2015年3月20日金曜日

鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (5) 延命寺

木下街道とその周辺を歩く散策、5つ目の訪問先です。

江戸時代の鎌ケ谷宿は、大仏墓地から延命寺までの間だったそうです。
鎌ケ谷宿の反対側の端にある大仏墓地も延命寺の管理下にあります。
鎌ケ谷宿が形を成す前、江戸時代の初めの頃から このお寺は建っていたのだと思われます。


日蓮宗の宗紋は 井桁に橘


延命寺には、すばらしいクスノキの巨樹があります。
実際に近くに寄ってみると、その大きさに驚かされます。

幹周り4.7mのクスノキの巨樹


延命寺内には、いくつかの馬頭観音塔(馬の供養塔)と、「駒形霊王」と刻された石塔が見られます。

「駒形靈王」の石塔 安永9年(1780)建立

この石塔も馬頭観音塔の一種であるようです。
将軍家から賜った種馬が、一般の馬とは違い 格が高いので、この供養塔 は「駒形霊王」と名付られたのだといいます。
以下のサイトをご参照ください。

➜  Google ブック検索 『馬と石造馬頭観音』 61ページ


延命寺には、弁財天の石塔が何基か見られます。
なぜなのでしょうか?
近くには弁天池などがあったのでしょうか?

「奉 勧請 大自在辨財天」の石塔


――――――――――  * * * *  ――――――――――


墓地の卒塔婆を見ていると、裏側には必ず「是人於佛道決定無有疑」と書かれていることに気づきました。
この言葉を調べてみると、『法華経』の「如来神力品にょらいじんりきほん」第二十一の最後に掲げられているものであり、
  「是人於佛道決定無有疑ぜにんのぶつどうけつじょうむうぎ
と読むようです。

『般若心経』の 「心無罣礙しんむけいげ 無罣礙故むけいげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顛倒夢想おんりいっさいてんどうむそう」という言葉を思い出させます。

意味等は、以下をご参照ください。

 ➜  如来神力品 第二十一

 ➜  要約法華経 如来神力品第二十一



➜  前の訪問先 (4) 手通てつう公園

➜  次の訪問先 (6) 旅籠 丸屋


鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (4) 手通てつう公園

木下街道とその周辺を歩く散策、4つ目の訪問先です。

ブックオフの建物裏側にある駐車場から手通公園へと降りる際に、道路横のフェンス近くに 小さな花が咲いているのが見えました。

フラサバソウ (オオバコ科 クワガタソウ属) オオイヌノフグリの仲間

和名は、フランスの植物学者であるフランシェ(Franchet)とサバティエ(Savatier)の名前を組み合わせたものだそうです。
ヨーロッパ原産の越年草で、日本には外来種として定着しています。


手通公園には、5~6月に チューリップのような形をした 淡い黄緑色の花を咲かせるユリノキが立っていました。

ユリノキ (モクレン科 ユリノキ属)


ユリノキの実



➜  前の訪問先 (3) 私市きさいち醸造

➜  次の訪問先 (5) 延命寺


鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (3) 私市きさいち醸造

木下街道とその周辺を歩く散策、3つ目の訪問先です。

以下の写真は、今年の印西ウエットランドガイド「里山散策会」の当日に見学した折に撮ったものであり、残念ながら個人での見学はできません。

ドイツ製の通気発酵用の容器

上の写真は、ヨーロッパで開発されたお酢の醸造方法の容器です。
通気発酵法では、空気を入れて撹拌することにより 隅々まで酵母がゆきわたって発酵が進むため、数時間~24時間で お酢をつくることができるといいます。

昔ながらの、樽による 静置発酵法によるお酢の醸造もしています。
表面だけでしか発酵が進まないため、2~3カ月かかって ようやく お酢ができるのだそうです。

古来の吉野杉の樽 組み立て直しながら100年間利用できるといいます

手間暇がかかっている分、このお酢は値が張りますが、素晴らしい味です。
おすすめは 「吉乃川」の酒粕を使用した「不二吟酒粕乃酢」です。
360mlの瓶で626円です。
工場の2階にある事務所で購入することができます。
ここで手に入れるか、私市醸造の通販を利用するなどして味わっていただきたい お酢です。

樽の周囲の杉材は 古くなると削りながら再利用を繰り返します

樽の杉材は、新しいときには7~8cmの厚みがあるそうです。
古くなってくると、バラして削り直し、再度 樽に組み直します。
これを繰り返し、100年近く利用するとのことです。


かつて使われていた18リットル入りの甕

甕はちょうど1斗(10升)入るように作られていました。
いまは、切りのよい20リットル入りのポリタンクが使われているそうです。



➜  前の訪問先 (2) 陸軍鉄道連隊橋脚跡

➜  次の訪問先 (4) 手通てつう公園


鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (2) 陸軍鉄道連隊橋脚跡

木下街道とその周辺を歩く散策、2つ目の訪問先です。

陸軍鉄道第二連隊の大きな橋脚が4基残っています

アカシア児童遊園の道路側に、旧陸軍の鉄道連隊が演習に用いた4基の橋脚が残されています。
いちばん西の橋脚(上の写真の右端)のそばには、市教育委員会の説明板が置かれています。
概要は、以下の説明板の写真を参考にしてください。

「鉄道連隊橋脚」についての市教育委員会の説明書き

橋脚は、橋を架ける演習のために造られたものです。
二和川の細い流れが、「川」として見立てられたのでしょう。

橋脚のコンクリートは頑丈すぎて撤去できなかったようです。
コンクリートにも、ずいぶんと質に違いがあることが分かります。


陸軍鉄道第二連隊の練習線は、その多くが戦後になってから新京成線に引き継がれました。
しかし、敷設に当たっては、練習線橋脚部の横を通る路線への回り込みを避け、二和向台駅から初富駅の間を短絡して新たに軌道が敷かれました。
以下の地図をご参照ください。

陸軍鉄道第二連隊練習線(赤い線) と 新京成線 (緑色の線
国土地理院 電子国土Webシステム配信の地図を利用


橋脚跡の近辺には 撤去された線路沿い(現在は車道沿い)に、鉄道を敷設した「陸軍」の名が穿たれた標柱が数多く残されています。
標柱は花崗岩でできており、上に出た部分は30cm程度ですが、土に埋まっている部分はその2倍程あります。
上の部分は きれいに加工してありますが、下の部分は 抜けにくいよう あえてデコボコした状態にしてあります。
重さは70~80kgぐらいあるでしょうか。
市郷土資料館の話では、大人3人が ようやく持てる重さだそうです。

今でも標柱らしく見えるものもありますが、中には標柱のあった場所に塀がつくられ、コンクリートに埋もれているものもあります。 

家の塀に埋め込まれている「陸軍」の標柱



➜  前の訪問先 (1) 清長庵

➜  次の訪問先 (3) 私市きさいち醸造


鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (1) 清長庵

「印西ウエットランドガイド」の鎌ケ谷市域散策会(年間3回実施予定)の下見の一環として、木下街道とその周辺を スタッフで歩きました。
このコースのうち、清長庵から鎌ケ谷八幡神社までを取り上げます。
全体の記事が長くなるため、訪問先ごとに記事を分割します。

今回取り上げる訪問地(赤い文字) と 木下街道(赤い線
国土地理院 電子国土Webシステム配信の地図を利用

清長庵
鉄道連隊橋脚跡
私市醸造
手通公園
延命寺
丸屋
清田家の墓地・駒形大明神
鎌ケ谷大仏・官軍兵士の墓
鎌ケ谷八幡神社

以上の訪問先は、文字をクリックすると該当の記事にジャンプします。


清長庵には、市内最古の道標である「道標地蔵」があります。
道標を兼ねたお地蔵様です。

道標地蔵 正徳5年(1715)建立

元々はどこに建っていたのでしょう。
想像すると楽しくなってきます。


「道標地蔵」についての市教育委員会の説明書き

説明書きには、 「木下きおろし街道」が かつては「かしま道」とも呼ばれていたと書かれています。

この道標地蔵には、以下のように各面に道案内が彫られています。

 右 側 「志゛ん本うみち」 (神保道)
 正 面 「ゐんざい見ち」   (印西道) 
     「加志ま道奈里」   (鹿島道なり)
 左 側 「可ま加゛い道」  (釜ケ谷道)


貞亨4年(1687)、松尾芭蕉は二人の弟子、曾良と宗波を伴い、鹿島神宮へと赴く際に鎌ケ谷の地を過ぎました。
そのときのことを文章と俳句に記した『鹿島紀行』(鹿島詣)が思い出されます。
関連部分を書き出してみましょう。
茶色の文字は原文紺色の文字は現代語訳です。
現代語訳では、小学館『完訳 日本の古典 第55巻  芭蕉文集 去来抄』(1985)や、岩波書店『日本古典文學体系 46  芭蕉文集』(1981)等を参考にしました。


 (前略) やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり、秦甸の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山むかふに高く、二峯ならびたてり、かのもろこしに双剣のみねありしときこえしは、廬山の一隅也。
  ゆきはまうさず まづむらさきのつくばかな
ながめしは、我門人嵐雪が句也。すべてこの山は、やまとだけの尊 (日本武尊)の言葉をつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。
 萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。


 (前略) 八幡という所を過ぎると、鎌谷の原という所に広い野がある。「秦田の一千里」とでもいおうか、目もはるかに見渡される。筑波山が向こうに高くそびえおり、その男体山・女体山の二峰が並び立っているのが見える。かの唐土にも「双剣の峰」があるといわれるが、それは廬山の一隅である。
  ゆきは不申先むらさきのつくばかな

  (雪景色は申すまでもないが、まず春先の紫にかすむ筑波山の眺めは
  すばらしい)
とこの景色を詠んだのは、私の門人嵐雪の句である。だいたいが、この山は日本武尊にまつわる歌のお伝えから、連歌を詠む人々は、その道の起源をここに説き、その道の名ともしているのだ (連歌のことを「筑波の道」という)。この山を前にして、和歌の一首も詠まず、一句の句もなく、ただ通り過ぎてはなるまい。まことにめでたき山の姿である。
 萩は錦を地に敷きのべたようで、昔、橘為仲が長櫃に萩の花を折り入れ、都の土産に持たせたという話も思い出され、風流の心に共感したことである。ききょう・おみなえし・かるかや・尾花 (ススキのこと)などが乱れ咲き、牡鹿が、妻を恋い鳴く声も、いかにもあわれふかい。放し飼いの馬が、よい場所を得た様子で満足げに群がり歩くさまもまた、趣がある。




『木曽路名所図会』(1805)の「巻の五」には、鎌ケ谷周辺の馬のいる景色の画が載っています。

『木曽路名所図会』 全6巻を収めた袋
(Deutsche Digitale Bibliothek)


『木曽路名所図会 巻の五』から「釜ケ原」 (埼玉県立図書館蔵)

右端には「筑波山」、そして その手前に「白井」と書き込まれています。
左には、鎌ケ谷大仏が見え、井草三叉路には魚文の句碑(1764)らしきものが建っています。

鳥瞰図の上の方には 和歌と短い説明書きが添えられています。
完全に翻刻せず、できるだけ元の字を残して写します。


  かまはら

    かへり
     冨士ふじの夕日
      かゞきて (輝きて)
    かまはら
       こま可津乀かづかづ

      秋里あきざと とう


    このろくして
    東西とうざい四十里あまり
    りとなん
    西冨士ふじほう見えて
    小金原こがねはら津ゞつづなり


こんなふうに書いてあるのでしょうか(違っていたら ごめんなさい)。


この絵に続いて、「釜ヶ谷」の説明が載っています。

『木曽路名所図絵 巻の五』の「釜ケ谷」説明部分 (埼玉県立図書館蔵)

上の説明部分については、翻刻されて出版された以下の書籍が、読み取りの手助けになります。

  ➜  近代デジタルライブラリー『大日本名所図会  第2輯 第1編』(1919)

同書に頼りながら、完全に翻刻せず、できるだけ元の字、元の送りがなを残して写してみました。


下総 釜ヶ谷

 白井まで弐里。かくて邑里越過て田中を行。左尓見、右尓見て、田園隴ゝたり。あるハ耕し、阿るハ玉苗をとりて、笠越ならべてハ哥諷ふさ満、いづく毛か者ら女とたちなが女、山本尓ハ田屋の煙幽尓立天、子民稼穡の器より開希、水龍盤もとより稲穀を護天、夏の雨を久太゛し、雷光盤か祢天よ里 九穂越孕て三秋越ま川。此駅盤家居満者゛ら丹して林園多し。
 程なく釜ヶ原てふ所尓至禮り。此墅盤曠ゝとして夏艸茂りて風越覆ふ。こゝ尓墅飼の駒五六十者゛可り、此墅原尓放太れ天、何れも草越あさ里て遊ぶさ満いとを可し。これハ何連の馬ぞと人家尓出天尋連バ、公官の御馬尓て、馬寮の人古ゝ尓墅飼し、駿馬越撰ミ給ふとなり。見る尓親馬動希ば其子もそ禮尓徒幾天ゆき、戯連るさ満画にかくとも及者゛し。そ可゛中越歩行ば、多くの駒人を恐るゝ尓や、早く脇の方へ退紀介り。
 此墅より西の方を顧連バ、たゞ空や水、水や空ともワい太女な紀に冨士峯あざや可尓見ゆる。江府を立天かく見る盤又免川゛らし。行乀て前程なを遠し堂いへども、暮の空を臨む斜脚春で尓酉金に近徒゛遣バ、日の入程尓白井に泊る。


これでは、とても分かりづらいので、今のひらがな、今の送りがなに直します。
それだけでも、ずいぶんと文章の中身がみえてきます。


下総 釜ヶ谷

 (釜ヶ谷から)白井まで2里。かくて邑里を過ぎて田中を行く。左に見、右に見て、田園隴々たり。あるいは耕し、あるいは玉苗をとって、笠をならべては歌うたうさま、いずこもかわらぬ(もの)と立ちながめ、山本には田屋の煙幽かに立って、子民稼穡の器より開け、水龍はもとより稲穀を護って、夏の雨をくだし、雷光はかねてより九穂を孕んで三秋をまつ。この駅は家居まばらにして林園多し。
 ほどなく釜ヶ原という所に至れり。この野は曠々として、夏草茂って風を覆う。ここに野飼いの駒五六十ばかり、この野原に放たれて、いずれも草をあさって遊ぶ様いとをかし。これはいずれの馬ぞと人家に出でて尋ねれば、公官のお馬にて、馬寮の人ここに野飼いし、駿馬を撰び給うとなり。見るに親馬動けば其の子もそれについてゆき、戯れるさま画にかくとも及ばじ。そが中を歩めば、多くの駒、人を恐るるにや、早く脇の方へ退きけり。
 この野より西の方を顧みれば、ただ空や水、水や空ともわいためなきに(「わいため」は「弁別、区別」の意。「わいだめ」ともいう)、冨士峯あざやかに見ゆる。江府を立ってかく見るは、まためずらし。行きゆきて前程なお遠しといえども、暮の空を臨む斜脚すでに酉金に近づけば、日の入るほどに白井に泊る。



道標地蔵の反対側には、きれいな大師堂が建っています。

吉橋大師講 第三十一番札所の大師堂 御大師様が見えます


大師堂を 角度を変えて撮った写真

扁額の文字が薄れてしまって読めないのが残念です。
何と書いてあったのでしょう。
木に書かれていて戸外に置かれているものは、石や金属と比べて経年変化がずっとはやいので、しっかりと記録しておく必要性を感じます。

吉橋大師講については、以下の記事をご覧ください。

 ➜  鎌ケ谷の大師堂(6) 吉橋大師講の札所


➜  次の訪問先 (2) 陸軍鉄道連隊橋脚跡


2015年3月13日金曜日

2015 春の牧ウマまつり (鎌ケ谷市文化・スポーツ課)

今年も鎌ケ谷では、「春の牧ウマまつり」が開催されます。
「国史跡 〈下総小金中野牧跡〉 周知普及実行委員会」 という 長~い名前のところが主催するこの事業も、今回で第7回となります。
市教育委員会の文化・スポーツ課が実行の推進役をになっています。

以下の4つのイベントが計画されています (すべて土曜日に実施)

  4月  4日(土) とっこめ桜まつり (貝柄山公園)  11:00~15:00
  4月18日(土) とっこめバスツアー (馬の博物館と横浜中華街)
  5月  9日(土) とっこめ寄席 落語と鹿芝居 (きらりホール)
  5月16日(土) とっこめ塾 (きらり鎌ケ谷市民会館)

詳しくは、下に掲載したポスターやチラシ、「広報かまがや」の記事をご覧ください。


ポスター


チラシ


「広報かまがや」2015年3月15日号掲載の記事


➜  とっこめ桜まつり 2015  の 様子


2015年3月10日火曜日

かまがや散策マップ(11) 粟野 いにしえ散歩

今回は「粟野 いにしえ散歩」と題して、粟野地区を歩きます。

https://drive.google.com/file/d/0B0eo8wCrTacCMDFSOWpwaC1HN3M/view?usp=sharing
画像をクリックすると、拡大できます

コース順路は、以下のとおりです。
      
新鎌ケ谷駅
野馬除土手跡(鎌ケ谷みどり幼稚園 園庭)
八坂神社と境内の石仏・庚申塔群
路傍の馬頭観音塔
弁財天(鎌ケ谷三中前)
路傍にある水神宮の祠
豊作稲荷神社
「土地記念講碑」(光圓寺境内)
新京成線北初富駅

の幼稚園の園庭に残る野馬除土手跡については、以下の記事をご参照ください。

➜  鎌ケ谷の野馬土手(19) 鎌ケ谷みどり幼稚園の南に残る野馬除土手跡

また、の弁財天、の水神宮の祠、の豊作稲荷神社については、以下の記事をご覧ください。

➜  鎌ケ谷の古い地図(3) 粟野村地引絵図〈1877ごろ〉



➜  かまがや散策マップ(10) 軽井沢地区を歩く

➜  かまがや散策マップ(12) 木下街道を南へゆく


2015年3月5日木曜日

鎌ケ谷で見られるカエル類

「鎌ケ谷市の環境の現状調査」(2002) P.26によると、鎌ケ谷市内で見られる両生類は カエル類6種であるとのことです。
ここでは、シュレーゲルアオガエル(日本固有種: 鎌ケ谷市ではホタルの里周辺でのみ確認)を除いた 5種のカエルの写真を見ていきたいと思います。
なお、撮影地は鎌ケ谷市以外も含まれます。


1 ニホンアマガエル

ニホンアマガエル 1 印西市・角田にて  2013.10.07 撮影


ニホンアマガエル 2 印西市・松虫にて  2014.05.23 撮影


ニホンアマガエル 3 印西市・亀成川沿いにて 2012.05.29 撮影


2 トウキョウダルマガエル

トウキョウダルマガエル 印西市・松虫にて  2014.05.23 撮影


3 ニホンアカガエル

ニホンアカガエル 我孫子市内にて  2014.10.27 撮影

ニホンアカガエルは卵塊状の卵を産みます。
産卵直後、卵は水を吸って一気に膨れあがるのだそうです。
卵塊は、産卵された場所によって、ずいぶんと違って見えます。
3つの場所で撮影したものをご覧ください。

ニホンアカガエルの卵塊 1 鎌ケ谷市内にて  2012.03.04 撮影


ニホンアカガエルの卵塊 2 市川市内にて  2014.02.01 撮影


ニホンアカガエルの卵塊 3 印西市内にて  2014.03.08 撮影


4 アズマヒキガエル

アズマヒキガエル 鎌ケ谷市・粟野にて  2014.05.10 撮影


アズマヒキガエルのオタマジャクシ 鎌ケ谷市・粟野にて  2015.03.24 撮影


5 ウシガエル

ウシガエル 1 鎌ケ谷市・中沢にて  2014.05.19 撮影

追 記 2017.07.06

ウシガエル 2 ♂ の鼓膜は巨大 鎌ケ谷市・中沢にて   2017.06.14 撮影


ウシガエル 3 ♀ の背面は褐色 鎌ケ谷市・中沢にて   2017.06.14 撮影


ウシガエル 4 幼体 鎌ケ谷市・中沢にて 2017.06.14 撮影


2015年3月2日月曜日

「広報かまがや」 2015年3月1日号掲載の記事から


1 歴史講演会


郷土資料館の「歴史講演会Ⅱ」として、 江戸時代における房総地方の特色と 村々の生活についての講演会が開かれます。
講師は、一橋大学教授の渡辺尚志たかしさんです。

郷土資料館 歴史講演会Ⅱ 〈 江戸時代における房総地域の村 〉

昔の生活を知ると、眼前の景色も違って見えてきます。
私は、生活と信仰の関わりを知りたいと思っています。


昭和時代の鎌ケ谷については、「広報かまがや」の2015年2月1日号に 以下の講座の案内が載っています。
第2~4回は、これから開かれますので 興味をお持ちの方には ご参加をおすすめします。

鎌ケ谷市史 研究講座 ― 資料から読み解く昭和の鎌ケ谷 ―


2 世界遺産〈富岡製糸場〉についての講演会


鎌ケ谷市の市民活動推進センターが、現在の きらり鎌ケ谷市民会館に移転して1年が経ちます。
それを記念して 以下の講演会が開かれます。

「富岡製糸場を愛する会」理事長 高橋伸二さんによる講演会


市民活動推進センターから送られてきた案内チラシ


3 ぶらり鎌ケ谷 〈幕末の志士と里山の春〉


最近、大津川や 粟野の森(粟野地区公園)、佐津間地区の散策会が増えているようです。
鎌ケ谷でいちばん豊かな自然と歴史が残っているのが、佐津間地区。
多くの人に訪れていただきたいものです。

「第17回 ぶらり鎌ケ谷」は、大津川沿い と 佐津間地区を 一日かけて散策します。

第17回 ぶらり鎌ケ谷 〈大津川と佐津間地区の散策〉

「印西ウエットランドガイド 鎌ケ谷」でも、昨年の散策会 に引き続き 今年も9月に、この周辺の散策を計画しています。
「ぶらり鎌ケ谷」では、どのようなコースで散策するのでしょうか。
楽しみです。


なお、もう終わってしまいましたが、「広報かまがや」の2015年2月1日号には、以下の散策会の案内が載っていました。
これも 粟野の森と大津川沿いの散策でした。

文化・スポーツ課主催の散策会