「印西ウエットランドガイド」の鎌ケ谷市域散策会(年間3回実施予定)の下見の一環として、木下街道とその周辺を スタッフで歩きました。
このコースのうち、清長庵から鎌ケ谷八幡神社までを取り上げます。
全体の記事が長くなるため、訪問先ごとに記事を分割します。
|
今回取り上げる訪問地(赤い文字) と 木下街道(赤い線) |
国土地理院 電子国土Webシステム配信の地図を利用
➊ 清長庵
➋ 鉄道連隊橋脚跡
➌ 私市醸造
➍ 手通公園
➎ 延命寺
➏ 丸屋
➐ 清田家の墓地・駒形大明神
➑ 鎌ケ谷大仏・官軍兵士の墓
➒ 鎌ケ谷八幡神社
以上の訪問先は、文字をクリックすると該当の記事にジャンプします。
清長庵には、市内最古の道標である「道標地蔵」があります。
道標を兼ねたお地蔵様です。
|
道標地蔵 正徳5年(1715)建立 |
元々はどこに建っていたのでしょう。
想像すると楽しくなってきます。
|
「道標地蔵」についての市教育委員会の説明書き |
説明書きには、 「
木下街道」が かつては「かしま道」とも呼ばれていたと書かれています。
この道標地蔵には、以下のように各面に道案内が彫られています。
右 側 「志゛ん本うみち」
(神保道)
正 面 「ゐんざい見ち」
(印西道)
「加志ま道奈里」 (
鹿島道なり)
左 側 「可ま加゛い道」
(釜ケ谷道)
貞亨4年(1687)、松尾芭蕉は二人の弟子、曾良と宗波を伴い、鹿島神宮へと赴く際に鎌ケ谷の地を過ぎました。
そのときのことを文章と俳句に記した
『鹿島紀行』(鹿島詣)が思い出されます。
関連部分を書き出してみましょう。
茶色の文字は原文、
紺色の文字は現代語訳です。
現代語訳では、小学館『完訳 日本の古典 第55巻 芭蕉文集 去来抄』(1985)や、岩波書店『日本古典文學体系 46 芭蕉文集』(1981)等を参考にしました。
(前略) やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり、秦甸の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山むかふに高く、二峯ならびたてり、かのもろこしに双剣のみねありしときこえしは、廬山の一隅也。
ゆきは不レ申先むらさきのつくばかな
と詠しは、我門人嵐雪が句也。すべてこの山は、やまとだけの尊 (日本武尊)の言葉をつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。
萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。
(前略) 八幡という所を過ぎると、鎌谷の原という所に広い野がある。「秦田の一千里」とでもいおうか、目もはるかに見渡される。筑波山が向こうに高くそびえおり、その男体山・女体山の二峰が並び立っているのが見える。かの唐土にも「双剣の峰」があるといわれるが、それは廬山の一隅である。
ゆきは不レ申先むらさきのつくばかな
(雪景色は申すまでもないが、まず春先の紫にかすむ筑波山の眺めは
すばらしい)
とこの景色を詠んだのは、私の門人嵐雪の句である。だいたいが、この山は日本武尊にまつわる歌のお伝えから、連歌を詠む人々は、その道の起源をここに説き、その道の名ともしているのだ (連歌のことを「筑波の道」という)。この山を前にして、和歌の一首も詠まず、一句の句もなく、ただ通り過ぎてはなるまい。まことにめでたき山の姿である。
萩は錦を地に敷きのべたようで、昔、橘為仲が長櫃に萩の花を折り入れ、都の土産に持たせたという話も思い出され、風流の心に共感したことである。ききょう・おみなえし・かるかや・尾花 (ススキのこと)などが乱れ咲き、牡鹿が、妻を恋い鳴く声も、いかにもあわれふかい。放し飼いの馬が、よい場所を得た様子で満足げに群がり歩くさまもまた、趣がある。
『木曽路名所図会』(1805)の「巻の五」には、鎌ケ谷周辺の馬のいる景色の画が載っています。
右端には「筑波山」、そして その手前に「白井」と書き込まれています。
左には、鎌ケ谷大仏が見え、井草三叉路には魚文の句碑(1764)らしきものが建っています。
鳥瞰図の上の方には 和歌と短い説明書きが添えられています。
完全に翻刻せず、できるだけ元の字を残して写します。
釜ヶ原
かへり
見る
冨士の夕日
能
かゞ
屋きて
(輝きて)
釜可原墅乃
駒の
可津乀
秋里 籬島
此墅盤比ろくして
東西四十里あまり
阿りとなん
西
尓冨士峯見えて
小金原尓津ゞく
也
こんなふうに書いてあるのでしょうか(違っていたら ごめんなさい)。
この絵に続いて、「釜ヶ谷」の説明が載っています。
上の説明部分については、翻刻されて出版された以下の書籍が、読み取りの手助けになります。
➜ 近代デジタルライブラリー『大日本名所図会 第2輯 第1編』(1919)
同書に頼りながら、完全に翻刻せず、できるだけ元の字、元の送りがなを残して写してみました。
下総 釜ヶ谷
白井まで弐里。かくて邑里越過て田中を行。左尓見、右尓見て、田園隴ゝたり。あるハ耕し、阿るハ玉苗をとりて、笠越ならべてハ哥諷ふさ満、いづく毛か者ら女とたちなが女、山本尓ハ田屋の煙幽尓立天、子民稼穡の器より開希、水龍盤もとより稲穀を護天、夏の雨を久太゛し、雷光盤か祢天よ里 九穂越孕て三秋越ま川。此駅盤家居満者゛ら丹して林園多し。
程なく釜ヶ原てふ所尓至禮り。此墅盤曠ゝとして夏艸茂りて風越覆ふ。こゝ尓墅飼の駒五六十者゛可り、此墅原尓放太れ天、何れも草越あさ里て遊ぶさ満いとを可し。これハ何連の馬ぞと人家尓出天尋連バ、公官の御馬尓て、馬寮の人古ゝ尓墅飼し、駿馬越撰ミ給ふとなり。見る尓親馬動希ば其子もそ禮尓徒幾天ゆき、戯連るさ満画にかくとも及者゛し。そ可゛中越歩行ば、多くの駒人を恐るゝ尓や、早く脇の方へ退紀介り。
此墅より西の方を顧連バ、たゞ空や水、水や空ともワい太女な紀に、冨士峯あざや可尓見ゆる。江府を立天かく見る盤又免川゛らし。行乀て前程なを遠し堂いへども、暮の空を臨む斜脚春で尓酉金に近徒゛遣バ、日の入程尓白井に泊る。
これでは、とても分かりづらいので、今のひらがな、今の送りがなに直します。
それだけでも、ずいぶんと文章の中身がみえてきます。
下総 釜ヶ谷
(釜ヶ谷から)白井まで2里。かくて邑里を過ぎて田中を行く。左に見、右に見て、田園隴々たり。あるいは耕し、あるいは玉苗をとって、笠をならべては歌うたうさま、いずこもかわらぬ(もの)と立ちながめ、山本には田屋の煙幽かに立って、子民稼穡の器より開け、水龍はもとより稲穀を護って、夏の雨をくだし、雷光はかねてより九穂を孕んで三秋をまつ。この駅は家居まばらにして林園多し。
ほどなく釜ヶ原という所に至れり。この野は曠々として、夏草茂って風を覆う。ここに野飼いの駒五六十ばかり、この野原に放たれて、いずれも草をあさって遊ぶ様いとをかし。これはいずれの馬ぞと人家に出でて尋ねれば、公官のお馬にて、馬寮の人ここに野飼いし、駿馬を撰び給うとなり。見るに親馬動けば其の子もそれについてゆき、戯れるさま画にかくとも及ばじ。そが中を歩めば、多くの駒、人を恐るるにや、早く脇の方へ退きけり。
この野より西の方を顧みれば、ただ空や水、水や空ともわいためなきに(「わいため」は「弁別、区別」の意。「わいだめ」ともいう)、冨士峯あざやかに見ゆる。江府を立ってかく見るは、まためずらし。行きゆきて前程なお遠しといえども、暮の空を臨む斜脚すでに酉金に近づけば、日の入るほどに白井に泊る。
道標地蔵の反対側には、きれいな大師堂が建っています。
|
吉橋大師講 第三十一番札所の大師堂 御大師様が見えます |
|
大師堂を 角度を変えて撮った写真 |
扁額の文字が薄れてしまって読めないのが残念です。
何と書いてあったのでしょう。
木に書かれていて戸外に置かれているものは、石や金属と比べて経年変化がずっとはやいので、しっかりと記録しておく必要性を感じます。
吉橋大師講については、以下の記事をご覧ください。
➜ 鎌ケ谷の大師堂(6) 吉橋大師講の札所
➜ 次の訪問先 (2) 陸軍鉄道連隊橋脚跡