2015年3月20日金曜日

鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (1) 清長庵

「印西ウエットランドガイド」の鎌ケ谷市域散策会(年間3回実施予定)の下見の一環として、木下街道とその周辺を スタッフで歩きました。
このコースのうち、清長庵から鎌ケ谷八幡神社までを取り上げます。
全体の記事が長くなるため、訪問先ごとに記事を分割します。

今回取り上げる訪問地(赤い文字) と 木下街道(赤い線
国土地理院 電子国土Webシステム配信の地図を利用

清長庵
鉄道連隊橋脚跡
私市醸造
手通公園
延命寺
丸屋
清田家の墓地・駒形大明神
鎌ケ谷大仏・官軍兵士の墓
鎌ケ谷八幡神社

以上の訪問先は、文字をクリックすると該当の記事にジャンプします。


清長庵には、市内最古の道標である「道標地蔵」があります。
道標を兼ねたお地蔵様です。

道標地蔵 正徳5年(1715)建立

元々はどこに建っていたのでしょう。
想像すると楽しくなってきます。


「道標地蔵」についての市教育委員会の説明書き

説明書きには、 「木下きおろし街道」が かつては「かしま道」とも呼ばれていたと書かれています。

この道標地蔵には、以下のように各面に道案内が彫られています。

 右 側 「志゛ん本うみち」 (神保道)
 正 面 「ゐんざい見ち」   (印西道) 
     「加志ま道奈里」   (鹿島道なり)
 左 側 「可ま加゛い道」  (釜ケ谷道)


貞亨4年(1687)、松尾芭蕉は二人の弟子、曾良と宗波を伴い、鹿島神宮へと赴く際に鎌ケ谷の地を過ぎました。
そのときのことを文章と俳句に記した『鹿島紀行』(鹿島詣)が思い出されます。
関連部分を書き出してみましょう。
茶色の文字は原文紺色の文字は現代語訳です。
現代語訳では、小学館『完訳 日本の古典 第55巻  芭蕉文集 去来抄』(1985)や、岩波書店『日本古典文學体系 46  芭蕉文集』(1981)等を参考にしました。


 (前略) やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり、秦甸の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山むかふに高く、二峯ならびたてり、かのもろこしに双剣のみねありしときこえしは、廬山の一隅也。
  ゆきはまうさず まづむらさきのつくばかな
ながめしは、我門人嵐雪が句也。すべてこの山は、やまとだけの尊 (日本武尊)の言葉をつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。
 萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。


 (前略) 八幡という所を過ぎると、鎌谷の原という所に広い野がある。「秦田の一千里」とでもいおうか、目もはるかに見渡される。筑波山が向こうに高くそびえおり、その男体山・女体山の二峰が並び立っているのが見える。かの唐土にも「双剣の峰」があるといわれるが、それは廬山の一隅である。
  ゆきは不申先むらさきのつくばかな

  (雪景色は申すまでもないが、まず春先の紫にかすむ筑波山の眺めは
  すばらしい)
とこの景色を詠んだのは、私の門人嵐雪の句である。だいたいが、この山は日本武尊にまつわる歌のお伝えから、連歌を詠む人々は、その道の起源をここに説き、その道の名ともしているのだ (連歌のことを「筑波の道」という)。この山を前にして、和歌の一首も詠まず、一句の句もなく、ただ通り過ぎてはなるまい。まことにめでたき山の姿である。
 萩は錦を地に敷きのべたようで、昔、橘為仲が長櫃に萩の花を折り入れ、都の土産に持たせたという話も思い出され、風流の心に共感したことである。ききょう・おみなえし・かるかや・尾花 (ススキのこと)などが乱れ咲き、牡鹿が、妻を恋い鳴く声も、いかにもあわれふかい。放し飼いの馬が、よい場所を得た様子で満足げに群がり歩くさまもまた、趣がある。




『木曽路名所図会』(1805)の「巻の五」には、鎌ケ谷周辺の馬のいる景色の画が載っています。

『木曽路名所図会』 全6巻を収めた袋
(Deutsche Digitale Bibliothek)


『木曽路名所図会 巻の五』から「釜ケ原」 (埼玉県立図書館蔵)

右端には「筑波山」、そして その手前に「白井」と書き込まれています。
左には、鎌ケ谷大仏が見え、井草三叉路には魚文の句碑(1764)らしきものが建っています。

鳥瞰図の上の方には 和歌と短い説明書きが添えられています。
完全に翻刻せず、できるだけ元の字を残して写します。


  かまはら

    かへり
     冨士ふじの夕日
      かゞきて (輝きて)
    かまはら
       こま可津乀かづかづ

      秋里あきざと とう


    このろくして
    東西とうざい四十里あまり
    りとなん
    西冨士ふじほう見えて
    小金原こがねはら津ゞつづなり


こんなふうに書いてあるのでしょうか(違っていたら ごめんなさい)。


この絵に続いて、「釜ヶ谷」の説明が載っています。

『木曽路名所図絵 巻の五』の「釜ケ谷」説明部分 (埼玉県立図書館蔵)

上の説明部分については、翻刻されて出版された以下の書籍が、読み取りの手助けになります。

  ➜  近代デジタルライブラリー『大日本名所図会  第2輯 第1編』(1919)

同書に頼りながら、完全に翻刻せず、できるだけ元の字、元の送りがなを残して写してみました。


下総 釜ヶ谷

 白井まで弐里。かくて邑里越過て田中を行。左尓見、右尓見て、田園隴ゝたり。あるハ耕し、阿るハ玉苗をとりて、笠越ならべてハ哥諷ふさ満、いづく毛か者ら女とたちなが女、山本尓ハ田屋の煙幽尓立天、子民稼穡の器より開希、水龍盤もとより稲穀を護天、夏の雨を久太゛し、雷光盤か祢天よ里 九穂越孕て三秋越ま川。此駅盤家居満者゛ら丹して林園多し。
 程なく釜ヶ原てふ所尓至禮り。此墅盤曠ゝとして夏艸茂りて風越覆ふ。こゝ尓墅飼の駒五六十者゛可り、此墅原尓放太れ天、何れも草越あさ里て遊ぶさ満いとを可し。これハ何連の馬ぞと人家尓出天尋連バ、公官の御馬尓て、馬寮の人古ゝ尓墅飼し、駿馬越撰ミ給ふとなり。見る尓親馬動希ば其子もそ禮尓徒幾天ゆき、戯連るさ満画にかくとも及者゛し。そ可゛中越歩行ば、多くの駒人を恐るゝ尓や、早く脇の方へ退紀介り。
 此墅より西の方を顧連バ、たゞ空や水、水や空ともワい太女な紀に冨士峯あざや可尓見ゆる。江府を立天かく見る盤又免川゛らし。行乀て前程なを遠し堂いへども、暮の空を臨む斜脚春で尓酉金に近徒゛遣バ、日の入程尓白井に泊る。


これでは、とても分かりづらいので、今のひらがな、今の送りがなに直します。
それだけでも、ずいぶんと文章の中身がみえてきます。


下総 釜ヶ谷

 (釜ヶ谷から)白井まで2里。かくて邑里を過ぎて田中を行く。左に見、右に見て、田園隴々たり。あるいは耕し、あるいは玉苗をとって、笠をならべては歌うたうさま、いずこもかわらぬ(もの)と立ちながめ、山本には田屋の煙幽かに立って、子民稼穡の器より開け、水龍はもとより稲穀を護って、夏の雨をくだし、雷光はかねてより九穂を孕んで三秋をまつ。この駅は家居まばらにして林園多し。
 ほどなく釜ヶ原という所に至れり。この野は曠々として、夏草茂って風を覆う。ここに野飼いの駒五六十ばかり、この野原に放たれて、いずれも草をあさって遊ぶ様いとをかし。これはいずれの馬ぞと人家に出でて尋ねれば、公官のお馬にて、馬寮の人ここに野飼いし、駿馬を撰び給うとなり。見るに親馬動けば其の子もそれについてゆき、戯れるさま画にかくとも及ばじ。そが中を歩めば、多くの駒、人を恐るるにや、早く脇の方へ退きけり。
 この野より西の方を顧みれば、ただ空や水、水や空ともわいためなきに(「わいため」は「弁別、区別」の意。「わいだめ」ともいう)、冨士峯あざやかに見ゆる。江府を立ってかく見るは、まためずらし。行きゆきて前程なお遠しといえども、暮の空を臨む斜脚すでに酉金に近づけば、日の入るほどに白井に泊る。



道標地蔵の反対側には、きれいな大師堂が建っています。

吉橋大師講 第三十一番札所の大師堂 御大師様が見えます


大師堂を 角度を変えて撮った写真

扁額の文字が薄れてしまって読めないのが残念です。
何と書いてあったのでしょう。
木に書かれていて戸外に置かれているものは、石や金属と比べて経年変化がずっとはやいので、しっかりと記録しておく必要性を感じます。

吉橋大師講については、以下の記事をご覧ください。

 ➜  鎌ケ谷の大師堂(6) 吉橋大師講の札所


➜  次の訪問先 (2) 陸軍鉄道連隊橋脚跡