2015年11月10日火曜日

鎌ケ谷の神社(8) 鎌ケ谷八幡神社(その1)

鎌ケ谷八幡神社は、新京成線 鎌ケ谷大仏駅から東へ徒歩2分、木下街道沿いにあります。
江戸の昔、渡辺崋山もこの神社に立ち寄っていることが『四州真景紀行』の挿絵により分かります。

渡辺崋山『四州真景紀行』(1825)挿絵 鎌ケ谷八幡神社とその周辺


鎌ケ谷八幡神社 一の鳥居


狛 犬(右)
狛 犬(左)









石の鳥居が、現在の金属の鳥居に建て替えられたようです


鎌ケ谷八幡神社 由緒書き

上の写真の由緒書きを写したものを以下に載せます。


御 由 緒    


〔 当地区についての説明 〕

 奈良朝から平安朝にかけて 全国的に沢山の山林や原野が拓かれた。「類聚国史」によると第53代淳和天皇の勅旨で下総国でも七百余町と記されている。この拓かれた処に「延喜式」の官馬を放し飼いする下総小金の5牧が置かれた。これらの牧は「兵部省式」により毎年、左右馬寮、九州太宰府、伊勢神宮の斎宮に定められた数の馬牛を充し送った。
 当地区は野付村(牧場の管理と牛馬の世話等に役務する村)として、小金5牧の内、大結馬牧おおいうままきに属し、地区内にはこれら官馬の往還の便として上古から「かしま道」今の木下街道が通じ、野中の要衝として人馬の行交い多く、炊煙古くから豊かに上る処であった。

 当社の御祭神は、八幡大神と申上げ誉田別尊ほんだわけのみことを奉祀する。

〔 八幡信仰についての概説 〕

 八幡信仰は九州の宇佐八幡宮に始まり、天平勝宝元年(749)東大寺大仏の完成を機に、東大寺の鎮守(手向山八幡宮)として、都に進出し、平安京に都が移ると(794)京都の石清水八幡宮に勧請された。朝廷の信仰も厚く、殊に永承元年(1046)源頼信が八幡大神を清和源氏の氏神としたので頼朝時代には神々の中でも八幡大神のみが特に崇敬され「廻国雑記標註」にも記されている様に広く武人が守護神として尊崇する様になった。
 頼朝が鎌倉に幕府を開き、鶴ヶ丘八幡宮を中心に祭政一致を理想として諸国に守護、地頭を置くに及んで中央より遠い地に補任された者ほど、源氏に因縁浅からぬ八幡大神を任地官衛の傍に勧請して一社を営んだ。
 鎌倉幕府は延喜の制、下総小金5牧を踏襲し、新政のもと牧場野付の村に御家人、馬役人を配置執務せしめたが、これらの人々も朝夕兵馬の健全と武運長久を八幡大神に祈った。

〔 当神社について 〕

 鎌ケ谷でもこの例に洩れなかったのであろう、当八幡神社もこうした八幡信仰の広がりを背景にして此の地に勧請されたものである。当社の創建年代は諸説あるも不詳。当地区は奈良、平安の昔より近世に至るまで世々天領なりしため差配宰領する者の交代屡々にして文書記録が任者と共に四散し、事実伝承は世情人心の変遷によって風化し、今俄に断定することはできない。
 当社は古来兵馬守護の武神として信仰されたが、地元の人々の生活と結びついて勝運繁栄、子育て、安産の神として現在でも多くの人々の崇敬を受けている。
 大祭は、10月15日盛大に執行する。
 鎌ケ谷八幡神社


年中行事


よい機会なので、「八幡信仰」について以下にまとめておきます。

・発祥は宇佐八幡宮(大分県宇佐市)。 現在の正式名は宇佐神宮。

・八幡大神(応神天皇)・神功皇后(応神天皇の母)・比売大神(宗像三女神と同神)が主祭神。 なお、「誉田別尊」は 応神天皇の諱号

・奈良時代、奈良東大寺に鎮守神として勧請(手向山八幡宮)。

・平安時代、京都に勧請、石清水八幡宮を創建。 皇室の守護神となる。

・鎌倉時代、源頼朝が石清水八幡宮を鎌倉に勧請、鶴岡八幡宮を改めて創建。 八幡神が武神として広く信仰される契機となる。

・鎌倉時代から、諸国の御家人や武士たちを介して庶民にも浸透。 全国に八幡宮・八幡神社が創建される。

・神功・応神の母子を祀ることから安産・子育ての神としても信仰される。

(以上は、主に 新谷尚紀(監修)『神社に秘められた日本史の謎』(洋泉社) 2015 に拠りました。)


一の鳥居から見た参道


二の鳥居 奥には小さく三の鳥居が


左側に「百庚申」が見えてきます


拝殿前から鳥居の方に向かって振り返って見たところ


鎌ケ谷八幡神社 拝殿


渡辺崋山のスケッチを部分拡大したもの 今の神社の姿にそっくりです

絵の右には、「釜谷原放牧。 原、縦四十里、横二里或いは一里と云う。 即ち、小金に続くとぞ」と言葉が添えられています。
この記事の冒頭で見たように、神社の左側には馬の絵が描かれています。


正面から見た拝殿


➜  鎌ケ谷の神社(9) 鎌ケ谷八幡神社(その2)