この本は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができますが、文字づかい等が若干古くなっているので、書き改めてみました。
また、読みやすいよう段落を多く設け、内容に応じて小見出しをつけました。
Thunberg の読み方は、「ツンベルグ」を「ツンベルク」に直してあります。
ただし、よりスウェーデン語の発音に近いのは「トゥーンベリ」ですので、頭の中で読みかえていただけると幸いです。
あえて「ツンベルク」とした以外は、スウェーデンやオランダ等の人名や地名などについては、できるだけ現地の発音に近いものに変更しました。
『ツンベルグ日本紀行』 仏訳本 元版の口絵 |
『ツンベルク日本紀行』 序
山田 珠樹□□
ツンベルク旅行記 Resa uti Europa, Africa, Asia, förrättad åren 1770-1779 の日本紀行の部分だけを、1796年パリ出版の、同地国立図書館東洋文書係 L・ラングレ(L. Langrès)の手になった仏訳本によって、邦訳したものがこの本である(原文はスウェーデン語)。
・ 「uti」(ユーティー)は、前置詞で「に」の意。
・ 「Europa, Africa, Asia」は、スウェーデン語では「エウロッパ、アーフリカ、アーシア」と発音か。
・ 「
・ 「
・ 「förrättad åren 1770-1779」は、「滞在期間 1770~1779」といった意か。
ツンベルクの生い立ち
ツンベルク(Carl Peter Thunberg)は1743年11月11日にスウェーデンのヨンショピング(Jönköping)で生れた。父親は牧師であったともいい、あるいは炭坑の図書係をして傍ら小商いをしていたものであるともいう。いずれにしても早く死んでしまって、その子供たちはあまり楽でない境遇に置かれたのであったが、幸いにして母親が商人フォッシュベリ(Forsberg)という人と再婚したために苦しまずに済んだということである。
ウプサラ大学に入学
ツンベルクは18歳までその土地の学校で教育を受けたが、非常に優秀な学蹟を示したので、ついに1761年にウプサラに送られ、そこの大学でさらに研究を積むことになった。
主として学んだのは医学及び博物であった。ことに当時、同大学には植物学の世界的大家 大リンネ(Linneus)が齢63歳でなお矍鑠(かくしゃく)として教鞭をとっていたので、これに厚く師事した。かくて在学9カ年の後、De Ischade という論文を提出して博士の称号を得るに至った。
奨学資金と研究旅行 ― リンネとビュルマンによる導き ―
当時、学資ゆたかならざる優秀の学徒にして旅行をして研究を完成せんと欲するものに、学資を供することを目的としてケーリング(Koehling)(一書に Koehzing とある)という人がケーリング奨学資金(Stipendium Kohleanum)というものをつくっていたので、ツンベルクはこの補助を受けることになった。
よって、これに僅かながら自分の貯金を加えて、1770年8月13日にウプサラを出発して、研究旅行の首途に上った。
デンマークを通って、10月初めにオランダのアムステルダムに到着し、リンネの紹介により植物学者ビュルマン(Burman)に会ったところが,非常に優遇され、その所蔵する東洋の各種博物見本を分類しかつ命名することを託された。ツンベルクはこの仕事にみごとな成績を示したので、ビュルマンは非常に喜んで、後日、ツンベルクをオランダ政府に喜望峰の博物調査を完成させるのにもっとも適当な人として推薦する決心をした。
ツンベルクはオランダに滞在することわずかにして、さらにその旅行を続け、12月初めにパリに出た。パリでは王立植物園やゴブラン織り工場を見学したり、病院で教授連中に従って診察したり、その講義を聴いたりした。
そして翌年の7月末にまたオランダに帰っていった。ビュルマンは一層ツンベルクに好意を示し、彼を喜望峰の動植物研究に派遣するために非常な努力をしてくれた。その結果、二三の富裕なる篤志家がこの費用を負担してくれることになった。
同時にリンネはツンベルクに、その産物があまり知られていない日本にぜひ赴くべきことを慫慂した。幸いにしてツンベルクの保護者たちはこの日本行きの費用をも弁じてくれることを約束してくれた。
ビュルマンについては以下をご参照ください。
➜ Wikipedia ヨハネス・ビュルマン
➜ Wikipedia ニコラアス・ビュルマン
上記の「ビュルマン」が、父の方か子の方か明示されていませんが、以下のサイトの記載によると、リンネの旧友である父の方であるようです。
➜ Art Directory Carl Peter Thunberg
ツンベルク 65歳のときの肖像画 |
アフリカでの調査
かくて準備的研究を終えた後、オランダ東インド商会の員外船医という資格を得て、極東に至る前に少なくも2年間は喜望峰に留ることを約束して、ヨーロッパを出発した。1771年の11月30日にテセル(Texel)(オランダ領の島)から出帆し、翌年4月17日にケープタウンに到着した。
ツンベルクは直ちに研究に従事した。初めケープタウンの近郊を歩いて種々の調査をしていたが、続いて当時、植民地と絶えず闘争していたカフィル族、ホッテントット族の住む アフリカ内地に危険を冒して3回の大旅行をした。
そのうちにこの地方の博物材料をことごとく蒐集し得たし、また日本行の都合もついたので、1775年の3月初めにこの地を出発して、極東に向った。
日本への旅
1775年5月18日にジャワのバタヴィア(現ジャカルタ)に到着した。下船後直ちに日本行隊長船の主任医に任じられたけれども、出帆までには3カ月の余裕があったので、この間にジャワ島の産物・習慣などを観察し、かつジャワ語の語彙すら蒐集している。
1775年6月20日にいよいよ日本に向ってバタヴィアを出帆し、8月14日に長崎に入港した。時にツンベルクは33歳である。
翌1776年、オランダ使節に従って、江戸に参府した後、豊富な研究を貯えて、12月3日に日本を離れた。
バタヴィアには1777年1月4日に到着し、7月までここに滞在して調査を続け、さらにセイロン島に移って、ここにも半年間滞在して調査をなし、ようやく1778年2月6日にコロンボを発し、ケーブタウンを経てオランダに帰ることができた。
ヨーロッパを見ざること7年間、この間に完全にその学徒としての任を果たし、アフリカ、インド、日本の豊富な博物材料を蒐集したのである。
故国での栄誉
オランダで東インド会社の職を辞するや、イギリスに渡り、諸地訪問の後 1779年3月10日に故国スウェーデンのイースタ(Ystad)の地を踏むことができた。この9カ年間の大旅行を記述したものがここに一部を訳出した旅行記である。
ツンベルクは不在中にウプサラ大学の植物学講師に任ぜられていた。よって直ちに任に就き、さらに1781年に小リンネ(大リンネは1778年に死す)が海外旅行中に代わって植物園長をしたこともあるが、同年11月に員外教授( Professor extraordinarius)となり、1784年に小リンネが死するや、植物学及び医学の正教授に任ぜられた。(翌1785年にウプサラ大学学長となる。)
この職に非常に真面目に尽くし、1785年には国王よりヴァサ(Vasa)動章を授けられ、1815年にはヴァサ勲位のコマンドール(Commandeur)に叙せられたが、これは学徒としては前例のない名誉であって、大リンネすらこの栄をうくるには至らなかったものである。
著 作 物
ツンベルクの余生は将来した莫大な植物標本の整理に費やされた。その結果は1823年に出版された『喜望峰植物誌』(Flora Capensis)及び1784年に出版された『日本植物誌」(Flora Japonica)となって表われたのである。
なお前者に先だって『喜望峰植物誌前説』(Prodromus plantarum Capensium)を発表し、後者に続いて『日本植物図譜』(Icones plantarum Japonicarum)を出版している。
これらの著述は多くの新種を世に発表しているのみならず、リンネの植物整理法に改訂を加えたところが少くない。なお新種の発表については以上の四著では勿論足りないので、少なからぬ数の小論文が発表されている。
学術的著述のほかに、彼は旅行記を1788年から1793年にかけて四冊に分かって出版したが、これは非常に興味のあるものとして、間もなく英仏独 各国語に翻訳された。
ツンベルクの肖像 |
リンネとツンベルク
かくて、その学名ようやくヨーロッパに高く、各国の多数の学会の会員に推薦され、ライデン及びロシアからは大学教授として赴任することを懇願されて辞退に苦しみ、リンネの高弟として出藍の誉れがあった。
42歳のとき、妻をめとったが、彼女は子なくして1815年に死んだ。
かくてツンベルクは、1828年8月8日に 84歳でウプサラに近きトゥナベリ(Tunaberg)で永眠したが、常に健康であり、かつ その隔てなき性格と親切な心とは万人から愛され、ことに学生から愛されていた。
スウェーデンのある学者は次のごとくいっている。
『リンネ及びツンベルクの二大学者は同じ方面を別な道で歩いていったものである。
リンネは一般法則を求め、ツンベルクは特殊を離れずにいた。
リンネは時代に先行し、ツンベルクは常に時代とともにいた。
リンネは新植物を増加することはしなかつたが、ツンベルクは数万の新種を発表した。
リンネは過去の材料を整理したものであるが、ツンベルクは新知識を人々に授けたものである。』
ツンベルクと日本
かかる高名の学者が150年の昔に日本に訪れたということは、日本にとって非常な幸福であった。長崎出島のオランダ屋敷に関係のある多くの外人が忘れられても、ツンベルクの名は、ケンペル、シーボルトとともに、常に記憶に新たなのは当然のことである。
かかる人の著述があれぱこそ、ヨーロッパ人は初めて極東に日本という文明国のあることを信ずるに至ったのである。かかる人の訪日によってこそ初めて泰西の文化が我が国に輸入されたのである。その功績は忘れることのできないものである。
これ以降は、話題がツンベルクから逸れますので省略します。
また、本文には日本での見聞がたっぷりと書かれています。
興味のある方は、次のリンク先でご覧ください。
➜ 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー『ツンベルグ日本紀行』
➜ ツンベルク (その3) 邦訳『日本紀行』の目次