「鎌ケ谷の古い地図」の第3弾は、明治10年(1877)ごろに作成された「粟野村地引絵図」です。
中沢村や道野辺村の地引絵図には、作成年月が書かれていますが、この絵図には書かれていませんので、作成時期は推定です。
活字で記入してある小字名ほかは、元図に私が付け加えたものです。
四角で囲ってあるものは、現在の諸施設等の名称です。
元図は、 鎌ケ谷市郷土資料館発行の平成23年度企画展図録『絵図と地図でみた鎌ケ谷の400年』(2012)に拠っています。
絵図の右上の緑色に塗ってあるところは昔の〈粟野の森〉です。
粟野地区公園として2014年3月オープン予定の「粟野の森」よりもずっと広かったことがわかります。
割 込 2013.07.07
「粟野の森」があるのは〈上葉貫台〉ですが、その南には〈三舛蒔〉という小字が見えます。
これらに似た小字がついているのが、「道野辺村地引絵図」で見た〈葉貫台〉と、その南にある〈五舛蒔〉です。
〈三舛蒔〉も〈五舛蒔〉もかつては谷津田でした。
めざす収量を得るために、一定の広さに対して種籾を3升も5升も蒔かねばならなかった土地という意味でしょうが、正確な意味を知りません。
また、〈葉貫〉という言葉はどんな意味なのでしょう。
詳しい方にお教えを乞いたいところです。
この割込 おわり
割 込 2014.05.20
「葉貫」で検索していたら、あるページに 「葉貫の名称は、この地域に多いハンノキ(榛)に由来していると言われている」と書かれていました。
そうすると「葉貫台」は、ハンノキが生い茂っている場所が近くに見える高台といった意味でしょうか。
そのページのリンク先は以下のとおりです。
➜ 環境談話室 「ほっとはす・さめがわ」のある葉貫地域
この割込 おわり
左下には「入道溜」という小字が見えますが、この小字名がついた「入道溜」三差路の表示を初めて見たとき、近くに溜池などないのに どうしてこんな名前がついたのか不思議でした。
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入道溜三差路 左に折れて少し行ったところに豊作稲荷神社があります |
『鎌ケ谷市史 資料編Ⅴ(民俗)』の522ページには、「池の話」と題して、〈①入道池、②子は清水、③瓢箪池、④囃子水〉と、池に関する4つのお話が載っています。
その中の〈①入道池〉から引用しながら進めていきたいと思います。
「
入道池 明治初期の開墾で埋め立てられてしまったが、粟野と初富の境の豊作稲荷神社の近くに、入道池という溜池があった。」
豊作稲荷神社の近くに、明治初期までは池があったとのこと。
③の瓢箪池と同様に埋め立てられてしまったようです。
豊作稲荷神社は明治6年(1873)の創建ですが、創建当時、その近くにはまだ池があったのかもしれません。
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豊作稲荷神社 社の前方(東南の方角)の土地が低くなっています |
江戸時代に作成された絵図には、入道池がしっかりと描き込まれているものがあります。
それが次の絵図です。
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中野牧・下野牧・一本椚牧絵図〈部分〉 (享保7年〈1722〉) |
絵図にある3本の川は、大津川の3支川です。
これらが一本となり大津川の上流となります。
濃く塗られている下の方の溜池のそばには「入道が池」と書かれています。
これが またの名、「入道溜」です。
当時は野馬の水呑み場でした。
名前の由来は、『市史』に こう記されています。
「むかし、旅の行者がこの地に来て池のほとりに庵を結び、毎朝・毎晩、池の水で体を清め、厳しい修行を積んでいった。村人たちはいつしか行者を入道様とよび慕っていた。そして行者が亡くなったとき、村人たちは行者の徳を偲び、この池を入道池とよぶようになったという。」
昔、池の近くにはこうした行者が実際に住んでいたのでしょう。
なんだか納得させられるお話です。
また、「入道溜」三差路のすぐそばには、かつてあった入道池の方向を向いて 「水神宮」が祀られています。
「水神宮」の左右の両脇には、建てた人の氏名と年月が彫られています。
左側面には、「石井金左ェ門」とあります。
右側面には、「寛政四子九月吉日」とあります。「四子」は「四年子年」の意。寛政四年(1792年)の干支は、壬子(みずのえね、じんし)。
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水神宮 (寛政4年〈1792〉) |
建てられた経緯が『市史』には、次のようにあります。
「江戸時代、子供が入道溜に落ちて死んだが、死体があがらなかったので、「カッパにさらわれた」といわれた。その子の供養のために水神宮が建てられたという。」
このお話が本当だとすると、石井金左ェ門という人は 入道溜に落ちて死んだ子の父親かお祖父さんなのかもしれません。
祠の後ろにある切株を見ると、かつては、祠の上に大木が葉を茂らせていたのだと思います。
樹木とともにある祠を見たかったです。
木が伐られたのは、いったい いつのことなのでしょう。
入道溜に関連するものとして、水神宮のほど近くには「弁財天」の祠があります。
祠は二つの鳥居をくぐった低い場所に祀られています。
弁財天は水の神様なので、もともとは池の水で囲まれたところに祀られていたのかもしれません。
いつ建てられたのかは不明とのことです。
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弁財天 後ろに見えるのは鎌ケ谷三中 |
鎌ケ谷三中の通学路に面しており、日々、生徒たちを見守ってくれています。
鳥居の横には案内板が立っています。
「むかし むかし この近くに入道池があったそうです。
また、北初富駅方面に行くと左側に水神様があります。」
と、小さめの字で書かれています。
私は、この案内板のお蔭で、先ほどふれた「水神宮」を見つけることができました。
粟野については、いろいろと書きたいのですが、長くなるので、続きはまたの機会にします。