結縁寺地区へと入ったところからです。
結縁寺と蓮池 |
蓮池には 蓮やコウホネが育っていました |
参 考 先の大地震で干上がってしまったが徐々に復活 (2014.03.07 撮影) |
結縁寺については、大正2年(1913)発行の『千葉県印旛郡誌』の「船穂村誌」に3ページの長きにわたって書かれています(後編 P.456~458)。
最初の部分は、以下のとおりです。
第8章 寺院・仏堂誌 (5) 結縁寺
結縁寺村 字
大日如来を本尊とす。天平年間の開創とす。
いま荒廃して昔日の面影なしといえども、幽遠閑雅の一部落にして、ただ何となく、古代の歴史を語るがごとき感あるを覚ゆ。
堂宇、間口 7間、奥行き 6間。境内 745坪あり。檀徒262人を有す。
『利根川図誌』によれば、そもそも 晴天山 結縁寺は、人皇(神武天皇を初代とする代々の天皇)45代 聖武天皇の神亀年間、行基僧正の創建という。本堂、南向き 6間4面。本尊 阿弥陀仏は行基僧正の作。かたわらに金像の不動尊を安置す。その丈 2尺余り。
平成17年(2005)に再建された 結縁寺本堂 その左は庫裏 |
印西大師 第四十六番札所 大師堂 |
大師堂の扁額 浄瑠璃寺の御詠歌 |
四国霊場の本家、医王山 養珠院 浄瑠璃寺の御詠歌です。
第四十六番 四国浄瑠璃寺写 結縁寺
極楽の 浄瑠璃世界 たくらえば
受くる苦楽は 報いならまし
結縁寺のすぐそばには 熊野神社があります。
熊野神社の鳥居 |
階段下には源頼政ゆかりの「入定塚」があります。
入定塚については、『千葉県印旛郡誌』の「船穂村誌」に 以下のように書かれています(後編 P.456)。
入 定 塚 (結縁寺の)本堂のそばにあり、伝うるところでは、伊勢国住人・佐藤民部という者の娘、頼政公の墓を訪ね、この場所に来たり入定すという。
石碑に 「大比丘尼 善智入定 伊勢國の住人 ☐☐☐☐娘 大永六丙戌年(1526)二月十八日 享保九(1724)」年造立と見ゆ。
源頼政の遺徳を慕い訪ねてきた 伊勢の女性が入定したと伝えられる塚 |
『船穂地区調査報告書 ー印西町石造物 第五集ー』(印西町教育委員会 1987)のP.273には、以下のようにあります。
熊野神社については、、『千葉県印旛郡誌』に以下のように書かれています(後編 P.453)。
第7章 神 社 誌 (6) 村社熊野神社
結縁寺村 字
社殿、間口 4尺、奥行き 4尺。境内 264坪あり。氏子26戸を有す。
境内2社を祀る。即ち、
1. 諏訪神社 武美那方命を祭る。由緒不詳。建物は石祠なり。
2.日吉神社 大物主命を祭る。由緒不詳。建物は石祠なり。
階段の上に熊野神社があります |
熊野神社の社 |
結縁寺地区には谷津田が広がっており、豊かな自然が残されています。
散策しながら 様々な生きものに出会いました。
ベニシジミ |
コセンダングサ 種は「ひっつきむし」です |
セグロセキレイ |
マユミの実 |
クサギの実 |
ベニバナボロギク 美しい花です |
谷津から出て、源頼政ゆかりの史跡を見ました。
頼政塚近くの路傍にあった 印西大師 番外の大師堂 |
頼政塚(正面) 手前右手には頼政堂、左手には大師堂があります |
頼政堂の瓦にあった笹竜胆(ささりんどう)の紋 村上源氏の定紋とのこと |
頼政塚敷地内にある 印西大師 番外の大師堂 |
「頼政塚」の近くには「名馬塚」があります。
桜の木の下で、昼なお ほの暗い場所にありますが、『千葉縣印旛郡誌』によれば、百年前からそうだったようです。
源頼政ゆかりの名馬塚 多くの馬頭観音があります |
「名馬塚」については、この場所に立てられていた説明板が簡潔でわかりやすいです。
「名馬塚」の説明板 結縁寺世話人会の手になるものです |
馬頭観音 1 寛保2年(1742)建立 |
馬頭観音 2 明和6年(1769)建立 |
来た道を引き返し、多々羅田公園を抜け、北総花の丘公園で解散しました。
木に留まっていたスズメの隊列 (北総花の丘公園にて) |
付 記
名前のわからない草木については、私の植物の先生である S氏に教えていただきました。
いつもながらに感謝申し上げます。
➜ 2014.11.16 秋の多々羅田 ・ 結縁寺 (印西市) (その1)