そのため 馬の恰好な水呑み場となっていました。
下の絵図は、今から約300年前に描かれたものです。
水色に塗られている部分は 当時、谷津田のあった場所です。
その鼻先の部分が谷頭です。
また、濃い色に塗られている部分は、溜井とか池などとよばれた場所で、やはり野馬の水呑み場でした。
いずれ 各所にあった野馬の水呑み場について まとめてみたいと思っていますが、今回は金山落の最上流部に着目したいと 思います。
享保7年(1722年)の牧絵図〈部分〉 〔満願寺所蔵〕 (元図: 鎌ケ谷市郷土資料館『絵図と地図でみた鎌 ケ谷の400年』より) |
この絵図が描かれた頃に
は、一本椚牧という名前の牧が存在しました(後に中野牧に統合されました)。
金山落の谷頭は、上の絵図の「壹本椚牧」という文字の上の部分、Yの字を逆さにしたような部分です。
秋元病院の近くにあったという野馬の水呑み場については前にふれました。
今回はもう一方の瓢簞という小字名の場所にあった野馬の水呑み場を探ってみたいと思います。
この瓢簞という地名は、この場所にあった瓢簞形の池の名前からついたといわれています。
いまでもバス停の名前「ひょうたん」や公園の名前「瓢簞公園」
に、この小字名は使われています。
風間街道沿いにあるバス停「ひょうたん」 |
このバス停の表示には「第2北総病院入口」とありますが、この病院の近くの風景を見てみましょう。
バス停からしばらく病院に向かって歩くと、どんどん道が下っていきます。
第2北総病院前の三差路 左手に進んだところにバス停があります |
病院近くの三差路の風景は、後日 取り上げる予定にして
いる入道溜三差路の風景とそっくりです。
この周辺には池があったのではないかと感じさせます。
この近くには1980年代から大きな建物が建設されています。
1984年 鎌ケ谷五中の開校、1986年 旧クリーンセンターの設置(2000年4月から休止中)、1996
年 第2北総病院の設立。
これらの建設の前に、周辺の造成が行われたのではないかと思います。
2013.05.09 追 記
5月1日に 市のクリーン推進課にききにいったところ、旧クリーンセンターの隣には「旧々クリーンセンター」と
でもいうべき建物が1973年に設置されており、この業務が旧クリーンセンターに引き継がれたのち解体されたようです。
最近、課の方が調べていてわかったことで、とても驚かれたとのことでした。
当時の資料は既に廃棄されてしまっており、それ以上の情報を得ること
ができませんでした。残念です。
(この追記 終わり)
もう一度坂を上り、今度は病院の横を回り込んで、鎌ケ谷五中の方へと急な坂を下りていきます。
この坂になっている右の部分は谷頭だったのではないかと思われます。
そこをクリーンセンター建設のため、盛り土して埋め立てたのではないでしょうか。
左は第2北総病院、右は旧クリーンセンター 坂を下り終わると 右手の方に鎌ケ谷五中が見えてきます |
坂を下りきったところ、五中へと続く通学道沿いに水路があります。
Y字に分岐した谷頭の一方の名残です。
水路は写真の奥から手前の方へと流れています |
この水路が2つに分かれた先に池ができていたのではないかと思います。
その池は、病院の隣にある旧クリーンセンター内の、現在建物が建っていない場所辺りにあったのではないでしょうか。
谷頭から流れ出た水が低地に溜まっていくことがありま
す。
白井の船橋カントリー倶楽部内にある清戸の泉は、湧き水が流れ出た先には大きな池ができています。
池は、この清戸の泉のようだったのではないでしょうか。
残されている地図を詳細に検討してみる必要がありそうです。
2013.05.04 追 記
ki さんの情報により『鎌ケ谷市史 資料編Ⅴ(民俗)』P.522 に瓢簞池についての記載があることを知りました。
以下に引用します。
「明治後期に埋め立てられてしまったが、ヒョウタンの形をした池があって、村人は瓢簞池とよんでいた。この池は、江戸時代に、ここに中野牧という幕府直轄の牧場があったとき、馬の水飲み場にされていたものといわれる。」
(この追記 終わり)
明治13年(1880年)
に参謀本部陸軍部測量局によって作成された『迅速測図』を見ておきましょう。
(『迅速測図』佐津間他近傍村落より) |
現在の瓢簞周辺は、牧内の根村軽井沢新田に属する部分にあり、勢子土手の東にあります。
Y字に分岐した
西の方の谷頭は、現在の秋元病院の近くに位置しており、勢子土手の内側にあります。
同じ水呑み場でも用途が違っていた可能性も考えられます。
2014.01.28 追 記
その要点は、以下のとおりです。
1.明治時代の迅速測図で瓢箪の周辺を見ると、金山落が現在の第2北総病院の方向に入り込んでいるのが等高線で確認できるが、その等高線の先端部分にポツンと離れて丸い等高線がある。この部分は窪地であったと思われる。
2.国土地理院の電子国土地図で標高を見ると、上記の丸い等高線の中心と思われる箇所は標高26.08mである。周辺は28.93m、27.26m、28.85m等となっており、この位置の標高が際立って低い。
3.該当の場所は現在畑地となっている。周辺の農家に聞けば何か証言が得られるかもしれない。
そこで、あらためて迅速測図と国土地理院の地図を見てみました。
その2枚を並べてみます。
迅速測図 金山落の谷頭近くの窪地 (赤い線) |
上の地図で赤く印をつけた場所は坂の下の低地にあります。
この記事の3枚目の写真を見ると、ぐっと下がった場所にあることがわかります。
坂を下りてから撮った写真が下に載せたものです。
いまも人家が建っていません。
北側(道路側)からみた窪地の景観 |
私は、Y氏がいわれるように、この場所には かつて瓢箪池があったのではないかと思うようになりました。
➜ 鎌ケ谷の野馬土手(8) 「野馬土手在りき」の木柱