ウィキペディアの記事は、各言語ごとに異なった記載がなされていますが、「トゥーンベリ」(Thunberg)に関しても同様で、その内容には かなりの相違があります。
ドイツ語版のウィキペディア(Wikipedia Deutsch)の「Thunberg」には、豊富な内容が記載されているように思い、英語のみならずドイツ語にも堪能な旧友のS・Mさんに翻訳をお願いすることにしました。
そして ようやく心待ちにした訳稿が届き、その内容を読んで嬉しくなりました。
これまでにご紹介した略伝のいずれにも書かれていないことが、かなり詳しく記載されていたのです。
S・Mさんには 今回も大変お世話になり、心から感謝しています。
以下は、S・Mさんの訳稿を基にしています。
カール・ペーテル・トゥーンベリ
無料の百科事典ウィキペディア(Wikipedia
Deutsch)より
カール・ぺーテル・トゥーンベリ(あるいはカール・ペーテル・フォン・ツンベルクという名で知られる)は、スウェーデンの自然史研究家であり、1743年11月11日にヨンショピングに生まれ、1828年8月8日ウプサラ近郊のツナベリで死去した。
彼は南アフリカおよび日本の植物についての近代的な研究を行ったことで知られるとともに、昆虫学者としても著名である。
科学的研究において学名に付される「Thunb.」という略号は、トゥーンベリによりその種が命名されたことを示すものである。
目 次
1 生い立ち
2 南アフリカ
3 日 本
4 ヨーロッパへの帰還
5 業 績
6 著 作
7 参考文献
8 出 典
9 ウェブリンク
1 生い立ち
カール・ぺーテル・トゥーンベリは、スウェーデン南部の町、ヨンショピングで生まれた。
彼は医学、自然哲学をウプサラ大学で学び、カール・リンネ(ラテン語名:カロルス・リンナエウス)の教え子であった。1767年、彼は「デ・ウエニス・レソルベンティブス」(De venis resorbentibus)という題名の博士論文を提出した。1772年、南アフリカの地にあったときに 彼は医学博士の称号を授けられた。1784年にはウプサラ大学の医学および自然哲学の教授となり、生涯この地位にあった。
かのリンネは、自らの新しい生物分類学をできる限り世に広め、それを確実なものとするために、彼のもとで学んだ学生たちを全世界に旅立たせることに大きな関心を寄せた。
1770年、トゥーンベリはスウェーデンを離れ、パリで研究を継続することになった。翌年にはアムステルダムそしてライデンに赴いた。ここで彼は医師で植物学者であるヨハネス・ビュルマンと出会う。ビュルマンはリンネと連絡を取り合い、トゥーンベリをオランダ東インド会社(VOC)に派遣し、海外の植民地における植物をこの地の植物園に集めてくるよう指示した。
「オランダ東インド会社」の正式名称は、「連合東インド会社」である。
オランダ語では、Vereenigde Oostindische Compagnie〔フレーニヒト・オーストインディシュ・コンパニー〕。 略称は VOC。
1771年12月、トゥーンベリはオランダ東インド会社直属の外科医として船に乗り込んだ。船は、翌年4月にはケープタウンに着き、ここで長い航海に備えて食料と水を補給した。彼はケープタウンにある植民地にしばらく滞在することになった。
2 南アフリカ
南アフリカでトゥーンベリはその地域の植物分布を調査するために3度の旅に出た。
第1回 1772年9月7日~1773年1月4日
スウェレンダムからガムトースフローデン河まで
第2回 1773年9月11日~1774年1月28日
シトラスダルを越えスウェレンダムに向かいポート・エリザベスまで
第3回 1774年9月29日~1774年12月29日
ケープタウンの広大な後背地まで
すべて、南半球においては春から夏に当たる季節に調査旅行に出たことがわかる。
1775年3月、トゥーンベリは オランダ東インド会社のジャワ島における拠点であったバタビア(現在のジャカルタ)へ向けて さらに旅を進めた。彼は2カ月にわたりその地に留まり、特にサマラン(スマラン)とボイテンゾルフ(蘭 Buitenzorg、現在のボゴール)を頻繁に訪れた。
3 日 本
オランダ東インド会社所属の日本勤務の外科医としてトゥーンベリの地位は確保され、1775年8月に彼は長崎に入った。彼は1776年まで長崎の出島とよばれる小さな人工の島で、オランダ東インド会社の社員の健康面をみるという仕事に携わった。
彼は南アフリカにおいては自由に行動できたものの、金銭面では資金不足という問題に直面した。いまや日本において彼は十分な収入を得ることができた。出島にいた他のヨーロッパ人の医師たちが開業することすら困難であったにもかかわらずである。
彼は通詞との緊密な接触を通じて、ヨーロッパの体系的な自然史学及び医学を紹介するとともに、日本人が眼を見張るような知識を提供していった。また、トゥーンベリは優秀な通詞であった吉雄耕牛との交流をとおして、とりわけ多くの物事を身につけた。
当時、開業医指導の立場にあったオランダ大使役の商館長アーレント・ウィレム・フェイトから医師としての身分を保証され、1776年の初めに彼は江戸へと向かった。江戸では将軍たちに、オランダ東インド会社が大変世話になっていることへの感謝を述べた。
トゥーンベリは、17世紀の先駆者たちである ジョージ・マイスター、アンドレアス・クライヤー、エンゲルベルト・ケンプフェルらのことをよく調べあげていた。彼らと同様にトゥーンベリは、この旅を植物収集および国情や人々を調査する旅として位置づけていた。
また彼は、オランダ学(蘭学)の指導的立場にある日本の代表者、特に桂川甫周、中川淳庵と知り合った。外国人に対しては力で抑え込むという日本の役人の厳しい管理の下にあっても トゥーンベリは自分の故郷に帰り着く前に、こうした日本人と何度も接触することに成功した。桂川および中川からの何通かの手紙は、トゥーンベリの母校ウプサラ大学にいまも保存されている。
4 ヨーロッパへの帰還
トゥーンベリの日本での任務は1776年11月に終了した。その後しばらくジャワに滞在した後、彼は1776年セイロン島にあるコロンボに到着した。ここでも彼は、植物採集の旅を重ね、とりわけオランダの入植地であるゴールを訪れた。彼は1778年セイロンを離れ、約2週間ケープタウンに滞在した後に、1778年10月にはアムステルダムに帰った。
彼はスウェーデンに戻る前に、ロンドン、特に大英博物館(1753年に採集家兼学者ハンス・スローンがその基礎を築いた)を訪れた。特にケンプフェルの植物の記録と押し花の標本に興味を示した。このとき彼は自然史研究家ジョゼフ・バンクス卿と知り合う機会を得た。バンクスは、その初めての航海を ジェームズ・クックと共にし、2度目の太平洋航海は 博物学者ヨハン・ラインホルト・フォースターと共に行っている。
トゥーンベリは1779年3月にスウェーデンに帰ったが、彼はそこでリンネの死を知った。
トゥーンベリは、植物学を広めた人間として知られるようになり、1784年には大学教授に就任した。
彼は、1772年から1779年までの間の、アフリカやアジア、特に日本に滞在した折の旅行の経験および観察の記録をまとめあげた。それらには、喜望峰の植物や日本の植物に関する著書、および彼のもとで学んだ学生たちの数多く博士論文(この当時は、教授が学生の博士論文を書いた)が含まれている。
5 業 績
すでに17世紀後半には、日本の植物に関する科学的かつ意欲的な研究が、アンドレアス・クライヤー、エンゲルベルト・ケンプフェルによって行われていたが、リンネの研究手法を最初に適用したのはトゥーンベリであった。
彼の著書は 植物分類の新しい判定基準の作成へとつながるものであった。一見してわかるように、ツンベルギア(Thunbergia、和名:ヤハズカズラ)という植物の属名は、トゥーンベリ(Thunberg)の名に由来している。このようにトゥーンベリの名前自体が、植物や動物の命名に用いられているものがあり、その数は 254種に及ぶ。彼が日本で採取した800以上もの植物標本は、ウプサラ大学で いまも大切に保存されている。
6 著 作
- Caroli
Petri Thunberg ... Flora Japonica sistens plantas insularum Japonicarum:
Secundum systema sexuale emendatum redactas ad XX classes, ordines, genera
et species. Leipzig: Müller 1784. (Faksimile Druck, New York: Oriole
Editions, 1975)
- Karl
Peter Thunbergs ... Reise durch einen Theil von Europa, Afrika und Asien,
hauptsächlich in Japan, in den Jahren 1770 bis 1779. Aus dem Schwedischen
frey übers. von Christian Heinrich Groskurd. Bd.
1. Haude und Spener, Berlin 1792 (Digitalisat
und Volltext im Deutschen Textarchiv) / Bd. 2. Haude und
Spener, Berlin 1794 (Digitalisat
und Volltext im Deutschen Textarchiv)
- Karl
Peter Thunberg: Reisen in Afrika und Asien, vorzüglich in Japan, während
der Jahre 1772–1779. Auszugsweise übersetzt von Kurt Sprengel. Berlin
1792.
- Prodromus
plantarum Capensium: quas in promontorio Bonæ Spei Africes, annis
1772–1775 collegit Carol. Pet. Thunberg. Upsalla: J. Edman 1794–1800.
- Voyages
De C. P. Thunberg, Au Japon, Par le Cap de Bonne-Espérance, Les îles de la
Sonde &c. Traduits, rédigés ... Par L. Langles,... Et revus, quant à
la partie d’Histoire Naturelle, par J.B. Lamarck ... Paris : Benoît
Dandré, Garnery, Obré, An IV [1796]. Tome 1 – 4.
- Icones
plantarum japonicarum (1805)
7 参考文献
- Karl
Peter Thunberg: Reise durch einen Theil von Europa, Afrika und Asien,
hauptsächlich in Japan, in den Jahren 1770–1779. Berlin, Haude und
Spener, 1794. (Nachdruck, herausgegeben und eingeleitet von Eberhard
Friese. Manutius Verlag, Heidelberg 1990, ISBN
3-925678-15-8)
- Carl
Jung: Kaross und Kimono – „Hottentotten“ und Japaner im Spiegel des
Reiseberichts von Carl Peter Thunberg (1743–1828). 1. Auflage. Franz
Steiner Verlag, Stuttgart 2002, ISBN
3-515-08120-8
- Wolfgang
Michel, Torii Yumiko, Kawashima Mabito: Kyûshû no rangaku – ekkyô to
kôryû (ヴォルフガング・ミヒェル・鳥井裕美子・川嶌眞人共編『九州の蘭学 ー 越境と交流』, dt. Holland-Kunde in Kyushu – Grenzüberschreitung und Austausch).
Shibunkaku Shuppan, Kyôto 2009. ISBN
978-4-7842-1410-5
- Timon
Screech: Japan Extolled and Decried: Carl Peter Thunberg and Japan.
Routledge Curzon, London, ISBN
978-0-7007-1719-4
8 出 典
- Hochspringen ↑ Mia C.
Karsten: Journal of South African Botany 5, 1939. Seiten 1–27 und
87–191
9 ウェブリンク
書誌関係の項目については、原文のままとしました。
「9 ウェブリンク」は大変に立派で、トゥーンベリが命名した厖大な数の植物名(学名)の一覧や、リンネとの間で交わされた書簡を見ることができます。
青い文字の上でクリックすればリンク先が開きますので、ぜひご覧になってみてください。