比較的詳しく述べられている「ツンベルク略伝」が、ウプサラ大学のサイトに載っていました。
以下は そのリンク先 (いまでは、このリンクは切れています)。
信頼できそうな略伝だと思われますので、以下に拙訳を掲載します。
訳出に当たっては、段落ごとに 番号と小見出し をつけました。
また、読みやすいようにと、改行を多く入れました。
挿し絵は訳出時に追加したもので、原文にはありません。
なお、この拙訳においては、「ツンベルク」を元のスウェーデン語の発音に近い「トゥーンベリ」と表記しました。
カール・ペーテル・トゥーンベリ (1743-1828)
日本の植物学研究の礎をつくった人
1 はじめに
この本は地質科学のパイオニアたちについて述べているものであるが、カール・ペーテル・トゥーンベリ(Carl Peter Thunberg)についてもふれることが必要だと考えた。
それは、今日の古植物学(Palaeobotany)の多くが トゥーンベリの初期の研究成果に基づいているという主たる理由からだけではなく、日本に関する科学的調査研究において、早い時期に彼が重要な役割を果たしたという事実があるためである。
トゥーンベリは日本植物学の基礎を築いた人として広くみなされている。また、彼は南アフリカ、インドネシアおよびスリランカの植物学研究の創始者としても知られる。
リンネの教え子すべてのうちで、トゥーンベリは疑いなくもっとも傑出した人物である。
リンネ(Carl von Linné)は、その研究材料である標本は、同僚や教え子によって外地から彼のもとへと送られてくるものに そのほとんどを依存していた。
トゥーンベリは、いわゆる「リンネの使徒たち」の中ではもっとも広い範囲を旅行している。トゥーンベリだけでなく、「使徒たち」はさまざまな遠隔の地を訪れている。スパルマン(Sparrman)やソランデル(Solander)らはシエラレオネを2度訪ねてもいる。
カール・フォン・リンネの肖像 |
私たちは、トゥーンベリが過ごした日々について大変多くのことを知っている。というのは、彼は4巻からなる旅行記を刊行しており、いくつかの言語にも訳されているからだ。
トゥーンベリはウプサラ大学に膨大なコレクションを寄贈したが、それらは今日、自然誌資料の重要な部分を形づくっている。例えば、彼の『日本植物誌』(Flora Japonica)の資料は、すべてがそのまま残されているのである。
スウェーデンに帰国した後、トゥーンベリはウプサラをほとんど離れることがなく、せいぜい 70km離れたストックホルムへと旅するぐらいであった。
彼はすべての蔵書をウプサラ大学に遺贈した。換言すれば、研究資料として手渡されたのである。それらの中には、36冊の分厚く製本された書簡が含まれており、1400名にのぼる人々との書簡の多くは自然誌研究上の重要な資料となっている。これはリンネのコレクションや蔵書に起きたことときわめて対照的である。(大リンネの膨大なコレクションは、息子である小リンネの死後、小リンネの母親によってイギリスの植物学者であるジェームズ・エドワード・スミスに売却された。)
トゥーンベリは、死の直前まで自伝に取り組んでいた。その資料は1冊に製本され、ウプサラ大学図書館に残されている。
2 生い立ち
カール・ペーテル・トゥーンベリは、スウェーデン南部のスモーランド(Småland)地方にあるヨンショピング(Jönköping)で、1743年11月11日に生まれた。ちなみに、リンネもまた、この地方の出身である。スウェーデンのこの地域の住民は倹約家として有名である。
彼の父親は ヨワン・トゥーンベリ(Johan Thunberg)であり、鉄鋳物工場に雇用される簿記係だった。その仕事の中身は、近くの精錬所で使用される石灰石の計量を監視することだった。彼はまた小さな店を持っていた。
彼の母親は マルガレータ・スタルクマン(Margaretha Starkman)だった。
ヨワン・トゥーンベリは、無一文の妻と面倒見が必要な二人の小さな息子たちを残して、1751年に若くして死んだ。
博士論文における継父と母親への献辞 |
母親は毅然とした女性だった。彼女は、ガーブリエル・フォッシュベリ(Gabriel Forsberg)という中流階級の小店主と再婚するという幸運をつかむまで、店を営むことによって小さな息子たちを養った。
トゥーンベリの母親は、学校教育の必要性を十分に認識していた。彼女は息子たちの教育が終わるまで面倒をみて、彼らに望ましい教育を授けることができた。
3 ウプサラ大学に学ぶ
トゥーンベリはすぐに並々ならぬ能力を持っていると教師らに認められ、学校全体において特別な指導と短期間での速成学習の対象に選ばれた。
現在のウプサラ大学 |
ウプサラ大学に送られることが承認され、彼は晴れて入学した。
はじめの9年間は大学の課程を履修することに費やされた。その当時の決まりによれば、神学、法律、さらに哲学を勉強することをまず要求された。この予備過程は小論文の提出により1767年に終了した。
トゥーンベリはラテン語に熟達するために費やす時間に不満だったが、ラテン語に堪能であるということが、分類結果を記述するためにも、他国の仲間と交流したりヨーロッパの大学で講義したりするうえでも大いに役立ったに違いない。
師のリンネはラテン語については月並みであった(リンネの奇妙なラテン語の翻訳がストックホルム大学で研究主題に取り上げられている)。ベルセリウス(スウェーデンの高名な化学者)も同様だったが、トゥーンベリとスパルマンは堪能であった。
次の段階は医学を学ぶことだった。2年間の医学研究の後、トゥーンベリは最初の試験に合格し、次いで必修とされた2つの研究考査を受けた。
1770年には医師免許を取得し、次いで同年、座骨神経痛に関する論文を提出し医学博士号を得た。ただし、1772年まで公式には授与されなかった。
リンネはこの若者の能力をすぐに認め、彼をずいぶんと援助した。
当時、国外に出て見聞を広めることが一般的な慣習であった。そしてトゥーンベリにとっても広く世界を知る時が来た。
オランダとフランスを訪れるために、リンネのお陰で、1770年に彼は小さな補助金を与えられた(トゥーンベリは、これがすべての利用できる大学奨学金の中でもっとも少額だったと記録している)。
その合計金額こそ小さかったかもしれないが、それはトゥーンベリがまる一年暮らしていくのに十分だった。倹約を旨とするスモーランド地方の出身だったからこそ、雀の涙ほどの生活費でやっていくことができたのだ。しかも、その奨学金は他の一人と共有しなければならないという現実までもがあった。
そして、彼は故国を旅立った。その後の9年間、けっして故国の土を踏むことはないということをほとんど自覚せずに。
(2014.01.05 訳出)
4 オランダでビュルマンに会う
ヨハネス・ビュルマンの肖像 |
リンネからの助言に基づいて、アムステルダムに滞在している間に、彼は非常に有能な植物学者であるビュルマン父子を訪ねた。これはトゥーンベリにとって もっとも幸運な転機となった。
その時代には、オランダは科学研究の中心地だった。当時、リンネですらオランダで博士号をとらねばならなかった。スウェーデンではこの学位を得ることができなかったからである。
息子の方のニコラアス・ビュルマン(Nicolaas Burmann)が、リンネのもとで学んでいた間の1760年にウプサラで求めた収集物をみて、トゥーンベリがただ一冊の本に頼ることもなく、その種をすべて同定したとき、ビュルマン父子はいたく感動した。
父親のヨハネス・ビュルマン(Johannes Burman)はかなりの影響力を持った人物だった。彼は、トゥーンベリの能力は オランダが行っている事業において有効に生かしうるとみた。リンネは意見を聞かれ、その教え子を巨大な富と力をもつ商業組織であるオランダ東インド会社で雇うよう推薦した。
5 パリにて
トゥーンベリは、ほぼ一年をパリで学んだ。この間、ビュルマンはトゥーンベリの雇用について準備していた。
オランダ人は、こと金銭に関しては、博愛精神に富み理想主義的であったわけではない。まずはじめになすべきことは、トゥーンベリがオランダ東インド会社にとって よき投資の対象となりうるかどうかの決断であった。
彼の持ち前のつましさはオランダ人の心に響いた。そして、会社の「金儲け」の役に立つと最終的にみなされた。
トゥーンベリは日記をつけており、それらは後にすべて公表された。毎日の活動、考えそして観察が、几帳面な筆跡で注意深く書かれており、250年後の今日においても労せずに読める。
これらの公表された日記には、率直でとても面白い箇所がある。
例えば、オランダの海運活動に関するコメント。彼の観察はこうだ。
「水はオランダ人が船による交易を発展させるに至った一大要素である。」
また、有名なお話はパリにおける観察である。
「とても当惑させられるのは、スウェーデンやその他の国においては上流階級であんなにも尊重されているフランス語が、フランス全土の社会においては身分の上下なく話されていることだ。」
(2014.01.06 訳出)
6 旅立ちの準備
トゥーンベリはアムステルダムへ戻ったとき、オランダ東インド会社から日本での勤務に関する雇用の申し出があったことを知った。
オランダ人はその収益の多くを園芸から得ていた(今でもそうである)。
トゥーンベリには商品価値のある植物を送ってよこすことが期待された。
旅に出るためのスポンサーを見つけることに困難はなかった。そのうちの三人は新しい属にその名がつけられるという名誉を得ることになる。
その属とは、ヤブミョウガ属(Pollia)、ケンポナシ属(Hovenia)、そしてウツギ属(Deutzia)である。これらの植物は庭でよく見られる園芸種になった。特に、ウツギ属はヨーロッパの至るところで見られる。
しかしながら、渡らなければならない いくつかの橋がまだ残っていた。
日本人は、ゆえあって、すべての外国人に対して疑い深い態度を取っていた。
幕府の取り決めにより、中国とオランダの貿易業者だけが厳正な管理のもとでこの国に入ることが許されていた。
トゥーンベリはもちろんオランダ人ではなかった。したがって、彼は幕府を偽るためにカモフラージュしなければならなかった。
先に、オランダが科学的な学問の中心地であったことを述べた。もし日本人に外国語が学ばれるとしたら、オランダ語がもっともそれにふさわしかった。
したがって、不愉快な出来事や仕事上の危険を避けるために、トゥーンベリにはオランダ語に精通し、目的を達成することが求められた。
彼はオランダの植民地のどこかで一定の期間を過ごさなければならなかった。言葉による伝達は会社の仕事をこなすうえで欠かせないものである。そして、南アフリカが最も適切な場所として選ばれた。
(2014.01.07 訳出)
7 出 帆
1772年の初めに、トゥーンベリは東インド行きの大型帆船スホーンジヒト号(Schoonzicht)の外科医として喜望峰に向けて出帆した。
復元された東インド会社のヨーテボリ号 |
船長がスウェーデン人だったことは注目に値する。彼はオランダの事業に携わる多くのスウェーデン人の一人だった。
その時代には、水夫と兵士は非常にあやしげな方法によって集められるのが常だった。よくとられた方法のひとつは、会社の求人係が男たちに酒を飲ませたうえで、船へと引っ張り上げることだった。
一度海に出てしまえば、なす術もなく、置かれた状況を最大限利用するしかなかった。
船に連れ込まれ水夫にされた乗組員の多くは健康ではなかった。トゥーンベリは自らの仕事を切りつめて乗組員の生存に尽くした。それにもかかわらず、スホーンジヒト号の乗組員のうち、115人が航海の間に死んだ。
そのうえ、白鉛を小麦粉と間違えたコック側の不注意のために、鉛中毒で高級船員と雑用係が死にかけた。トゥーンベリは有毒物質を識別し、仲間の命を救うことができた。このことはトゥーンベリの最初に出版された著作に書かれている。
8 南アフリカ到着 ― スパルマン
本稿の主題はいったいどうなってしまったのかと思われてしまいそうである。ここで本題に戻そう。
Anders Sparrman |
ついに、3カ月の航海の後、テーブル・マウンテンが波のまにまに見えてきた。偶然の一致により、ほぼ同時期にリンネのもう一人の教え子であるアンデシュ・スパルマン(Anders Sparrman)がスウェーデンの東インド行きの船によりケープタウンに着いた。
スパルマンはトゥーンベリとは正反対だった。スパルマンは屈託がなく、気まぐれで、太っ腹であり、ちょっとした浪費家だった。
スパルマンは学友に会えてとても喜んだが、トゥーンベリの方はあまり気乗りがしなかった。彼はスパルマンと、南アフリカの自然誌研究において競争関係になるという事態を望まなかった。
彼らはいくつかの小さな研究を共にした。しかし、トゥーンベリは才能のあるこの同僚からさっさと逃れたかった。
スパルマンは、天賦の才能をもつ地理学者であるだけではなく、腕の立つ製図屋であり、科学論文においても偉大なる名文家だった。トゥーンベリはスパルマンと同じ程度に達していなかった。
スパルマンの功績のひとつは、彼が作成した南アフリカ海岸線の優れた地図によって、アフリカの最南端が喜望峰ではなく(長くそう考えられてきた)、アガラス岬に位置すると最終的に判明したことだ。
(2014.01.08 訳出)
ツンベルク『旅行記』第1巻(英語版)の挿絵から |
9 オランダ語の習得
トゥーンベリの南アフリカでの旅行は3年間にわたった。その間に、彼がその広大なエリアについての研究の先鞭をつけ、南アフリカの植物学の基礎と動物学の本質的な部分を確立したのは明らかである。
彼は、いまやオランダ語が流暢に話せた。スウェーデン人にとっては、オランダ語はとても簡単に習得できるので、多くの場合は4~5カ月もすれば上手に操ることができる。オランダの新聞は、特別にオランダ語の勉強をせずとも 読んで理解することができるのである。
ただし、トゥーンベリが南アフリカ滞在中に習得したオランダ語がどうであったかについては考えなければならない。
というのは、南アフリカにおいてはオランダ語の派生語であるアフリカーンス語がすでにしっかりと確立しており、話し言葉として優勢になっていたからだ。
アフリカーンス語は、元のオランダ語とは違っており、動詞の活用や時制が単純化されている。また、この時代の後になると、南アフリカの英語に大きく影響を及ぼした。
(2014.01.09 訳出)
10 過酷な遠征
トゥーンベリは、植民地の後背地(hinterland)において全部で3つの主な遠征を行ったが、それは総延長約5000kmに達した。
彼は、自分が確認できた限りでは、こんなにも厳しい条件の下で、しかもわずかな資金でもって長旅を請け負った科学者はいないと、日記の中で述べている。
輸送は雄牛によって引かれる幌馬車によって確保された。
彼はわずかな装備しかもっていなかった。それは、昆虫を標本にするための箱と針、植物の種を入れる小さな袋、そしてホッテントット族に与えるためのタバコだった。
間に合わせのワゴンはすぐにバラバラに壊れてしまい、トゥーンベリは情けない状態になってしまった。
幸運にも、地方長官がわれわれの博物学者を哀れに思い、新しいワゴンとそれを牽く10頭の立派な雄牛を与えてくれた。
トゥーンベリが日々遭遇したような過酷な条件下で長く持ちこたえられる博物学研究者は、いまやほとんどいないだろう。
彼は小柄で痩せてはいたが、とても頑健だった。
彼は大学時代にフェンシングの授業に参加しておいてよかったと思った。今日においても、ウプサラ大学は、フェンシング、絵画、音楽、体育および馬術の学科が履修できるという中世の慣習を残している。
南アフリカ原産の ヤハズカズラ(矢筈葛、学名 Thunbergia alata ) |
11 金銭的な苦労
ケープタウンに戻るやいなや、トゥーンベリは採集した植物をできるだけ早くオランダへと送り出さねばならず、その作業のために忙殺された。
トゥーンベリは、雇い主が彼らのために集めた上等でしかも金儲けになる品々を見たならば、借りができた分、少しは早く支払うだろうと判断した。
彼は、フィールドワークのために借金をしなければならず、それゆえ貸し方も関心をもっていた。
よい収集物はまたスウェーデンのリンネらのもとにも届けられた。
食っていくために、彼はケープタウンで医者として開業しなければならなかった。
2度目の遠征では、同じようにケープタウンの人々から借金することによって資金を得た。
一年が過ぎたが、雇い主たちは、その職務に忠実で信頼に値する使用人への支払いに関して一切何もしようとしなかった。
今回は、ロンドンのキュー王立植物園(Kew Gardens)から派遣されたイギリス人のコレクター、フランシス・マッソン(Francis Masson)と一緒だった。
彼は科学者というより植物ハンターの趣が強く、トゥーンベリにとっては競争者とみなされなかった。
われわれの科学者は、いつものように植物、動物、人々など、見たものすべてを日記に記録した。
彼は、体重が165kgあるオランダ人の農婦に若干の関心を捧げた。
この遠征の旅から戻ると、彼はその素晴らしい仕事ぶりを称えた会社からの手紙と、さらに給料を見つけて喜んだ。
彼はようやくすべての負債を支払うことができた。
(2014.01.10 訳出)
トゥーンベリがいちばん長く滞在したのは南アフリカであったことは疑いない。
日本の植物学にとって幸運なことに、彼はマダガスカルでの植物収集の申し出を辞退した。
フランツ・オルデンボリ(Franz Oldenburg)というオランダの事業で働くスウェーデンの兵士は、自宅に戻ったが、その間に残念なことに熱帯病で死んでしまった。
オルデンボリは優れたアマチュアの植物学者で、ロンドンにいるジョゼフ・バンクス(Joseph Banks)(高名なイギリスの博物学者)に喜望峰のエリアから千を超える植物を提供するという任務を負っていた。
12 日本へ
1775年の3月に、会社はトゥーンベリが日本へと赴く時期が来たと判断した。
その旅程は、オランダの植民地であるジャワを経由するもので、そこでは1カ月を過ごした。
トゥーンベリは本来内気な性格であったが、型にはまらないエネルギーでバタヴィア(現在のジャカルタ)のヨーロッパ人社会の生活の中へと入っていったように思われる。
大事なことは、来るべき日本への滞在に備えて高級な上着を仕立てることだった。
さらに、彼は、イッカクの牙が日本において強精剤として広く知られており、高値で売れるということを乗組員仲間から聞き知って、それを買い占めた。
13 長崎到着
長崎町絵図 |
1775年8月13日に、3層甲板の帆船スターヴェニッセ号(Stavenisse)は、バタヴィアからマカオ経由で嵐の7週間を航海した後、長崎港の入口で錨を下ろした。
姉妹船は、嵐によってひどくダメージを受けたため、緊急修理の必要からマカオに残った。
祈祷書や聖書のような宗教に関するものは集められ、箱に密閉されて幕府の役人に引き渡された。そして、船が長崎を離れるまで戻されることはなかった。
この一見過剰とも思われる振る舞いには正当な理由があった。
先の貿易相手であったスペイン人とポルトガル人は、日本の幕府との間に結ばれた合意を順守せず、さまざまな不正な方法によってキリスト教を広め、伝統的な日本の宗教信条と習慣を中傷して、政情安定の土台を壊そうとしたのである。
宣教師はヨーロッパ人との接触が始まった頃には大目に見られていた。しかし、実際の動機に対する日本人の疑いが大きくなるとともに、活動はどんどんと抑えつけられた。
とうとう、ローマカトリック教会のヨーロッパ人はもはや許容できないとみなされた。そして、残り少なくなったポルトガル人も1638年に追い出された。
イギリスやオランダのようなカトリックではない国が残ったが、その双方とも宗教的な熱情よりもビジネスに重きを置いていた。
不思議なことに、多くのオランダ人がローマカトリック教徒であるということはほとんど知られていなかった。
交易に関するイギリス人の試みは失敗に終わったので、オランダ人は勝利者となった。
(2014.01.11 訳出)
14 出 島
長崎港・出島の地図 (1828) |
貿易業者は、出島とよばれる小さくて厳重に守られた人工の島に住居を与えられていた。
彼らは、そこで家族と一緒に生活するということは許されていなかった。
乗組員の活動は、長崎奉行所の地役人によって厳密に取り締まられており、だれ一人 実入りのよい密輸を行うために長崎に忍び入ることはできな
かった。
密輸は幕府の重大な関心事であり、厳しく罰せられた。オランダ人以外で唯一交易が許された中国人は 密輸がみつかると処刑されたが、オランダ人は規則を破ったことにより重い罰金を課されたものの、それほど荒々しく扱われなかった。
トゥーンベリは、すぐに通詞との友好関係を築き、いつでも医学的な助言や治療行為の援助ができるよう支度していた。
彼が成功したひとつの理由は、梅毒治療のための水銀剤を紹介したことによる。
日本人は、トゥーンベリをオランダの貿易業者ほどには取り締まりの対象にしなかった。
彼が知識人であり、密輸あるいは他の不法な取り引きには興味を持っていないことがすぐに理解された。その一方で、トゥーンベリは、公的には許されていなかった日本語の学習に深く手を染めている。
トゥーンベリは、出島に出入りするものたちに多くの新しい科学知識を与えることができる立場にあったので、幕府側は彼の学術的な関心については見て見ぬふりをした。
(2014.01.13 訳出)
15 オランダ人について
彼は、南アフリカや日本で日々仕事を共にした人々の低い道徳的水準について、幾度も旅行記の中で道徳的に説いている。
貿易業者らは知的な関心というものを持っておらず、余暇を過ごす唯一の方法は、賭博や飲酒や遊女と過ごすことであった。遊女は長崎で公認された遊郭で金で買えた。
トゥーンベリは、これらの娯楽のどれにも耽ることを拒絶した。
こうした清教徒的な貞操観念を示す一方で、女性との道ならぬ関係における蠱惑については日本だけでなく南アフリカやジャワにおいて書かれた日記にも登場する。
彼は、自分が、オランダ人たちが楽しんだそのような動物的な快楽を越えた存在であるということを誇りをもって主張するが、多くの聖職者のようにその主題からは自由になっていない。
(2014.01.14 訳出)
16 密 輸
トゥーンベリは、オランダ人が密輸品を長崎奉行所の役人の目をすり抜けさせようとする企てにうんざりしていた。
長崎で自由に移動することを許されているただ一人の人間は商館長のフェイトであったが、彼でさえ密輸をほしいままにした。外見は非常に太った人間が実はゆったりとしたガウンの下に品物を隠しており、それを長崎奉行所の役人が見破るということがあった。服を脱がせられた男が、実は非常にやせているということが露見し、彼は数週間、居住区域から移動できないという罰を与えられた。
トゥーンベリが日本に着くまでには、キリスト教に対する幕府の姿勢は最悪の事態へ向かったようにみえる。彼は、日本での新年祝賀の際に見た踏み絵について記述している。
トゥーンベリの日々は、通詞の助けを借りて植物収集をしたり、医療の相談に当たったりするなかで過ぎていった。
(2014.01.26 訳出)
17 江戸への道中
出島での6カ月が経ち、年1回、将軍に会うために江戸へ参府する時がきた。象徴的な権力は京都にいる天皇にあったが、世俗的な権力は江戸にいる将軍にあった。
一行は総勢200人だったが、そのうちの3人だけがヨーロッパ人だった。すなわち、オランダ大使役の商館長と、その補佐役、そしてび医学顧問だったトゥーンベリである。
一行の主なメンバーは、使用人、運搬人、日本人の役人と通詞だった。すべては将軍職用の贈り物のために準備されたものであり、すべてがオランダ人貿易業者の費用負担であった。確かに、貿易による営利事業はそのような出費を可能とするぐらい儲かるものであった。
トゥーンベリがその大部分の植物を集めることができたのは、江戸を往復する数カ月の間の長旅の中でのことであった。
はじめのうち、トゥーンベリが植物採集をするたびに一行を離れることに、日本人たちは悩まされた。しかし、彼が危険なことをしようとしているわけではなく、無理がない範囲内で資料を集めているということがすぐに理解された。
トゥーンベリがその大部分の植物を集めることができたのは、江戸を往復する数カ月の間の長旅の中でのことであった。
はじめのうち、トゥーンベリが植物採集をするたびに一行を離れることに、日本人たちは悩まされた。しかし、彼が危険なことをしようとしているわけではなく、無理がない範囲内で資料を集めているということがすぐに理解された。
彼は、一行が江戸へと向かう途上で受けた丁寧な待遇に驚いた。というのは、日本人がヨーロッパ人に対して低く評価しているということを彼はすでに知っていたからである。
彼の前任者、ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)が、日本人は一様に外国人に対して低くみていると、その著書『日本誌』に書いているのである。
したがって、路傍の子どもがあげる大声は歓迎の表現だと思い、快く驚いたものの、通詞によって子どもたちが悪口を叫んでいると伝えられたとき、彼はがっかりした。
道標は、ヨーロッパにあるどれよりもはるかに優れた驚異的なものとして彼の心を打った。
さらに、通行人は、ヨーロッパにおいては羊の群が動くようであったが、日本では片側通行を整然と守って歩いていた。
道に沿って植えられた生け垣は、見る者を楽しませ、旅の単調さをやわらげてくれた。
しかしながら、彼は、雑草をすべて丁寧に取り除いてしまう日本の農民のやり方にはやや不満だった。これは、植物のコレクションということを考えると、重要な部分の収集ができくなるということを意味した。
彼は、毎日入浴するという日本人の変わった習慣を記録している。ヨーロッパ人にとっては、これはまさに異国的な習慣であり、トゥーンベリの好みに合うことではなかった。彼はその必要性を感じず、他の西洋人のように毎日の入浴は健康を損なう恐れがあると思った。
箱根越えはトゥーンベリにとっては天の恵みだった。箱根という場所は、荷物を運ぶ一行にとってはやっかいな地形だったが、彼にとっては植物をできるだけ多く収集する機会を得るうえで大きな利益をもたらした。ヨーロッパ人が地元の住民と接触しないよう見張っている役人にとっては、トゥーンベリの科学者らしい勤勉さはとても面倒なものに映った。
(2014.01.27 訳出)
18 江戸滞在
トゥーンベリの江戸滞在は好結果をもたらした。特に何人かのオランダ語を上手に話す蘭方医との交流は意義深かった。トゥーンベリは、長年、彼らと手紙のやりとりを続けた。
また、通詞の何人かには種子を送ってもらい ウプサラ大学の植物標本を充実させた。その代わりに、彼らには科学文献を送った。
そしてようやく、江戸到着から3週間後の5月18日、ヨーロッパ人たちに将軍との謁見が認められた。トゥーンベリは装飾がついた公式の服装をきちんと身につけた。
トゥーンベリは、接待されたときのさまざまなことを記録している。そのいくつかはあまり愉快ではないことであった。というのは、外国人は ひどく醜いけれど、とても面白く、民族学的な関心をよびおこすものと見なされていたからである。
江戸城内の女性は、御簾の後ろから様子をうかがうことが許されていたが、その多くの者が眼前にしたものに対してわざとらしい嫌悪の声を上げた。
19 出島に戻る
将軍から賜った たくさんの着物を含む贈り物を積んで、一行はゆっくりとしたペースで出島への帰路についた。
往路と比べてそれほど厳しく警護されなかったので、ヨーロッパ人たちは京都と大阪では観光のための十分な時間があり、土産も買うことができた。
出島に戻ると、トゥーンベリは収集物を帰りの荷にまとめるためにとても忙しくなった。そのうえ、長崎奉行は彼に長崎近郊の植物資料を集める許可を与えた。そして、その許可はあまりにもしばしば与えられた。
毎回、植物採集時には多数の役人を同伴させた。トゥーンベリはその日の終わりに摂る贅沢な夕食代を含めて、かかる経費を個人的に出費しなければならなかった。
会社からは日本における仕事の継続について寛大な申し出を受けたが、丁寧にしかし断固として断わった。
1776年12月3日、彼はスタフェニッセ号に乗り、永遠に日本から去った。
トゥーンベリは日本に対してまさに積極的な姿勢で臨み、日本は多くの点で西洋の世界より優れていると思った。
このことは、一部の現代の科学史家からは、そうやすやすとは受け入れられていない。彼らは、日本の社会の封建的な性質と地方の住民の低い地位、そしてトゥーンベリが「本当の日本」から切り離されたところで生活をしたという事実を指摘するのに性急である。
これらの評価は時代錯誤であるように思える。
トゥーンベリは、当時のヨーロッパの社会状況のもとで経験したもの、酷く搾取された大多数の「下層階級」の赤貧とだけ比べることができたのである。
スウェーデンにおける支配についても例外でない。周知のように、フランスの状況は革命につながったし、ロシアの農民の窮境についてはいうまでもない。
20 帰 路
トゥーンベリはスウェーデンに戻るためにとても急いでいたといったが、それを重大に考えていたようには思われない。
彼は1777年のはじめにバタヴィアに着き、直ちに周囲を調査し始めた。彼はこのことに6カ月を費やした。
オランダ東インド会社は、彼が仕事を継続するよう望んでいたに違いない。バタヴィアにいる間に、彼は美しいとても裕福な少女との結婚を勧められた。トゥーンベリは、その少女に帰属するものすべて、すなわち宝石、家具、個人的な財産をリストに上げている。彼は自国への愛を理由にして、その結婚を断った。しかし、後になって仕事をしていく上で資金が不足したときに彼は後悔をした。
その後、彼は船に乗ってセイロンへと向かった。そこでは植物収集をしながらさらに6カ月間滞在した。
いまや本当に大急ぎで故郷に戻ろうと、彼はケープタウンへの航路についた。
彼は南アフリカでの収集を豊かにしておく必要に駆られ、2年前に収集した資料を荷作りした。
ここで、彼はウプサラ大学の植物学講師に任命されたことを知った。
それからアムステルダムに戻り、ロンドンで2カ月を博物館で標本を調べることに費やした後、1779年になってウプサラに到着した。
彼は、いとおしい母国への愛から、オランダの名門ライデン大学の教授職を断ってしまった。また、1802年にはロシアから高い地位で招聘されたが、またも母国を離れようとはしなかった。
(2014.01.28 訳出)
21 帰国して
スウェーデンに戻って、トゥーンベリがまず最初に向かった仕事は、国外で行った活動の報告書を書くことだった。
この種の著作は、義務的な必要があったわけではないが、後援を得るためには地元の世評に対して印象づけておく必要があった。
グスタフ3世の肖像 |
スウェーデン国王グスタフ3世(プロイセンの啓蒙専制君主として有名なフリードリヒ2世の甥である)は、全知全能であり、世界で最良の国の長とみなされていた。
トゥーンベリは、散文体で国王を誉め称え、グスタフ3世をスウェーデンに生ましめた神を称賛している。また、グスタフ3世は、キリスト教徒にふさわしく、寛大で、賢明で、啓蒙的で、才気溢れた君主であり、彼と比較できる者は、現世においても歴史的な記録においても見いだしえないと褒めそやしている。
そして、将来において彼に続く者があることを願っている。
海外から戻ってきたリンネの教え子のうちでは、ポスト獲得と補助金に絡んで多くの競争があった。
トゥーンベリは、リンネが決めたことのいくつかについて疑問を感じたため、晩年のリンネと不用意に衝突してしまった。
(2014.02.03 訳出)
22 リンネについてのエピソード
リンネは、健康が損なわれるとともに、偏執的となり、ますます厄介になっていった。
彼が、ナイト爵位を授与された際に行ったことは、そうしたことの一例である。
科学に対する貢献が評価され、リンネは1757年にナイト爵位に叙せられている。
リンネが、ナイト爵位を手にした後、自分の地位をより確実にするために次になすべきことは、著名な組織であるリッダルフセット(いわゆるナイト協会)の歴史記録に自分の名前を載せてもらうことであり、さらには自らの紋章をこの協会の大広間に常設陳列品として展示してもらうことだった。
議会もこの紋章の展示を承認することになるのだが、その承認に至る過程の大半の仕事は、公式の系図学者が請け負っていた。リンネはその紋章の中央に花を据えたいと思っていた。
しかしリンネの思いはかなわず、採用されないことからくる不平不満は頂点に達したうえ、次々に違ったデザインを提示し、すべて採用されずに終わってしまった。
系図学者も、不快な思いのまま採用されることを諦め、今後の成り行きを見守ることにした。
リンネの紋章 |
それから19年、リンネは自分はもうすっかり年老いてしまったし、自らの案が死ぬまでには決して採用されないだろうと危ぶむ気持ちになっていった。
最後にはとうとう諦めて、ナイト協会側に選択をすべて委ねてしまった。ところが実際にふたを開けてみると紋章は彼が当初立案したとおりのものとなっていた。
(「22 リンネについてのエピソード」は 友人S・M氏の訳稿による 2014.02.11)
23 小リンネ
ウプサラ大学で講師の職に就くに当たって、トゥーンベリの悩みの種となったのは リンネの息子の存在であった。
小リンネはそれこそ文字通り父親の地位を受け継いでいたものの、科学者としての資質に欠ける人物であった。
小リンネは、著名な父親の名前という後光に包まれていることに漫然としており、年下のトゥーンベリによる科学研究の評判が急速に高まっていくのを きわめて不快に思っていた。
小リンネは、その補佐役であるトゥーンベリに対して けちくさい いやがらせを執拗に続けたのである。
1781年の3月、学部長の小リンネがイギリス旅行へと出発して、トゥーンベリは ようやく一息つくことができた。
大学執行部は、学部長による不平の申し立てを無視すると決定しただけではなく、トゥーンベリ個人を植物学担当の地位に任命するに至った。
彼には教授の給料の半分(ルンド大学のスウェン・ニルソンの給料と比較して)を与えるという処遇までがなされた。
彼は研究植物園の機能を元に戻す仕事を開始したものの、小リンネの介入には非常に苦しんだ。
日常業務の幸福な状態は、1783年に学部長が戻ってくると、あっという間に消え去った。小リンネの帰国前には、その異様な行動がロンドンから報告されている。
帰国して数カ月後、小リンネは病気になり、回復することなく死んだ。
トゥーンベリは、その死を悼む気持ちにはなれなかった。
(2014.02.12 訳出)
24 教授になって
いまや教授の椅子は空席だった。
トゥーンベリには、教授職を願い出る気持ちがなかった。学長が彼に懇願して、ようやくそれが実現した。ウプサラ大学に特有ないくつかの伝統的な〈調整〉のあと、トゥーンベリは1784年、教授に任命された。トゥーンベリは亡くなるまで44年間、このポストにあった。
驚くべきことには、教授就任後の数カ月後には、彼は学長に選出されることになる。トゥーンベリは生涯のうちで4回学長に選出された。
小リンネは特異だったかもしれない。しかし、トゥーンベリを新たに苦しめる者が現れた。
ゲオルク(ヨーラン)・ヴァーレンベリ(Georg (Göran) Wahlenberg)は才能はあるものの、非常に風変わりな博物学者だった。彼は有能な植物学者であるだけではなく、熟練した古生物学者でもあった。
Georg (Göran) Wahlenberg の肖像 (Wikipedia Svenska) |
ヴァーレンベリは植物学科の講師に任命されたのだが、トゥーンベリは彼に昆虫と哺乳類のコレクションを管理する仕事を割り当てた。
それは、奇人ヴァーレンベリにとっては嫌な仕事であった。その背景には、彼がトゥーンベリのコレクションを系統的に破壊したという過去の出来事があった。
多くの不快なことがあった。実権派は心なき破壊者の側につく傾向があり、トゥーンベリは気難しく衒学的であると忠告された。
ヴァーレンベリは、トゥーンベリの死後、1829年に その後任の教授として就任し、コレクション管理の仕事から解放された。そして、1851年に70歳で亡くなるまでその地位にあった。
トゥーンベリは、その国際的な名声が衰え始めているという事実とともに、政府によって与えられた処遇についてつらい思いをさせられた。
彼の報復は、学長だった1785年当時にウプサラ大学に寄贈した「84台の戸棚にある」彼の昆虫コレクション全体を販売するという形をとることだった、
彼は、実際に不正確なフランス語で広告を作成するということまでした。しかし、その販売は行われることがなかった。
(2014.02.13 訳出)
25 トゥーンベリの妻と子供たち
トゥーンベリは、1784年、41歳になってようやく結婚をした。
ウプサラ大学の学生だったときに、彼はパートタイムで大学職員の家族の家庭教師として雇われていた。
おそらく、このことが、ビルギッタ・フワルロッタ・ルーダ(Birgitta Charlotta Ruda)に求婚するに至った一番の決め手になったのだろう。
夫婦の間に子供はなかったので、二人の養子を迎えた。男の子と女の子である。この男の子の子孫は、今日有名なテレビ俳優である。
後には三人目の子供として、異父兄弟(彼の母親が再婚して生んだ息子)を養子とした。
トゥーンベリは、この三人目の子供、カール・ペーテル・フォッシュベリ(Carl Peter Forsberg)に ことのほか愛情を注ぎ、学問で身を立てることができるよう、彼にできることはすべて行った。
トゥーンベリが、友人であるグスタフ・ヨワン・ビルベリ(Gustaf Johan Billberg)の援助を借りてスウェーデン王立科学アカデミーに息子が選ばれるように働きかけたとき、事態は急停止した。不運なことに、ビルベリは共謀者として学術的なサークルの中での評判を傷つけられてしまった。
ことが失敗したとき、ルンド大学のスウェン・ニルソン(Sven Nilsson)の助力が得られることになった。
しかし、トゥーンベリは断った。フォッシュベリがまだ自分の名前で論文を発表していないし、より優れた多くの候補者がいたからである。
しばらくの間、フォッシュベリは、ヴァーレンベリの下で臨時の学芸員として働いた。
トゥーンベリの妻は1813年に先立っていった。
(2014.02.14 訳出)
26 発表優先権について
分類学の初期には、発表のプライオリティ(優先権)という概念は存在しなかった。そして、「標準標本」という考え方も全く知られてなかった。
トゥーンベリは、他者に分け隔てなくその知識を与えた。また、同定されている資料のコレクションや新しい属と種に関する記述についてもオープンであった。
これがもたらすものは、トゥーンベリによる膨大な数の発見が、他者の印刷物において最初に発表されてしまい、それゆえに発見自体も他者に帰属してしまうということであった。
だから、トゥーンベリによって発見された日本の植物のほとんどが、1784年にマレー(Murray)によって出版された『リンネ植物分類学』(Linnéss Systema Vegetabilium)の改訂版で先に発表されてしまい、トゥーンベリ自身の学術論文の方が後になってしまうということが起きた。このような事態はさらに数多く生じた。
27 むすび
トゥーンベリの人となりはどうだったのか。
彼は活発で楽しい人だったと一般的に評されている。また、金銭に対する持ち前の用心深さがあるにもかかわらず、彼の自由になる範囲内で困っている友人をしばしば助けている。
彼は、どちらかといえば内向的な性格であり、自分自身を表に出して、人々の考え方に影響を与えるということが苦手だった。それはヴァーレンベリの一件を思い出してもらえばわかる。
晩年には、耳が全く聞こえなくなり、振る舞いや服装が奇矯になった。
彼はこのため、国際的にも有名な人が自負心からも自由になっていると評価した学生たちに慕われた。
彼は積極的に収集に取り組むなかで、1828年8月8日に85歳で亡くなった。
彼は、科学雑誌における160を超える学術論文および報告書の著者だった。
さらに、294の博士論文を書いた。
当時においては、論文を書くのは教授の仕事であり、公開討論においてそれをサポートするのは学生の仕事だった。
教授が博士号の申請者に対して、その見返りに報酬を求めるということが慣習的であった。
しかし、トゥーンベリは、そうしたことはしなかったと述べている。
当時の一般の学生は、教授に報酬を渡したうえに、学位論文の印刷費用を支払わなければならなかったのである。
これらの論文の多くは取るに足らないものだったが、いくつかは立派に科学的な貢献をした。
彼は、このようにして昆虫の種の多くについても記述した。
以上、トゥーンベリの一生をかいつまんでたどってみた。
参考文献
Nordenstam, Bertil (Ed.) 1993. Carl Peter Thunberg. Bidr. kungl. Vetenskapsakad. Historia, xxv, 191 pp.
Wallin, L. 1993. Carl Peter Thunberg (1743-1828). Scripta Minora, Bibl. Regiae Univ. Upsaliensis, 6, 64 pp
(2014.02.15 訳了)
訳出を終えて
この略伝は、少しずつ日本語に訳してきました。
直訳では すんなりと意味が通じないことが多いため、できるだけ こなれた日本語になるよう努めたつもりです。
訳出に着手してから終了まで40日もかかってしまいましたが、なんとか了えることができました。
訳出開始 2014.01.05 ----> 訳出終了 2014.02.15
「22 リンネのエピソード」の段落は、内容がほとんど読み取れなかったため、英語やドイツ語に堪能な旧友のS・Mさんに助力をお願いしました。
付 記 2014.02.22
この記事の全体があまりにも長いので、原文の部分を別記事として独立させ、本訳文と同じ挿し絵を入れました。
➜ Thunberg : A Biographical Sketch
付 記 2015.02.16
オランダ語に通暁し、スウェーデン語についても詳しい片桐一男氏の著作を読んでいるときに、人名の読み方が違っていることに気づきました。
・スウェーデンの人名、Forsberg を「フォッシュベリ」に改めました(トゥーンベリの義父)。
実際のネイティブの発音を、FORVO という発音ガイドのサイトで確認しました。
付 記 2016.11.22
前書き部分の一部を「訳出を終えて」として、末尾に移しました。
記事内のリンクをチェックしたところ、原文へのリンクが切れていることが分かりました。
ウェブを検索したところ、以下の PDFファイルが見つかりました。
Richard Reyment 教授のホームページのブログ(BLOG)に載っています。
執筆はアベ・カツミ氏で、英訳が同氏と Reymond 氏の共訳なのでしょうか。
また、編集段階で Reymond 氏の手も入っているのでしょうか。
Richard Arthur Reyment 氏は、地質学者・古生物学者。 1926年、オーストラリアのメルボルンに生まれ、ストックホルム大学やウプサラ大学の教授を務め、晩年はスウェーデン自然歴史博物館で客員研究員を務めたそうです。 2016年にスウェーデンのソーレントゥーナで亡くなっています。
一緒に原稿の作成・翻訳に当たったアベ・カツミさんについては、以下の資料の P.13 に Reyment 氏が思い出を書いています。
静岡大学の助教授だった阿部勝巳氏のようです。
上記資料には、1998年に若くして亡くなられたことが Reyment により書かれています。
二人は古生物学者同士、気のあった仲だったのでしょう。