印西市で ただ一つの 臨済宗 妙心寺派の寺院です。
山 門 右に「臨済宗」、左に「西福寺」とあります |
山門横の木の根元に咲いていたタチツボスミレ |
右から2番目にある十九夜塔は宝暦13年(1763)のもの |
六地蔵の背面には いろいろと彫られています |
背面に彫られた文字は、様々なことを教えてくれます。
下総州 印旛郡 岩戸村 金剛山 西福禅寺
現住 鎮州和尚代
于時 天保三年壬辰(1832) 四月吉祥日 造立
講中 善女人 願主 市場
湯附
西方
「
「
「講中 善女人」とあるのは、十九夜講や二十三夜講を行っていた女人講中により造立されたことを示しています。
「願主」に「市場 ・ 湯附 ・ 西方」とありますが、これらは江戸時代後期の「岩戸村」の字名です。
「市場」と「西方」は、現在の地図上でも確認できます。
「湯附」は現在の「伊付」が相当すると思われます(下図参照)。
角川書店『千葉県地名大辞典』(1984)の資料編の「小字一覧」によると、「伊付」は「伊附」(いづき)として掲載されています。
西福寺周辺の地図 |
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用
石塔が整然と配置されています 奥に並んでいるのは卵塔 |
印西大師 番外の大師堂 |
大正2年(1913)発行『千葉県印旛郡誌』の「宗像村誌」のうち、「寺院仏堂誌」の筆頭に 以下のように書かれています(後編 P.413)。
(1) 西福寺
岩戸村 字市場にあり、円応寺(臼井氏の菩提寺)末にして、臨済宗妙心寺派に属す。
釈迦如来を本尊とす。
開基 岩戸五郎胤安、故ありて忠死。
その後、荒蕪の地に及び、鬼哭・燐火の怪しみあり。
よって、円応寺2世 道庵和尚、一宇を城址に草創。于時、文和2癸巳年(1353)。
文化甲子年(1804)8月、焼失。
明治10年、再興。
堂宇 間口 3間半、奥行き 3間半。
境内 1878坪あり。
檀徒 13人を有す。
本堂や庫裏は左奥にあります |
右が本堂、左が庫裏 |
西福寺 本 堂 |
本堂の左手に続く庫裏 |
本堂の右手は広々としており、奥には土塁が見えます |
六地蔵 新しいのに違和感がありません 奥をよく見ると土塁があります |
「岩戸胤安之碑」(1928) 土塁のある理由が判明 |
『千葉県印旛郡誌』の「宗像村誌」のうち、「古跡誌」の筆頭に 岩戸城址について書かれています(後編 P.407~408)。
(1) 岩戸城址
岩戸に在り、臼井城の支城にして、本城(臼井城)の北30町。舟戸渡によりて通ず。
正和(1312~1317)中、岩戸五郎胤安ここに居る。
胤安は、千葉の庶族にして、臼井祐胤に仕える。
正和3年(1314)、祐胤卒す。
臼井城主 嗣子・竹若なお幼なり。
叔父(臼井祐胤の弟)・ 志津次郎 胤氏、遺嘱によりて、これに伝たり。
胤氏、竹若を殺して城を簒わんことを謀る。
胤安、夜 密かに竹若を負い、遁れて鎌倉に往き、建長寺に托して養育す。
胤氏、これを覚り、大いに怒り、来たり攻む。
胤安、力戦・拒守し、一族みな これに死す。
のち、竹若成長して、左近将監 行胤と名乗り、本城を復して、胤氏を誅し、深く胤安の忠死を追悼し、一寺を建てて、その冥福を修す。
西福寺、これなり。
その堂前の紅梅樹は、胤安及びその妻子の自刃の處を祭祀せるなりという。
西福寺は、岩戸城址に建てられた寺院だったのです。
➜ 印旛を歩く(12)
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