印西市(大字)瀬戸1081番に 瀬戸地区の宗像神社はあります。
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瀬戸宗像神社とその周辺 |
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用
1 神社前にある石塔
神社の前には土盛りをされて塚のようになった 細長い三角形をした場所があり、多くの石塔が並んでいました。
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鳥居の前には 多くの石碑が建っています |
これらの仏教関係等の石塔は、神社境内に置くわけにはいかないため、この場所に集められたのではないでしょうか。
中には光明真言塔が建っていました。
石塔の上部に、真言部分が比較的よく残っており、興味を惹かれました。
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「光明神咒供養塔」 嘉永5年(1852)建立 |
「神咒」または「神呪」と「真言」は、どちらも 「マントラ」の訳語であり、密教における「仏の教えや功徳などを秘めている呪文」であるといいます。
下図は、鎌ケ谷市佐津間にある「光明真言道標」の真言部分を写したものです。
上の写真の「光明神咒供養塔」とは、円く配列したときの文字の傾きに違いがありますが、文字自体は同じです。
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『鎌ケ谷市史 資料編 Ⅱ (金石文)』 P.155 より |
23の梵字(
種子)からなる「陀羅尼」(仏の教えの精髄を凝縮しているとされる呪文)が、最下部 6時の位置の文字から 時計回りに円く配置されています。
唱え方や意味は、以下のとおりです。
オン ア ボ キャ ベイ ロ シャ ノウ
マ カ ボ ダラ マ ニ ハン ドマ
ジンバ ラ ハラ バ リタ ヤ ウン
唵 阿謨伽 尾盧左曩
摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽
オーン(
聖音) 不空なる御方(
不空成就如来)よ 毘盧遮那仏(
大日如来)よ
偉大なる印を有する御方(
阿閦如来)よ
宝珠(
宝生如来)よ
蓮華(
阿弥陀如来)よ
光明を 放ち給え フーン(聖音)
「
五智如来(上記の五大如来)よ、智慧と慈悲をたれてお救いください」といった意味なのでしょう。
なお、以下で CDに収録されている光明真言の
読誦を試聴できます。
➜ HMV ONLINE 高野山真言宗 壇信徒勤行
中央にある5文字は「胎蔵界大日真言」です。
大日如来に祈るときの呪文であり、 中央 → 下 → 左 → 上 → 右 の順(「の」の字状)に読みます。
ア ビ ラ ウン ケン
五大である「地 水 火 風 空」を表しているそうです。
下の写真は鎌ケ谷市佐津間にある光明真言塔です。
残念ながら、上部にある 呪文(陀羅尼と真言)は、残念ながら すでにかなり薄れてしまっています。
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参 考 鎌ケ谷市佐津間にある「光明真言道標」 |
「光明神咒供養塔」の近くには「甲子」と刻された 庚申塔のようなものが建っていました。
下部には、大黒天が陰刻されています。
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甲子塔 明治18年(1885)建立 |
甲子塔は、広義の
日待塔の一種だといいます。
日待塔は以下のように分類されるそうです。
➀ 狭義の日待塔
➁ 月待塔 (二十三夜塔など)
➂ 庚申塔 ・ 甲子塔 ・ 己巳塔の類
➃ 念仏塔 ・ 題目塔の類
➄ その他 (代参講の類など)
甲子または子の日に、講中または個人で夜遅くまで起きていて、精進供養(祭祀)をする行事を子待
(ねまち)または甲子待
(こうしまち)というそうです。
子待の礼拝本尊は大黒天(
大国主神)であり、きのえねとか子の日の夜に、当番の家でご馳走をつくり、一室に大黒天の掛軸をかけて灯明や供物を供え、講中一同集まって礼拝したのち 飲食・歓談して楽しい一夜を過ごしたといいます。
(以上、雄山閣『日本石仏事典』を参照。)
2 瀬戸宗像神社
では、本題の宗像神社を見ていきましょう。
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宗像神社の全景 社叢林に覆われています |
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宗像神社の鳥居 (両部鳥居) |
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宗像神社の拝殿 |
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宗像神社の簡単な説明書きがありました |
大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「六合村誌」には、村社 宗像神社の一つとして以下のように書かれています(後編 P.385)。
(1) 村社 宗像神社
瀬戸村 字
宮作にあり、
田心姫命、
市杵嶋姫命、
湍津姫命、
素盞男命を祭る。
寛和元年(985)9月、筑前の国 宗像郡田嶋より瀬戸村に勧請し、「宗像大明神」と唱え来たり。
弘化元年(1844)、社号改め「宗像神社」と唱う。
祭日は往古より9月28日にして、明治42年2月26日、許可を得て 瀬戸字宮作にありし無格社・天王神社を本社に合祀す。
社殿
(本殿)、間口 5尺 奥行き5尺。 拝殿、建坪 8坪。
鳥居、高さ 1丈
(3.03m、10尺)3尺。 冠木
(かぶき)、長さ 2丈。
瑞垣
(みずがき)、延長 15間2尺。
水盥
(みずだらい)(手水鉢)、高さ 1尺5寸、幅 1尺5寸、長さ 3尺5寸。
境内、355坪あり。 氏子114戸を有す。
境内1社を祭る。 即ち、
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御嶽神社
国常立尊、
大己貴命、
少彦名命を祭る。明治12年12月の創立にして、建物 2尺四面。(「神社明細帳」より)
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龍の彫刻がありました 扁額は すでに読み取れず残念 |
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宗像神社の本殿 |
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後方から見た 宗像神社の拝殿と本殿 |
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御嶽神社 外側の覆屋 |
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覆屋の中に鎮座している 御嶽神社 |
「(1) 村社 宗像神社」の記述には、「官報報告に云える」として以下のとおり重要なことが付け足されています。
創建年代詳らかならず。されど『佐倉風土記』に「宗像神社」と載する所のもの、ただ一社のみ、曰く、「
宗像神社 在瀬戸村遷祭筑紫宗像神社焉」と。
➜ 参 照 『新撰佐倉風土記』 見開き 二十六 (コマ番号 38)
『佐倉風土記』については、千葉大学図書館のホームページに 以下のように書かれていました。
佐倉藩家臣・磯辺昌言により享保7年(1722)に完成した。
元禄14年(1701)に佐倉藩主になった稲葉正往(正通)の命を受け編纂したものであり、漢文地誌の様式通り、封域・風俗・城郭・郡村・山川・人物・古蹟を記している。
下総の地誌としては最も古く、後に明治になって、誤りを修正し現況を加えたものが『新撰佐倉風土記』として刊行された。
(文字等の誤りを訂正し、文章を若干直しました。)
以下の部分は『佐倉風土記』以外の古文書からの情報によるものでしょう。
天保12年(1841)3月12日、神祇官領・卜部良芳卿より奉幣・奉額あり。
文政10年(1827)9月、領主・
堀田正睦殿、領地巡検の際、宮免
(みやめん)として田一反歩の寄進あり。
文政丁亥年(1827)9月、御地頭・堀田相模守
紀朝臣正篤殿より、拝殿造営の際、幣帛料として500疋下賜せらる。
境内には、別宮や合祀された多くの祠が並んでいました。
めずらしいことに、いくつかの祠には説明書きが付けられています。
元はすべての祠に付けられていたのでしょう。
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左 「子安神社」、右 「疱瘡神社」 |
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左 「三峯神社」、中央「八坂神社」、右 「羽黒権現」 |
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左 「第六天神社」、中央 「稲荷大明神」、右 不明 |
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本殿の隣に 瀬戸地区構造改善センターが建っています |
3 瀬戸地区構造改善センター
旧印旛村地域に置かれている地区構造改善センター。
瀬戸地区が、真珠院の境内にある造谷地区の次の訪問先となりました。
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瀬戸地区構造改善センターの庭には 遊具が置かれています |
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瀬戸地区構造改善センターの建物 |
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玄関の表札には 「平成2年3月吉日」に完成と記されていました |
瀬戸地区構造改善センターの前には、道路沿いに 消防団の建物がありました。
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印西市消防団 第一分団第一部 の建物 |
上の建物は、きっと印旛村時代の古くからあるものなのでしょう。
印旛村の「旛村」の部分だけ、印西市の「西市」に塗り直したようです。
印西市を歩いていると消防団の建物をよく見かけるので、印西市の消防団組織を調べてみました。
➜ 印西市消防団の組織概要
13分団あり、それらは4つの方面に分けられています。
13ある分団はさらに2~5の部に細分化されおり、すべてで46部あります。
鎌ケ谷市には8分団があるだけですから、印西市が市域の広さに対応して、いかに大きな消防団組織をもっているのかが分かります。
➜ 北総の宗像神社(2) <印西市・鎌苅>
➜ 北総の宗像神社(4) <印西市・山田>