高柳御嶽神社は、以前ご紹介した「かにうちの森」の近くにあります。
高柳御嶽神社の位置 かにうち橋の北西にあります |
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切り通しの道の入口に 「御嶽神社」への案内板があります |
坂を上がりきる手前の右手に 神社が見えてきます |
以下のサイトに、高柳御嶽神社は 元は「
そこで、『沼南風土記』(沼南町役場 1981)で「越後退」を調べたところ、P.176~177に載っていました。
(十) 越後退 (高柳)
そのむかし、牧野清十郎という武士が、二千石を領して高柳地区に邸宅を構えていました。
そののち、牧野氏は一万三千石の領主に出世し、越後に移ることになりました。
出発の際、この屋敷跡を「越後退」と命名して、永く記念するように里人に告げました。
それ以降、ここを “越後退” と称し、のちに信仰心の篤い村人たちは、ここに御嶽神社を祀リました。
それは、両側が高い丘で、その谷間の奥まった所にあり、豊かな清水が湧き出ていました。
とくに滝不動尊の蛇口からは、滝のような水が出ていましたが、戦時中、軍の要請によって、同神社はもとの場所から三~四百メートル離れた現在地に移転しました。
低い石段の上に 社務所があります |
この社務所は祈願堂 一般的な神社の拝殿に当たります |
この建物について、『沼南風土記(二)』(沼南町教育委員会 1989)には以下のように書かれています。
祈願堂といわれる拝殿に当る建物の奥から、内側の鳥居をとおして山頂の奥宮(石造)を拝するようになっており、お山を祈拝する形は富士浅間社と全く同じで、山岳信仰の姿をよく現しています。 (P.240)
社務所右手に、建物に接して 鳥居と石祠があります |
鳥居や石祠 |
鳥居に向かって左側から見たところ |
御嶽神社の石祠 左右にも石祠があります |
「高柳社」と彫られています 「高柳講社」の意味でしょう |
『沼南風土記(二)』の P.236~241には、「御嶽信仰」について詳しく書かれています。
このうちで高柳御嶽神社に関する一部を書き抜きます。
文書にあらわれる高柳の御嶽講ですが、「御嶽講入社帳」の安政元年(1854)正月9日記載分に「巴丸東講」として講社ができたとあります。(P.238)
明治政府の神仏分離政策により、修正派になったのは、明治6年(1873)8月28日のことです。(P.238)
明治7年(1874)1月、高柳の講入社誓文には「修正講社中」となっています。同年6月、高柳講社を含む関東巴講社は黒沢の御嶽神社里宮を再興しました。この御嶽神社は、戦後、本来の御嶽信仰に復帰する運動から、地元三岳村黒沢に本庁を置く「木曽御嶽本教」の中核となったお宮です。(P.238~239)
右手には、石祠が2基 |
左手には、石祠が3基 |
不動明王の下には、龍をかたどった吐水口 |
御嶽神社の前から 切り通しを見下ろした景色 |