2016年1月16日土曜日

馬頭観音道標 (千葉市若葉区大草町おおくさちょう

千葉市若葉区にある 「大草谷津田いきものの里」 を訪ねた際に、その駐車場近くに馬頭観音塔が2つ並んでいることに気づきました。


左側にある小さい石塔も馬頭観音塔です


美しい馬頭観音像 安永4年(1775)造立


上半分だけになってしまった馬頭観音塔 下の方に馬の頭が見えます


上半分だけ残っている馬頭観音塔は 道標を兼ねています。

右には「南 大くさ(村)」、左には「東 金お(や村)」と刻されているようです。

Wikipedia の「千城村ちしろむらには、以下のように記述されています。

明治22年(1889) 町村制施行により、大宮村、小倉村、大草村金親かねおや、坂月村、川戸村、仁戸名村、星久喜村が合併し千葉郡千城村が発足。

昭和19年(1944) 千葉市に編入。同日千城村廃止。

(当時の地図を見ると、この頃に 大字「大草」は「大草町」に、大字「金親」は「金親町」と称されるようになったようです。 これは、市町村の「町」ではなく、「町」と付いた地名です。)

平成4年(1992) 千葉市の政令指定都市移行に伴い、旧村域のうち、川戸町、仁戸名町、星久喜町は中央区、他は若葉区の一部となる。

この馬頭観音道標に関して ネットによって得られる情報には不正確なものが多く、参考になりません。
こうした記事を書いた人たちは、石塔の ひらがなや漢字が 正しく読めていないのだと思います。

唯一、以下の資料が参考になります。
造立年の部分の解読に関しては疑問を感じますが、道標の部分の読み取りについては正確であるように思います (「暫定番号 千44」のページ 参照のこと )。

➜ 千葉市の道標(明治以前)1

この道標は、本来置かれていた向きとは違った向きに置かれているようです。
元々はどこに、どんな向きに置かれていたのでしょう?



追 記 2016.01.18

上半分だけになってしまった馬頭観音塔がいつ造立ぞうりゅうされたかを考えるのも面白いことです。

この馬頭観音塔は下半分が失われているだけではなく、造立年月の部分も欠けてしまっています。
残っている部分は、「☐(永?) 七 寅年 / ☐(月) 吉日」と読めます。

年号の後ろには、60年周期の干支えと十干十二支じっかんじゅうにしが付されるのが通例で、先の馬頭観音像でも「安永四 乙未」というように刻まれています。
年号と干支の組み合わせで、年号の誤りに気づく場合もあります。

ところが、この半分の馬頭観音塔の場合は、「寅年」と十二支だけが刻されており、十干がありません。
江戸時代で「七 寅年」に相当するのは、➀ 宝永7年(1710) 庚寅、 ➁ 享保7年(1722 ) 壬寅、 ➂ 明和7年(1770) 庚寅 の3つの年です。

「七」の上に少し残っている文字は「永」のように読めます。
したがって、この馬頭観音塔は 宝永7年(1710)の造立ではないかと考えられます。