2018年6月6日水曜日

千葉県北西部の神社(21) <印西市・笠神 愛宕・鳥見神社>

これまで千葉県の北西部に偏在する鳥見神社を一社ずつ見てきましたが、今回は その最終回です。

愛宕・鳥見神社と その周辺
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用

愛宕・鳥見神社は、印西市役所の本埜支所(旧・本埜村役場)のすぐ近くにあります。
所在地は、印西市笠神かさがみ〔字ごう401番地です。

印西市役所 本埜支所


本埜支所とは道路を挟んで反対側の小高い場所に 当神社はあります


参道への入口 道路に面しています


燈籠と その奥に続く参道


参道 ・ 鳥居 ・ 石段


木造の両部鳥居です


神額には「愛宕・鳥見 両社」とあります

この神社は、「愛宕神社」と「鳥見神社」の合社ごうしゃです。
合祀されるに至った経緯と時期は不明です。
文政10年(1827)に再建されたとのことですから、このときには すでに合祀されていたのかもしれません。


江戸時代に造られたという石段 96段あるとか


石段途中の左右にあった庚申塔


傷んできている石段


大正5年(1916)発行の『千葉縣本埜村誌』(千葉縣印旛郡本埜村役場 編集・発行)の Pp.250~251 には、以下のように書かれています。

(四) 村社 愛宕、鳥見神社合社 (印波十八鳥見の一なり)

大字笠神字郷402番地にあり、軻遇突智かぐつち饒速日命にぎはやひのみことを祭る。
由緒不詳。

社殿用材惣槻そうけやき、明神造、流破風、亜鉛板葺、間口8尺(1間2尺)・奥行6尺(1間)にして桝組、彫刻物等、実に妙技を極め、建築に数千の匠工を要し、その結構なること本村に冠たり。
竣工は文政10年(1827)10月にして、石工は姉崎石工・久兵術。
棟梁は千葉郡武石の忠蔵。
彫刻は後藤某の作なりとも。

拝殿、間口4間・奥行2間。
玉垣、高さ7尺5寸・延長6間2尺。
鳥居用材惣槻、四ツ足明神造(両部鳥居)にして 高さ2間1尺5寸。
冠木かぶ き 、長さ3間2尺。
水屋は石盥にして、これまた文政年間の設備にかかれり。

境内292坪なりしが、明治38年(1905)3月15日、隣番401番の土地台帳面積5反(1反=300坪)8畝(1畝=30坪)6歩(1歩=1坪)の内、実測面積3反4畝11歩(計 1.031坪)は内務省指令千甲第41号を以て境内に編入許可せられたり。
神官は石弁重徳にして、氏子120戸を有す。
管轄庁まで8里なり。

本社は、往古、小林・平岡・中根と同じく印波十八鳥見の一にして、荘厳なるものなりしか。
中古、村里大火のため 共に類焼し、棟札及び由緒書等烏有に帰し、その事実を詳かにせざるは遺憾の至りなりき。
その後、永く建立することあたわざりしか。
ようやく文政10年(1827)に至り 期熟し、協議成り再建せりという。

境内は、村の中央、田園中に屹立せる 7丈有余の丘上(文政年間 築設にかかる96の石段あり)にあり、老樹欝々として、また遠く八生村・公津村及び利根川を隔てて、常陸の平野及び筑波の峯を望み、近くは印旛沼・中根・笠神・埜原の耕地中、人家の点在するを眺め、景色勝れ、風清く、夏時なお涼を納むるに適せり。


※ 大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』(P.621)には、これ以上の記載はなかったので、今回は引用しません。


石段を登り切った境内にある庚申塔など


水屋(手水舎) と 石盥(水盤)



拝 殿


本 殿


本殿の後ろ 見事な四手先の腰組


拝殿側から境内を振り返って見たところ


石段最上部から見下ろしたところ ブルーシートの先にも 急な石段


参道に 小さなトキワハゼが咲いていました


◆   ◆   ◆


愛宕・鳥見神社の参道入口の南隣には、表前観音堂があります。
「表前」とは、この場所の小字名です。
この観音堂について調べたのですが、詳しいことは分かりませんでした。

表前観音堂

観音堂の隣には 大師堂のようなものが建っていました。

大師堂?


弘法大師像が見えました

お大師様が鎮座していますので、これは大師堂でしょう。
印西大師71番札所が、印西市笠神413番地辺りにあるようです。
この大師堂とは違うようですので、確認にいきたいと思います。
その折に、近所の方からお話をうかがってきます。


近くでヤマボウシの花が 白く咲いていました