この周辺は明治時代の中頃まで 岩戸(いわと)村という地区でした。
岩戸宗像神社の鳥居 |
鳥居の形は 両部鳥居 |
大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「宗像村誌」には、村社 宗像神社の一つとして以下のように書かれています(後編 P.410~411)。
宗像三女神(須佐之男命の子供とされる)ほかの読み方については、小学館『完訳 日本の古典 第1巻 古事記』(1983)等を参照しました。
なお、文字については、その多くを『千葉県印旛郡誌』のままにしてあります。
(1) 村社 宗像神社
岩戸村 字宮坂にあり、
旧記 取り失い、確証となすものこれなきながら、
社殿(本殿)、間口 6尺 奥行き 6尺。
境内、703坪あり。 氏子、154戸を有す。
神官は香取正廣にして、管轄庁まで5里18町あり。
境内4社を祭る。 即ち、
・足尾神社
・大杉神社
・八坂神社
・皇太神社
堂々とした拝殿 |
拝殿には「宗像神社」の扁額が懸かっています |
元本埜村教育長 五十嵐行男氏による 宗像神社の解説(『印西風土記』) |
上の五十嵐氏による宗像神社の解説は、とてもわかりやすく書かれていますので、ぜひ ご一読をおすすめします。
青い文字の部分をクリックすれば、PDF ファイルを見ることができます。
『千葉県印旛郡誌』の「宗像村誌」にも、宗像神社について 以下のように書かれています(後編 P.411)。
『古事記』からの引用部分は、原典に則し訂正を加えています。
当社を「宗像神社」と称する故は、三柱の姫の神を鎮祭するが故なり。記(古事記)に、この三柱の神は 胸形君(むなかたのきみ)(北九州沿岸に活躍した海人(あま)族の宰領)等(ら) 以(も)ち伊都久(いつく)(心身を清め、謹んで聖なるものに使える)三前(みまえ)(「前」は神を数えることば)の大神なり。
記に、これ即ち 筑紫 胸肩君等 祭るところの神社、これなり。神名式(延喜式神名帳)に、筑前の国 宗像郡 宗像神社 三坐ならびに名神、大いにあり。これ三柱の姫神を宗像大神と称し奉る証なり。
さて、この神の何なる故にや、大和の国 春日神社に鎮祭する 鹿島・香取・枚岡の神に付坐せり。そもそも鹿島・香取といえるは、神名式の大社にして、実に神代の鎮座たり。しかして、この姫神の本社は筑前の国なれども、鹿島・香取の神に附坐せり。故に ここにも鎮祭せられたり。
宗像大社の三宮 (JAL機内誌「SKYWARD」 2012年1月号より) |
そもそも、この印西の土地たる印旛沼の西方に位置して、沼の東方を左とし、西方を右として、南方に面して あたかも一つの半島をなしたり。
この神の鎮座したまう筑紫の国の本津宮を、沖津宮・中津宮・辺津宮(へつみや/へつぐう)とも申せられ、この神を鎮祭するに もっとも適したる土地なるが宮どころを この地に相し(招き)たりとみえて、東・南・西に位置して沼水を望見する村落に、皆この神を祭られたり。
宜(うべ)なるかな、この神に奉仕せる神家は、皆 香取を姓として、社伝にも古代明らかに祖先は香取より来たれりといえり。
されば、この神社の鎮祭・鎮座、年暦たり。今は寂然たる寒郷の村落なれども、古代は 名神・大社の香取に附座せる 実にやんごとなき郷分社に座しける。
横から見た拝殿 |
拝殿の後ろにある本殿 |
見事な彫刻が施されています |
本殿に向かって左側面の彫刻 |
本殿に向かって右側面の彫刻 |
本殿の彫刻保護のための防護柵は 浄財により設けられたものです |
左は本殿、右は拝殿 |
葉の裏に尖ったもので文字が書ける「葉書の木」 |
庚申塔や様々な記念碑が並んでいます |
合祀されたと思われる多くの祠 |
壇の上にも祠が祀られていました |
宗像神社の裏手は 岩戸地区構造改善センターにつながっています |
岩戸地区構造改善センターと消防団の器具庫 |
岩戸地区構造改善センター |
印西市消防団の器具庫 |
コンビニのスリーエフにあった 岩戸地区の案内地図 |
岩戸宗像神社から県道64号線をずっと北に進んだところにある造谷橋 |
造谷橋から少し離れたところに タヌキが横たわっていました かわいそうに・・・ ( Raccoon dog died by the traffic accident ) |
➜ 北総の宗像神社(4) <印西市・山田>