2015年10月21日水曜日

鎌ケ谷宿とその周辺を歩く (6) 旅籠 丸屋

1 今も残る 旅籠 丸屋の建物


江戸時代、鎌ケ谷宿は 木下街道の宿駅として賑わいました。
全盛時には7軒の旅籠があったといいます。

新京成線 鎌ケ谷大仏駅を西に数分歩くと、木下街道沿いに かつての旅籠 丸屋の姿を見ることができます。

旅籠 丸屋 全景 1

この建物は、明治の中期に建てられたものだといいます。

旅籠 丸屋 全景 2


宿の入口周辺のようす 丸屋もこんな風だったのでは



2 『木曽路名所図会』から「釜ヶ原」


木下街道は、かつて 木下道や 鹿島道、印西道とよばれていました。
鎌ケ谷宿を抜けて、北に この道を進んでいくと 一面小金原の牧が広がっていました。
そのようすがよく分かる図絵のひとつが以下のものです。
このシリーズ1回目の「清長庵」でも取り上げていますが、ここでも掲載します。

『木曽路名所図会』(文化2年(1805))から 「釜ヶ原」

牧に群れ遊ぶ駒の姿とともに、右には筑波山、左には富士山が描かれています。
絵図の添え書きは、以下のように読めます。

釜ヶ原

かへり見る 冨士の夕日 かゞきて (輝きて)
    釜ヶ原墅の 駒のかかづ

  籬島 秋里籬島あきざと りとう


このひろくして 東西に四十里あまり りとなん
西冨士ほう見えて 小金原尓津につゞくなり


『木曽路名所図会』の 「釜ヶ原」を一部拡大 大きさや距離は不正確

絵図の左下をよく見ると、鎌ケ谷大仏や 井草三叉路にある魚文の句碑が描き込まれています。
魚文の句碑は、建っている位置が現在とは違っていたようです。



3 松尾芭蕉 『鹿島詣』


この道を歩き、鎌ケ谷を過ぎていった人には、俳人 松尾芭蕉、画家 渡辺崋山、そして 農村改革指導者 大原幽学 らがいます。
彼らは、その足跡を文字や絵にかきとどめています。

まず、松尾芭蕉。
有名な『鹿島詣(鹿島紀行)』には 当時の様子がいきいきと美しく描写されています。

奧の細道行脚之図 (芭蕉と曾良) 森川許六
元禄6年(1693)筆 天理大学附属天理図書館蔵

以下の部分については、1回目の「清長庵」で取り上げていますが、現代語訳部分を一部変更して掲載します。
茶色の文字は原文紺色の文字は現代語訳です。


貞享4年(1687) 8月14日

 舟をあがれば、馬にものらず、細脛(ほそはぎ)のちからをためさんと、かち(徒歩)よりぞゆく。甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはた(八幡)と云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。

 秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり。

  雪は申さずまづむらさきのつくば哉

と詠しは、我門人嵐雪が句なり。

 すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

 萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。

渡辺崋山『四州真景図』(文政8年(1825))から 「釜原」の図

   鎌ケ谷から見はるかす筑波山、野を群がり歩く馬


 舟を上がると、馬にも乗らず、細い脛の力を試そうと、歩いて行く。甲斐国からある人が届けてくれた檜木づくりの笠を、おのおのが被って旅支度をし、八幡という里を過ぎると、そこに、鎌谷が原という広い野原がある。

 この広大な様は、古の詩にある「秦甸之一千(余)里」のようであり、遥か彼方まで見渡すことができる。筑波山が、向う正面に、男体山、女体山の二峰を高く並べて立っているのが見える。かの中国にも双剣の峰があると聞くが、これは、中国山水詩の母たる廬山の一隅に存するものである。

 「雪を頂く姿が見事なのは言うまでもないが、春立つ頃の、山紫に霞みたなびく筑波山は格別のものであるよ」と詠んだ句は、わが門人嵐雪によるものである。

 総じてこの山は、日本武尊と火守り老人との問答唱和が伝えられて、連歌の起源に関わる山とされ、初の連歌撰集の題(『菟玖波集』(1356))にも名付けられた。筑波山を眺めながら、和歌を詠まないことはあってはならない、また、句を詠まずに通り過ぎてはならない。まことに愛すべき山の姿ではある。

 萩は錦を地に敷きのべたようで、昔、橘為仲が長櫃に萩の花を折り入れ、都の土産に持たせたという話も思い出され、風流の心に共感したことである。ききょう・おみなえし・かるかや・尾花 (ススキのこと)などが乱れ咲き、牡鹿が、妻を恋い鳴く声も、いかにもあわれふかい。放し飼いの馬が、よい場所を得た様子で満足げに群がり歩くさまもまた、趣がある。



4 渡辺崋山 『四州真景紀行』


渡辺崋山は、図絵が添えられた『四州真景紀行』において以下のように書いており、鎌ケ谷では鹿島屋という旅籠で夕食をとったことが分かります。
宿泊地は白井のようです。

渡辺崋山の肖像 (崋山の高弟である 椿 椿山 画)

文政8年(1825) 6月29日

八幡宿 鬼越フカ町〔深町〕(を出で)
上山新田(を)南東の方、藤原新田(を)北西(に見て 進み)
釜谷宿(まで)、二里八町
 鹿島屋夕飯、三人にて百四文
  但し、酒一合に付き二十八文共に
釜谷原放牧。原、縦四十里、横二里或いは一里と云う
即ち、小金に続くとぞ
白井宿、逆旅(げきりょ)(宿屋のこと: 旅人を逆(むか)える所の意) 藤屋八右衛門。

(以上、『崋山全集』より)


割 込 2016.01.02

高名な渡辺崋山については、様々なところで述べられているので、ここでは触れません。
下総国古河藩の家老であった鷹見泉石を描いた肖像画は 国宝となっており、大変に有名なものです。
弟子の椿山の描いた崋山像とも通じるものがありますので、ここに掲載します。

国宝  鷹見泉石像 渡辺崋山画
絹本着色  天保8年(1837)  東京国立博物館蔵

割 込 おわり



5 大原幽学 『性學日記』 と 『道の記』


大原幽学は、天保10年(1839)と天保12年(1841)に、3度にわたって鎌ケ谷の丸屋で休憩したり泊まったりしています。
3度すべて、江戸へ上る折に記したものです。

幽学の風貌をもっともよく伝えているという肖像画 (保爾画)

天保10年(1839)5月27日

27日 出立して、木下 河内屋に休らひ、白井澤 肴屋中食、鎌ケ谷 丸屋休み。 八幡 中屋泊り。  (『性學日記』より)

天保10年(1839)9月19日

18日 出立して、安喰にて中食して、木下 河内屋泊り。明る19日 出立して 鎌ケ谷 丸屋泊り。 20日 行徳 山田屋に中食して舟に乗り、海部大工町 筏屋平七泊り。  (『性學日記』より)

天保12年(1841)6月19日

18日 出立して、滑川 桔梗屋泊り。 19日 鎌ケ谷 銚子屋泊り。 明る20日 江戸 近善に宿す。  (『道の記 巻二』より)

(以上、『大原幽學全集』より)



幽学が長部村(現・旭市長部)に招かれ、その地を初めて訪れたのは天保6年(1835)のことです。
以後、亡くなるまで長部村の建て直しに取り組むこととなります。

幽学については、以下の記事が若干参考になります。

 ➜ 大原幽学 ゆかりの地 訪問 (旭市)



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