明治の中頃まで中根村と呼ばれていた この地区には、前回取り上げた東漸寺もあります。
その東漸寺の北の方角に、谷津田を挟んで、福聚院があります。
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用 |
東漸寺と福聚院は、佇まいが だいぶ違っています。
寺のもつ役割が違っていたのかもしれません。
では、福聚院を見ていきましょう。
門柱には 「天台宗 福聚院」 とあります |
山門の右手に置かれた 美しい六臂の如意輪観音像 |
門柱の裏には 「大正十五年八月建」 とあります |
境内の様子 大師堂や十九夜塔、「南無大師金剛遍照」の塔があります |
印西大師 第十四番札所の大師堂 立派なお堂です |
本 堂 |
「太平洋戦陣没者之碑」が建っていました |
この碑は 『千葉県の忠魂碑』(千葉縣護國神社 1998)の P.398 に掲載されています。
それによると、昭和29年(1954)に戸崎藤方遺族会により建立されたとあります。
本堂の右手を進んだところにある戸崎青年館 |
追記 2014.08.16
百年ほど前の大正2年(1913)に『千葉県印旛郡誌』が出版されており、本埜地区について詳しく述べられています。
出版当時には、本埜地区は 本郷村(ほんごうむら)と埜原村(やわらむら)の二つの村に分かれていました。
本郷村と埜原村 『千葉縣印旛郡誌』(千葉県デジタルアーカイブ)から |
『千葉縣印旛郡誌』については、以下のサイトに概要と主要目次が掲載されています。
➜ 千葉縣印旛郡誌 紹介
また、『千葉縣印旛郡誌』はすでに著作権が消滅しているため、国や県の図書館のサイトや Google Books で閲覧することができます。
以下をご参照ください。
➜ 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
➜ 千葉県立図書館 千葉県デジタルアーカイブ
➜ Google Books 千葉縣印旛郡誌: 前篇
➜ Google Books 千葉縣印旛郡誌: 後編
福聚院については、『千葉縣印旛郡誌』の下巻 Pp.622-623 に以下の記述があります。
中根村字大畑にあり、天台宗比叡山派に属し、中本寺である泉倉寺の末寺である。
阿弥陀如来を本尊とする。
由緒は不詳。
堂宇の間口は6間、奥行は5間。 境内の広さは705坪。
住職は鈴木實善であり、檀徒は354人を有し、管轄庁までは8里である。
また、同書 P.611 には、江戸時代末の石高と名主が記されていますが、同じ中根村内でも 福聚院のある戸崎・藤方地域と 東漸寺のある辺田前地域は別の所領として書かれています。
(一) 佐 倉 領
中根村の内、戸崎・藤方
二百六十五石六斗一升一合 (中 略)
(二) 稲 葉 領
中根村の内、辺田前
三百十九石三斗一升 (後 略)
同じ中根村でも所領が異なっていたため、ひとつ村のそれぞれの地域に寺が建てられたのではないでしょうか。
なお、現況については 以下のページが参考になります。
➜ 印西市内宗教法人名簿 (千葉県総務部学事課)
➜ 本埜の仏刹(5) 東漸寺(印西市・中根)
➜ 本埜の仏刹(7) 戸崎観音堂(印西市・中根)