2014年11月17日月曜日

2014.11.16 秋の多々羅田 ・ 結縁寺 (印西市) (その1)

印西ウエットランドガイドの里山散策会で、印西市の多々羅田たたらだ結縁寺けちえんじ周辺を歩きました。

明治時代の中頃までは、多々羅田村、結縁寺村だった地区です。
明治22年(1889)4月1日、町村制施行により 多々羅田村、結縁寺村、戸神村、武西村、松崎村、泉新田、惣深新田、船尾村の8村が合併し「船穂村」となりました。
いまは印西市の一部ですね。
なお、「結縁寺」は 寺院の名前であるとともに、寺周辺の地区名ともなっています。

散策で訪れた場所
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用

千葉ニュータウン中央駅 ➜ ニュータウン大橋 ➜ 多々羅田公園 ➜
➍ 多々羅田青年館 ➜ 結縁寺 ➜ 熊野神社 ・ 入定(にゅうじょう)塚 ➜
松崎台公園 ➜ 頼政塚➜ 名馬塚➜ 県立北総花の丘公園


このコースは、今春も歩いています。

 ➜ 2014.03.08 早春の結縁寺周辺の谷津 (印西市)

今回は 秋らしい景色を楽しめました。


ニュータウン大橋の上からは オオバンが見えました (


多々羅田公園では イチョウが見事に黄葉しています (


ナワシログミ 枝が上へと延びています (


面白い模様が幹にある イヌエンジュ (


街路樹のモミジバフウ(アメリカフウ)の紅葉


参 考 モミジバフウの実は とても面白い形です


路傍に庚申塔が並んでいました


赤い実をいっぱいつけた クロガネモチ


ヒメアカタテハ 成虫で越冬します


聖徳太子を祀ったお堂があった所に 多々羅田青年館が建っています(

大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「船穂村誌」には、かつてあった太子堂について 以下のように書かれています(後編 P.459)。

 (九) 太 子 堂
多々羅田村 字弁天前べんてんまえにあり(近くに厳嶋いつくしま神社がある)、結縁寺持ちにして真言宗なり。
聖徳太子を本尊とす。
伝えいう、昔 源平2氏 互いに武将をもって勢いを争うや、保元平治の乱に源氏大いに破れしとき、下総千葉に千葉氏ありて房総半島を領したりという。
而して、当時 千葉氏の臣に常陸の方・布川に豊島紀伊守 と しま きいのかみ、一日、近隣の将 土岐某のために攻められて 破れて 逃れて、本村・多々羅田に走り、太子の像を負い来たりて これに安置し、多々羅田を開発して これに住するに至れりという。而して、多々羅田太子堂なるものは、実に豊島氏の伝う本尊なり。
今に豊島家存し、宗家は代々獣医を生業とし、支家数幹あり。
堂宇、間口 4間、奥行き 4間。境内 170坪。信徒39人を有す。

以上が、聖徳太子を祀った「太子(たいし)堂」についての100年前の説明です(かなりの悪文といえます)。

布川豊島氏については、以下が参考になります。

 ➜  Wikipedia 「豊島氏」

ここには 弘法大師・空海を祀った「大師(だいし)堂」もあります。
なんだか紛らわしいですね。

印西大師 第六十番札所の大師堂 (


御詠歌の書かれた 大師堂の額 (

額には、以下のように書いてあります。

   第六十番 石鎚山 横峯山

   たてよこに みねややまべに てらたてゝ
   あまねくひとを すくうものかな

   おんあびら  神戸順拝会

四国の本家、第六十番札所 石鉄山いしづちさん 福智院ふくちいん 横峰寺よこみねじの御詠歌そのままです

   たて横に 峰や山辺に 寺たてて
   あまねく人を 救うものかな

横峰寺の本尊は、大日如来。
真言は、「おん あびらうんけん ばざら だとばん」

額の最後に書かれている「神戸順拝会」については、読み方を含めて不明です。


落花生を干してあります 「ボッチ」というそうです


路傍に道祖神が祀られていました


嘉永2年(1849)と彫られています


ところどころに 無人の野菜販売所がありました


アキノエノコログサ 何とも秋らしい感じです


カラスウリの実 緑から赤へと 色が変わっていく途中のようです


美しいアオツヅラフジの実


立派な長屋門のお宅がありました


➜  2014.11.16 秋の多々羅田 ・ 結縁寺 (印西市) (その2)