5 生大師
稲荷神社と妙光院から少し離れた場所に、生大師と三宝大荒神社があります。
『千葉県印旛郡誌』には、これらに関して述べられていません。
また、これらは 「迅速測図」や戦前の地図には載っておらず、戦後すぐの地図以降において認めることができます。
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明治初期の「迅速測図」
➋ 大師堂 ・ 丸山観音堂 ➌ 稲荷神社 ➍ 妙光院 |
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戦後の地図(1944~1954間のもの)
➋ 大師堂 ・ 丸山観音堂 (正しい地図記号は卍です)
➌ 稲荷神社 ➍ 妙光院 ➎ 生大師 ➏ 三宝大荒神社 |
『印西町石造物 第三集 草深地区調査報告書』
(前掲書)に 「生大師」として載っている場所には 大師堂が建っています。
「いきだいし」、「なまだいし」、「しょうだいし」 ―― どう読むのでしょう。
追 記 2017.01.21
印西大師について とても詳しいS・Eさんにお会いしたときに、「生大師」は 「なまだいし」と読むのだと教わりました。
ネットで調べても分からなかったので、とても有難かったです。
この追記 おわり
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寺院の建物が見えてきます |
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大きな大師堂でした 「南無大師遍照金剛」の赤い幟 |
境内にある石碑の多くは、昭和の初めに造立されています。
それらのなかには、昭和4年(1929)の「籠堂建築記念碑」というものがあります。
これを見ると、昭和の初めに 大師堂の原形ができたのではないかと考えられます。
追 記 2017.01.26
S・Eさんが、『草深300年誌』から「生大師」に関連する箇所を書き抜いて送ってくださいました。
生大師の山崎氏は乗馬の名手であった。
明治末年、草深原の「大だまり」の周囲に馬場をつくり、草競馬をひらき、千葉・茨城の各地からこれに参加するものが多かったという。
大正から昭和の初期にかけ、「生大師」の名声とみに上がり、毎月21日の大師様の日には遠くから参詣するものあとをたたず、昭和2年には弘法大師の尊崇あつかった三宝荒神を大和国より勧請してこれを祭った。
これが現在「生大師」の寺院のわきにある「三宝荒神」の社である。
生大師山崎氏は弘海と号し、生きながら入定せんとしたが、警察の許すところとはならなかった。
(『草深300年誌』より)
うーん、すごいです。
実に貴重な情報です。
S・Eさん、本当にありがとうございます。
大師堂の後ろに、生大師・弘海に関係した建造物があることを教えられ、再度写真を撮りにいきました。
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その建造物は、大師堂の裏にあります |
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大師堂の裏手に回って見たところ |
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建造物は、石で組まれています |
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奥には扉のようなものが見えます |
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上には「弘海」と彫られた碑があります |
この追記 おわり
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境内にあった地蔵堂 |
6 三宝大荒神社
生大師のすぐそばに
三宝大荒神社があります。
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三宝大荒神社 鳥居と拝殿 |
この神社は、神仏習合の三宝荒神を信仰対象にしているようです。
詳しくは、以下をご参照ください。
➜ Wikipedia 三宝荒神
拝殿の手前に 石碑が建っていました。
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三寳荒神 玉垣費奉納記念碑 昭和9年(1934) |
『印西町石造物 第三集 草深地区調査報告書』
(前掲書)には、三宝大荒神社境内にある奉納記念碑として、上記のものと昭和6年(1931)及び昭和12年(1937)のもの、合計 3基が報告されています。
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拝殿前に建っている 3基の奉納記念碑 |
このことから、三宝荒神を祀る社は、昭和の初期までには できていたのではないかと推測されます。
社は、生大師の籠堂と同時期に建てられたのではないでしょうか。
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後ろから見た三宝大荒神社 左は本殿、右は拝殿 |