地図は 以前よりも詳細になっています。
また、貯留池について改変や追加がなされています。
以前の(旧)「貝柄山貯留池」は「中沢向山貯留池」と改称され、場所が分かりやすくなりました。
さらに(仮称)南初富5丁目貯留池が追加されています。
以下の図は、以前の「鎌ケ谷の河川」の図に名称を書き加えたものです。

この追記 おわり

 

鎌ケ谷市の河川 (2017.08.06 図を差替え)

図の赤い線で示されている部分は、一級河川大津川です。
白幡橋から手賀沼まで総延長が7.9kmあります。
市域を流れている部分は1.1kmです。

図の青い線で示されている部分は、準用河川大津川です。
鎌ケ谷三中の北から白幡橋までの1.3kmの部分です。

では、中央児童センター(かつての谷頭付近)のすぐそばから北部小学校の近くまで流れている川の名前は何というのでしょう。
ただ単に「大津川支流」とでもいうのでしょうか。
粟野の森の近くを流れているのは この川です。
平成30年度に予定されている「粟野地区公園」の第2期工事終了までには、名前をつけてやりたいものです。
(2013.06.14)


割込 2015.03.24

上記の大津川支川には「長谷津水路」という名前が付いているということを、本日初めて 環境課のYさんからお聞きしました。
今後は、つねに「長谷津水路」と呼ぶことにしたいと思います。

この割込 おわり


追 記 2014.04.18


大津川は三本の支川が集まって一本の川となっています。
上の地図では水色の線で描かれている三本の川です。
これらの川は、一級河川でも準用河川でもありません。
しかし、大津川の源となる大切な川です。

その証拠であるかのように三本の支川の上流には、すべてに貯留池がつくられています。

・鎌ケ谷西高の近くを流れる支川の上流には、➀ 五香一文字貯留池。

・かつてはあった入道溜を通って鎌ケ谷三中のそばを流れている支川の上流には、➁ 串崎新田暫定貯留池(この支川が本流とみなされています)。

・中央児童センターや山屋食品の近くにかつては谷頭のあった 支川の上流には、➂ 長谷津貯留池。
この支川は粟野の森の近くを流れていて、「粟野地区公園 第二期整備計画」で流域が整備されることになっています。
 
この追記 おわり


追 記 2013.06.20

以下の鳥瞰図は、パブリックコメントの募集をしている「粟野地区公園第一期整備計画(案)」に掲載されているものに名称を書き込んだものです。


第二期整備計画区域」に見られる池や諸施設は、まだつくられてはいませんのでご注意ください。

画像をクリックし、拡大してご覧ください

「粟野の森」の位置を正確に知りたい方は、以下をクリックしてください。

 ➜  「粟野の森」の位置

この追記 おわり


追 記 2013.07.05

上記の鳥瞰図が扁平で、あまりにも見づらいので上下に引き延ばしてみました。


この追記 おわり


2013年6月7日金曜日

鎌ケ谷の古い地図(1) 中沢村地引絵図〈1876〉

江戸時代以降 今日に至るまで、鎌ケ谷市域のさまざまな場所が地図に描かれてきました。
有名なものには、明治13~14年(1880~1881)に参謀本部陸軍部測量局によって作られたフランス式の「迅速測図」があります。

迅速測図 鎌箇谷驛近傍村落 明治13年(1880)6月

いま見ても十分精細といえる地図であり、野馬土手が細かく記入されているので大変に重宝するものです。

「迅速測図」が作成されるわずか数年前には、市域にあった村の「地引絵図」が作成されており、3村分の残存が確認されています。
この「地引絵図」には、現在につながる小字(こあざ)名とその範囲が記入されています。
小字は、昔とは違い一定の場所を明示するものではなくなってしまいましたが、いまでも公園や交差点の名前に使われています。
以下は、それらのほんの一例です。

小字「中ノ峠」の名が付いている4つの公園うちのひとつ


小字「谷地川」にある交差点

次にお見せするのは、明治9年(1876)に作成された「中沢村地引絵図」です。
元々、赤い文字で小字が記入してありますが、小さくて読みづらいので、活字で小字等を書き加えてあります。
元図は、 鎌ケ谷市郷土資料館発行の平成23年度企画展図録『絵図と地図でみた鎌ケ谷の400年』(2012)に拠りました。

中沢村地引絵図 明治9年(1876)11月 (2017.02.11 訂正)

画像がちょっと細かいので、画像を一度クリックしてから画像を保存するか印刷したうえで見ていただけると幸いです。

前に見たことのある公園や交差点や川の名前の由来が わかるかもしれません。
また、木戸脇や秣場など、かつては中沢村に中野牧があったことを彷彿とさせる小字名も発見することでしょう。

 

2013年6月3日月曜日

2013.06.03 2013 かまがや環境パネル展 (主催 市環境課)

市の環境課主催による「かまがや環境パネル展」が開かれています。
出展を見にいってみました。

期 間  6月 3日(月)~7日(金)
場 所  市役所1階 市民ホール


全景と位置図






 
 
粟野の森の会







 





 
 
 囃子水の自然を育てる会