1 今も残る 旅籠 丸屋の建物
江戸時代、鎌ケ谷宿は 木下街道の宿駅として賑わいました。
全盛時には7軒の旅籠があったといいます。
旅籠 丸屋 全景 1 |
この建物は、明治の中期に建てられたものだといいます。
旅籠 丸屋 全景 2 |
宿の入口周辺のようす 丸屋もこんな風だったのでは |
2 『木曽路名所図会』から「釜ヶ原」
木下街道は、かつて 木下道や 鹿島道、印西道とよばれていました。
鎌ケ谷宿を抜けて、北に この道を進んでいくと 一面小金原の牧が広がっていました。
そのようすがよく分かる図絵のひとつが以下のものです。
このシリーズ1回目の「清長庵」でも取り上げていますが、ここでも掲載します。
『木曽路名所図会』(文化2年(1805))から 「釜ヶ原」 |
牧に群れ遊ぶ駒の姿とともに、右には筑波山、左には富士山が描かれています。
絵図の添え書きは、以下のように読めます。
釜ヶ原
釜ヶ原墅の 駒のか
西
『木曽路名所図会』の 「釜ヶ原」を一部拡大 大きさや距離は不正確 |
絵図の左下をよく見ると、鎌ケ谷大仏や 井草三叉路にある魚文の句碑が描き込まれています。
魚文の句碑は、建っている位置が現在とは違っていたようです。
3 松尾芭蕉 『鹿島詣』
この道を歩き、鎌ケ谷を過ぎていった人には、俳人 松尾芭蕉、画家 渡辺崋山、そして 農村改革指導者 大原幽学 らがいます。
彼らは、その足跡を文字や絵にかきとどめています。
まず、松尾芭蕉。
有名な『鹿島詣(鹿島紀行)』には 当時の様子がいきいきと美しく描写されています。
奧の細道行脚之図 (芭蕉と曾良) 森川許六画 元禄6年(1693)筆 天理大学附属天理図書館蔵 |
以下の部分については、1回目の「清長庵」で取り上げていますが、現代語訳部分を一部変更して掲載します。
茶色の文字は原文、紺色の文字は現代語訳です。
渡辺崋山『四州真景図』(文政8年(1825))から 「釜原」の図 |
鎌ケ谷から見はるかす筑波山、野を群がり歩く馬
舟を上がると、馬にも乗らず、細い脛の力を試そうと、歩いて行く。甲斐国からある人が届けてくれた檜木づくりの笠を、おのおのが被って旅支度をし、八幡という里を過ぎると、そこに、鎌谷が原という広い野原がある。
4 渡辺崋山 『四州真景紀行』
渡辺崋山は、図絵が添えられた『四州真景紀行』において以下のように書いており、鎌ケ谷では鹿島屋という旅籠で夕食をとったことが分かります。
宿泊地は白井のようです。
渡辺崋山の肖像 (崋山の高弟である 椿 椿山 画) |
文政8年(1825) 6月29日
上山新田(を)南東の方、藤原新田(を)北西(に見て 進み)
釜谷宿(まで)、二里八町
鹿島屋夕飯、三人にて百四文
但し、酒一合に付き二十八文共に
釜谷原放牧。原、縦四十里、横二里或いは一里と云う
即ち、小金に続くとぞ
白井宿、逆旅(げきりょ)(宿屋のこと: 旅人を逆(むか)える所の意) 藤屋八右衛門。
(以上、『崋山全集』より)
割 込 2016.01.02
高名な渡辺崋山については、様々なところで述べられているので、ここでは触れません。
下総国古河藩の家老であった鷹見泉石を描いた肖像画は 国宝となっており、大変に有名なものです。
弟子の椿山の描いた崋山像とも通じるものがありますので、ここに掲載します。
国宝 鷹見泉石像 渡辺崋山画 絹本着色 天保8年(1837) 東京国立博物館蔵 |
割 込 おわり
5 大原幽学 『性學日記』 と 『道の記』
大原幽学は、天保10年(1839)と天保12年(1841)に、3度にわたって鎌ケ谷の丸屋で休憩したり泊まったりしています。
3度すべて、江戸へ上る折に記したものです。
幽学の風貌をもっともよく伝えているという肖像画 (保爾画) |
天保10年(1839)5月27日
天保10年(1839)9月19日
天保12年(1841)6月19日
(以上、『大原幽學全集』より)
以後、亡くなるまで長部村の建て直しに取り組むこととなります。
幽学については、以下の記事が若干参考になります。
➜ 前の訪問先 (5) 延命寺
➜ 次の訪問先 (7) 清田家の墓地・駒形大明神