2015年9月6日日曜日

北総の宗像神社(8) <印西市・師戸もろと

師戸地区の宗像神社は、印西市(大字)師戸1109番地にあります。

師戸宗像神社 と その周辺
国土地理院 電子国土Webシステム配信の地図を利用

この周辺は、江戸期には、下総国しもうさのくに印旛郡師戸もろと村と呼ばれた地区です。
明治期に入ってからは、師戸村は 佐倉縣次いで印旛縣に属した後、明治6年から千葉縣の所管となりました。

その後の経過は以下のとおり。

 ・1889年(明治22年)、師戸村は 他の5村と合併し 宗像村が成立。
 ・1955年(昭和30年)、宗像村は 六合村と合併し 印旛村が成立。
 ・2010年(平成22年)、印旛村は 本埜村とともに 印西市に編入。

印西市に編入されるまでは、長い間、印旛郡に属していました。

では、師戸の宗像神社を訪ねてみましょう。

師戸宗像神社は 道路沿いにあります


道路の反対側は 谷へと急に落ち込んでいます


先の大震災のときに 鳥居の額束がくつかが落下し 階段に傷跡を残しました


一の鳥居の奥にある 二の鳥居は 両部鳥居


大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「宗像村誌」には、村社 宗像神社の一つとして以下のように書かれています(後編 P.411)。


(2) 村社 宗像神社

師戸村 字天ノ宮あまのみや(近くで「天ノ宮遺跡」が発掘されている)にあり、祭神 多紀理姫命たきりびめのみこと狭依理姫命さよりびめのみこと多紀津姫命たきつひめのみことを祭る。

由緒不詳。

社殿(本殿)、間口 6尺 奥行き 6尺。
拝殿、間口 4間半  奥行き 2間。
境内、326坪あり。 氏子、108戸あり。
神官は香取正廣にして、管轄庁まで5里5町20間あり。

境内3社を祭る。 即ち、
1 稲荷神社 〔食〕うけもちのみことを祭る。 由緒不詳。 建物は 方3尺なり。
2 香取神社 経津主〔神〕ふつぬしのかみを祭る。由緒不詳。建物は 方3尺なり。
3 三神社  天照大神あまてらすおおみかみ神功皇后じんぐうこうごう(天)児屋根命あめのこやねのみことを祭る。 由緒不詳。 建物は 間口 9尺 奥行き 3尺なり。


神社拝殿


拝殿には「宗像神社」と書かれた扁額があります


拝殿内には、絵や写真が掲げられています


先の大震災の2カ月後に書かれた「階段きざはしの傷跡」

木や紙に書かれたものは、石に刻まれたものと違い、どんなに大事なものであっても 長い期間 残ることがありません。
そこで、上の言葉も書き写しておきたいと思います。

 

階段きざはしの傷跡


    5月11日 現在
      死者  14,949人
      不明者   9,880人
      負傷者   5,279人


東日本大震災(東北関東大震災) 平成23年5月11日 記す

平成23年3月11日 午後2時46分、東北地方 太平洋沖、マグニチュード9.0という巨大地震が発生。
地震・津波による死者は1万4千余、行方不明者 1万余、被災者は12万人と伝えられた。

さらに 福島第一原発事故による周辺住民の避難等、数々の問題がおこり、それに伴う影響は日本全国に及んだ。
各機関は総力を挙げて事に当たり、日本国中が その救援に東奔西走する。
この状況は、今後長期に及ぶものと予想される。

幸い 当師戸地区は、墓石の倒壊、少数の棟瓦の破損に止まり、本師戸宗像神社の損害は、石の鳥居の額束(がくつか)落下、石段を傷つけ、古い燈籠が崩れ、その跡を残すに止まった。
額落下による石段の損傷は そのまま残し、鳥居は額をつけず修理することとなり、5月3日修理完了。 9万4千5百円を費やした。


拝殿に張られていた 神社本庁のポスター  1


拝殿に張られていた 神社本庁のポスター  2


拝殿の後ろには 本殿の塀が見えます

本殿の塀のすぐ傍には、キノコが生えていました。
何だか不思議な感じがしました。

本殿の塀の近くに生えていたキノコ  1


本殿の塀の近くに生えていたキノコ  2

キノコの同定は難しくて、図鑑やネットで調べても さっぱり分かりません。


本殿 屋根の下の部分には彫刻が施されています


本殿左後方にある 稲荷神社・香取神社・三神社が一体になった小祠


拝殿と本殿の横は きれいに苔むしていました


苔むした石と その上に被さる葉の組み合わせが絶妙


瑞垣みずがき(玉垣)の石 苔が美しい


鳥居を拝殿側から見た景色です


「日清・北清・日露  戰役從軍紀念」の碑 (1907)

碑には「從軍紀念」とあることから、生きて師戸に戻ってきた人が、この碑を建てたのではないかと推測されます。
左下に「陸軍歩兵少尉  小山林之助」という名が刻まれています。