この旧 本埜村は、大正2年(1913)に 西の本郷村(ほんごうむら)と 東の新田地帯である埜原村(やわらむら)が合併して成立したもので、実に約百年の長きにわたって存在した村です。
「本埜」という村名は、前身である2村から一文字ずつ取って付けられています。 もっとも、読み方は変えています。
本埜村に合併する前の 本郷村と埜原村は、明治22年(1889)の町村制施行により 江戸時代からの多くの村々が合併して成立したものです。
前回取り上げた南陽院の笠神は 本郷村に属し、今回取り上げる薬師堂の押付新田は 埜原村に属していました。
百年ほど前の大正2年(1913)に発行された『千葉県印旛郡誌』の「埜原村誌」には 〈薬師庵〉として、この薬師堂について 以下のように書かれています。
押付新田 字堤下にあり、天台宗にして 南陽院持ちなり。
薬師如来を本尊とする。 由緒不詳。
堂宇は 間口 2間、奥行き 3間半。 境内 20坪。
押付の薬師堂は、南陽院の北 300mにあります。
薬師堂の周りは、ぐるりと田圃です |
入口の右にある六地蔵 |
薬師堂の右手には 墓地が広がっています |
薬師堂の左手には 大師堂や供養塔が見えます |
六臂の如意輪観音像ほか |
印西大師 第八十三番札所の大師堂 |
「南無大師遍照金剛供養塔」 昭和4年(1929)建立 |
上の石碑の右側には、「先達」として以下の3寺が刻まれています。
・笠 神 南陽院
・砂 田 西福寺
・萩 原 龍泉院
南陽院の名があるのは、この観音堂が南陽院の管理下にあったので理解できます。
台座部分には「小廻組」とあります。
笠神、砂田、萩原の旧3村で、印西大師の小廻組を形成していたのではないかと思われます。
砂田は笠神の北隣ですので、大師組合を一緒に運営するというのも分かります。
笠神の南陽院から砂田の西福寺まで、北西に直線距離で1.1kmです。
しかし、笠神の南陽院から萩原の龍泉院まで、南に直線距離で2.3kmも離れています。
まして、旧 萩原村は、1889年に六合村に編入されたという地区です。
その後、六合村と宗像村は、1955年に合併して印旛村となりました。
印旛村が、2010年に印西市に編入されたことは ご存じのとおりです。
前回、南陽院の結願記念碑に見た3地区の結びつき同様、この薬師堂と萩原地区の関係が よく分かりません。
なお、萩原の龍泉院の寺は現存せず、萩原構造改善センター(集会所)があり、敷地内には印西大師第二番札所の大師堂や 八坂神社の鳥居が建っています。
この萩原構造改善センターは、慶昌寺の北東300mの位置にあります。
「構造改善センター」自体については、以下をご参照ください。
➜ 印西市構造改善センターの設置及び管理に関する条例
印西市の旧印旛村地域に設置されている集会所といったところでしょうか。
➜ 本埜の仏刹(8) 南陽院 (印西市・笠神)
➜ 本埜の仏刹(10) 安楽院 (印西市・荒野)