2013年7月26日金曜日

2013.07.14 根木内歴史公園 観察会 (その5 配付資料)

観察会の当日に、「根っこの会」の方から2枚の資料が配られました。
その一枚は根木内歴史公園の概要で、コンパクトによくまとまっています。
拡大表示するか 印刷するかして ご覧いただけると幸いです。

「根木内歴史公園」の概要

もう一枚は、松戸市の緑地のデータを主とした資料です。
森林率を見ると、浦安市は0%、市川市は2%、松戸市は3%、我孫子市は5%(森林率と関係ありませんが、手賀沼の北半分を有してます)、船橋市と鎌ケ谷市は6%とあります。

松戸市の樹林地の状況

「オープンフォレスト in 松戸」という、その実行委員会と松戸市の共催による催しが、2012年から開かれています。
観察会の終了時、その「ガイドブック」をいただきました。
2013年は5月18日(土)~26日(日)の間に、松戸市内の14の森が公開されています。

公開された14の森

「ガイドブック」には、各地区ごとの詳細な案内地図も載っています。
以下は、根木内歴史公園が含まれている「幸谷・根木内地区」の案内図です。

「幸谷・根木内地区」の案内図

民有地にボランティアが入って里山活動する さきがけとなった「関さんの森」が根木内歴史公園の近くにあることがわかります。
「関さんの森」は、今年の3月のはじめに「街中の森と巨木を訪ねる」という趣旨の観察会で訪ねたことがあります。

なお、「オープンフォレスト in 松戸」の詳細については、以下のサイトをご覧ください。
具体的にいろいろなことがわかります。
http://www1.koalanet.ne.jp/forest-in-matsudo/

 

2013.07.14 根木内歴史公園 観察会 (その4 根っこの会)

根木内歴史公園の維持・管理には、サポーターである「根っこの会」の活動が大きく関わっています。
活動の詳細については、以下をご参照ください。
活動の記録が実に綿密で感心させられます。
http://negiuchi-park.org/

ここでは、公園内を歩いたときに見ることができた活動の一端をご紹介するにとどめます。


根っこの会の案内掲示


根木内歴史公園に関する掲示板 会の手作りだそうです (すごい


手作りの掲示板は2カ所に設置されています


湿地に置かれた観察ポイント案内


植物名と説明を記した表示


公園内の一角にある作業場所


会手作りの木道


水田も作っています


 ➜  根木内歴史公園 観察会 (その5 配付資料)

 

2013年7月25日木曜日

2013.07.14 根木内歴史公園 観察会 (その3 植物)

3回目は、根木内歴史公園で見られた植物のほんの一部をご紹介します。


スイカズラ科のソクズ (別名 クサニワトコ)


ソクズの花 実をつけ始めています


ミクリ 漢字で書くと「実栗」


その名の由来となった栗のような実 触ると痛いです


ヒメガマ(姫蒲) 以下の追記をご覧ください

説明割込 2013.07.28

松戸市教育委員会の教育情報センターの「根木内歴史公園の植物 」というページ(リンク切れ)に「ヒメガマ」という名の植物が載っていたので、気になって調べてみました。
そして、石川県の植物について調べている本多さんという方が、「ガマ」の仲間ついて詳細に書いたページ(リンク切れ)を見て、上の写真の植物が「ガマ」ではなく、「ヒメガマ」であるとわかりました。

ヒメガマの花穂(かすい)

ガマやコガマとの違いは、ウインナーソーセージのような下方の雌花穂(しかすい)と、上方の雄花穂(ゆうかすい)の間が離れていることだそうです(間に緑の部分が見えます)。
また、ヒメガマの雄花穂(上方の薄茶色の部分)は他よりも長いようです。

この割込 終わり


イグサ (藺 別名 燈芯草)


オカトラノオ(丘虎の尾) と アオスジアゲハ(青条揚羽)


エゴノキの虫コブ 花のようです


寄り添った木が伸び、ピンと張ってしまったフジ

次回は、「根っこの会」の活動の一端をご紹介します。


 ➜  根木内歴史公園 観察会 (その4 根っこの会)


2013年7月24日水曜日

2013.07.14 根木内歴史公園 観察会 (その2 景観)

今回は、根木内歴史公園の景観を中心に見ていきます。

上富士川沿いに溯っていき、霜田橋を渡って公園内に入ります。

上富士川に架かる霜田橋

公園の湿地は上富士川沿いにありますが、川は護岸工事がされており、湿地と川の間で水の循環はありません。

公園内から上富士川の水辺に下りる階段があります

湿地には木道が渡されていて、生育している植物をゆっくりと観察することができます。

松戸市公園緑地が設置した木道

市が設置した木道以外にも、ボランティア団体「根木内歴史公園サポーター  根っ子の会」のみなさんが手作りした木道が敷かれているところがあります。
湿地に隣り合って根木内城跡という中世の遺跡がありますが、そこに向けて敷かれている木道は「根っこの会」のみなさんの手によるものです。

湿地から根木内城跡へと向かう木道

小高くなった城跡がある場所からは湿地が見下ろせます。

緑陰を散歩する人が多く見られます

再び湿地に下りて公園内を散策します。
道が整備された場所もあり、そこから見る風景は谷津の景観に似ています。

上富士川と湿地の間にある遊歩道

根木内城は、上富士川と平賀川に挟まれた舌状台地の上に築かれました。
下の掲示板は、根木内歴史公園の概略とかつての根木内城の範囲を知るうえで参考になります。

図を見ると 根木内城は残存する遺跡の3倍の面積があったとわかります

次回は、公園内で見た植物をレポートしたいと思います。


 ➜  根木内歴史公園 観察会 (その3 植物)

 
 

2013年7月23日火曜日

2013.07.14 根木内歴史公園 観察会 (その1 位置)

緑のネットワーク・まつど の主催による観察会に参加しました。
目的地は根木内歴史公園。
JR北小金駅から歩いて行きました。

行き方は最短距離ではなく、ぐるっと富士川親水広場に立ち寄ってから。
根木内歴史公園は、国道6号線と上富士川が交差する近辺にあります。
位置関係は、下の地図を見てください(国土地理院の電子国土Webシステムの地図に目印を書き込んだものです)。

根木内歴史公園 周辺地図

まず、富士川親水広場に到着。
さすが、ガイドの方はこの地域を知り抜いています。
川の景観が素晴らしいだけではなく、あとになって川と根木内歴史公園との関係も明らかになります。

富士川と可動堰(中央に見える布のようなもの)

河川については富士川親水広場で見た「富士川周辺案内図」がわかりやすいのでご覧ください。
この案内図は東が上になっています。
「根木内歴史公園」の位置は、後で写真に書き込んだものです。
松戸市河川清流課の手で この案内板が設置されたときには、公園はまだ開設されていなかったのでしょう。

富士川親水広場で見た案内図

上富士川と平賀川が合流して富士川となり、その先では坂川へと流れ込んでいます。
上富士川と平賀川の水源は湧き水だそうです。
富士川の水がきれいである理由がわかります。
次の機会には、それらの湧水をぜひ見にいこうと思いました。

合流地点の平賀川 澄んだ水

富士川親水広場から上富士川を溯っていくと公園が見えてきます。
根木内歴史公園は、上富士川沿いの湿地と、それに面した中世の城跡である小高い丘からなっているのです。

上富士川と その右手に見える根木内歴史公園


 ➜  根木内歴史公園 観察会 (その2 景観)

 
 

2013年7月18日木曜日

2013.07.17 夏の果実

春に花をつけた木々が、実を結んでいます。
散策会で下総松崎から坂田ヶ池を抜け、房総のむら、龍角寺と歩きました。
道すがら、スタッフのYさんら植物に詳しい方に教えていただいた木々の果実をお見せします。
なお、これらの樹木は、鎌ケ谷でもよく見ることができます。

イチイ 別名はアララギ


エゴノキ


コブシ 樹木名の由来となった握りコブシ状の果実


ミツバアケビ


キリ


ウワミズザクラ


2013年7月3日水曜日

「鎌ケ谷市民まつり」 ポスター 正式版発表!

「鎌ケ谷市民まつり」 のポスターの正式版が発表されました。
アート & デザインは、TAG の田上さんというデザイナーの方の手になるものです。
さすが、プロのデザイナーの作品です
 
騎馬武者の写真は、南相馬市から提供されたものだそうです。
この写真も、実にいい写真です。
 
画像をクリックすると拡大されます
 
第1稿と比べると、大きく変わったのは郷土資料館の関連展示の紹介が加わった点です。
10月1日(火)~13日(日)の約2週間、「写真でみる相馬の野馬追と南相馬市の文化財展」が開かれることになりました。
開催期間が、企画展等と比べてずっと短いので見逃さないようにしたいと思います。
 
この展示が開催されるようになったことにも、事務局が置かれている市民活動推進課の「鎌ケ谷市民まつり」への取り組みの真剣さがうかがえます。

このポスターは、B2判のものが200枚、鉄道の駅等に貼られるそうです。
また、A4判が500枚、いろいろなところに配られる予定になっています。
これから印刷され、掲示等の依頼がなされることになります。
ポスターの実物を早く見てみたいものです。


追 記 2013.09.02

現在、ポスターは公民館やコミュニティセンター等に掲示されています。
すでに ご覧になった方もいらっしゃることでしょう。

なお、全自治会員に配られる「鎌ケ谷市民まつり」の案内ですが、A2判・縦型 四折りの両面印刷で、表紙部分には騎馬武者の写真がフルカラーで印刷されるそうです(昨年度は1色でした)。
案内のデザインは、ポスターと同じく TAG のデザイナー、田上さんの手によるものとのこと。
今から配布がが楽しみです。



追 記 2014.08.25

本記事へのアクセスが多いため、2014年の「鎌ケ谷市民まつり」ポスターについての記事を書きました。
以下をご覧ください。


➜ 「鎌ケ谷市民まつり」 ポスター 2014


 

2013年7月1日月曜日

鎌ケ谷の古い地図(3) 粟野村地引絵図〈1877ごろ〉

「鎌ケ谷の古い地図」の第3弾は、明治10年(1877)ごろに作成された「粟野村地引絵図」です。
中沢村や道野辺村の地引絵図には、作成年月が書かれていますが、この絵図には書かれていませんので、作成時期は推定です。

活字で記入してある小字名ほかは、元図に私が付け加えたものです。
四角で囲ってあるものは、現在の諸施設等の名称です。
元図は、 鎌ケ谷市郷土資料館発行の平成23年度企画展図録『絵図と地図でみた鎌ケ谷の400年』(2012)に拠っています。

➜ 画像を拡大する (開いた画面をさらにクリック


絵図の右上の緑色に塗ってあるところは昔の〈粟野の森〉です。
粟野地区公園として2014年3月オープン予定の「粟野の森」よりもずっと広かったことがわかります。


割 込 2013.07.07

「粟野の森」があるのは〈上葉貫台〉ですが、その南には〈三舛蒔〉という小字が見えます。
これらに似た小字がついているのが、「道野辺村地引絵図」で見た〈葉貫台〉と、その南にある〈五舛蒔〉です。
〈三舛蒔〉も〈五舛蒔〉もかつては谷津田でした。
めざす収量を得るために、一定の広さに対して種籾を3升も5升も蒔かねばならなかった土地という意味でしょうが、正確な意味を知りません。
また、〈葉貫〉という言葉はどんな意味なのでしょう。
詳しい方にお教えを乞いたいところです。

この割込 おわり


割 込 2014.05.20

「葉貫」で検索していたら、あるページに 「葉貫の名称は、この地域に多いハンノキ(榛)に由来していると言われている」と書かれていました。
そうすると「葉貫台」は、ハンノキが生い茂っている場所が近くに見える高台といった意味でしょうか。
そのページのリンク先は以下のとおりです。
➜  環境談話室 「ほっとはす・さめがわ」のある葉貫地域

この割込 おわり


左下には「入道溜」という小字が見えますが、この小字名がついた「入道溜」三差路の表示を初めて見たとき、近くに溜池などないのに どうしてこんな名前がついたのか不思議でした。

入道溜三差路 左に折れて少し行ったところに豊作稲荷神社があります

『鎌ケ谷市史 資料編Ⅴ(民俗)』の522ページには、「池の話」と題して、〈①入道池、②子は清水、③瓢箪池、④囃子水〉と、池に関する4つのお話が載っています。
その中の〈①入道池〉から引用しながら進めていきたいと思います。

入道池 明治初期の開墾で埋め立てられてしまったが、粟野と初富の境の豊作稲荷神社の近くに、入道池という溜池があった。」

豊作稲荷神社の近くに、明治初期までは池があったとのこと。
③の瓢箪池と同様に埋め立てられてしまったようです。
豊作稲荷神社は明治6年(1873)の創建ですが、創建当時、その近くにはまだ池があったのかもしれません。

豊作稲荷神社 社の前方(東南の方角)の土地が低くなっています

江戸時代に作成された絵図には、入道池がしっかりと描き込まれているものがあります。
それが次の絵図です。

中野牧・下野牧・一本椚牧絵図〈部分〉 (享保7年〈1722〉)

絵図にある3本の川は、大津川の3支川です。
これらが一本となり大津川の上流となります。
濃く塗られている下の方の溜池のそばには「入道が池」と書かれています。
これが またの名、「入道溜」です。
当時は野馬の水呑み場でした。

名前の由来は、『市史』に こう記されています。

「むかし、旅の行者がこの地に来て池のほとりに庵を結び、毎朝・毎晩、池の水で体を清め、厳しい修行を積んでいった。村人たちはいつしか行者を入道様とよび慕っていた。そして行者が亡くなったとき、村人たちは行者の徳を偲び、この池を入道池とよぶようになったという。」

昔、池の近くにはこうした行者が実際に住んでいたのでしょう。
なんだか納得させられるお話です。

また、「入道溜」三差路のすぐそばには、かつてあった入道池の方向を向いて 「水神宮」が祀られています。
「水神宮」の左右の両脇には、建てた人の氏名と年月が彫られています。
左側面には、「石井金左ェ門」とあります。
右側面には、「寛政四子九月吉日」とあります。「四子」は「四年子年」の意。寛政四年(1792年)の干支は、壬子(みずのえね、じんし)。

水神宮 (寛政4年〈1792〉)

建てられた経緯が『市史』には、次のようにあります。

「江戸時代、子供が入道溜に落ちて死んだが、死体があがらなかったので、「カッパにさらわれた」といわれた。その子の供養のために水神宮が建てられたという。」

このお話が本当だとすると、石井金左ェ門という人は 入道溜に落ちて死んだ子の父親かお祖父さんなのかもしれません。
祠の後ろにある切株を見ると、かつては、祠の上に大木が葉を茂らせていたのだと思います。
樹木とともにある祠を見たかったです。
木が伐られたのは、いったい いつのことなのでしょう。

入道溜に関連するものとして、水神宮のほど近くには「弁財天」の祠があります。
祠は二つの鳥居をくぐった低い場所に祀られています。
弁財天は水の神様なので、もともとは池の水で囲まれたところに祀られていたのかもしれません。
いつ建てられたのかは不明とのことです。

弁財天 後ろに見えるのは鎌ケ谷三中

鎌ケ谷三中の通学路に面しており、日々、生徒たちを見守ってくれています。
鳥居の横には案内板が立っています。

 

「むかし むかし この近くに入道池があったそうです。
また、北初富駅方面に行くと左側に水神様があります。」
と、小さめの字で書かれています。

私は、この案内板のお蔭で、先ほどふれた「水神宮」を見つけることができました。

粟野については、いろいろと書きたいのですが、長くなるので、続きはまたの機会にします。