2017年5月20日土曜日

沼南散策(2) 高柳御嶽みたけ神社 (柏市・高柳)

高柳は、柏というより沼南にあるといった方が分かりやすいかもしれません。
高柳御嶽神社は、以前ご紹介した「かにうちの森」の近くにあります。

高柳御嶽神社の位置 かにうち橋の北西にあります
国土地理院 電子国土Webシステム配信の地図を利用


切り通しの道の入口に 「御嶽神社」への案内板があります


坂を上がりきる手前の右手に 神社が見えてきます

以下のサイトに、高柳御嶽神社は 元は「越後退えちごじり」という清水が湧き出す場所にあったと書かれていました。

➜ 石仏神心 75-6 高柳御嶽神社の石祠

そこで、『沼南風土記』(沼南町役場 1981)で「越後退」を調べたところ、P.176~177に載っていました。

(十) 越後退えちごじり (高柳)


そのむかし、牧野清十郎という武士が、二千石を領して高柳地区に邸宅を構えていました。
そののち、牧野氏は一万三千石の領主に出世し、越後に移ることになりました。
出発の際、この屋敷跡を「越後退」と命名して、永く記念するように里人に告げました。
それ以降、ここを “越後退” と称し、のちに信仰心の篤い村人たちは、ここに御嶽神社を祀リました。

それは、両側が高い丘で、その谷間の奥まった所にあり、豊かな清水が湧き出ていました。
とくに滝不動尊の蛇口からは、滝のような水が出ていましたが、戦時中、軍の要請によって、同神社はもとの場所から三~四百メートル離れた現在地に移転しました。

低い石段の上に 社務所があります


この社務所は祈願堂 一般的な神社の拝殿に当たります

この建物について、『沼南風土記(二)』(沼南町教育委員会 1989)には以下のように書かれています。

祈願堂といわれる拝殿に当る建物の奥から、内側の鳥居をとおして山頂の奥宮(石造)を拝するようになっており、お山を祈拝する形は富士浅間社と全く同じで、山岳信仰の姿をよく現しています。 (P.240)

社務所右手に、建物に接して 鳥居と石祠があります


鳥居や石祠


鳥居に向かって左側から見たところ


御嶽神社の石祠 左右にも石祠があります


「高柳社」と彫られています
「高柳講社」の意味でしょう

『沼南風土記(二)』の P.236~241には、「御嶽信仰」について詳しく書かれています。
このうちで高柳御嶽神社に関する一部を書き抜きます。

文書にあらわれる高柳の御嶽講ですが、「御嶽講入社帳」の安政元年(1854)正月9日記載分に「巴丸東講」として講社ができたとあります。(P.238)

明治政府の神仏分離政策により、修正派になったのは、明治6年(1873)8月28日のことです。(P.238)

明治7年(1874)1月、高柳の講入社誓文には「修正講社中」となっています。同年6月、高柳講社を含む関東巴講社は黒沢の御嶽神社里宮を再興しました。この御嶽神社は、戦後、本来の御嶽信仰に復帰する運動から、地元三岳村黒沢に本庁を置く「木曽御嶽本教」の中核となったお宮です。(P.238~239)

右手には、石祠が2基


左手には、石祠が3基


不動明王の下には、龍をかたどった吐水口


御嶽神社の前から 切り通しを見下ろした景色