2016年7月16日土曜日

師戸川上流沿いの神社・仏閣 (印西市・草深)

(1) 大師堂・丸山観音堂

印西市の南部を流れる師戸川。
その上流部は草深地区にあります。

師戸川上流部の流れ

師戸川の上流部から印旛沼に至る流域は水田地帯となっており、美しい里山風景が広がっています。

草深地区の水田風景

師戸川の上流沿いには 多くの神社や仏閣が存在するとA氏から教わり、それらのいくつかを訪ねてみることにしました。

師戸川上流沿いの神社・仏閣等
そうふけ ふれあいの里  大師堂 ・ 丸山観音堂 (正しくは ➊寄り)
稲荷神社  妙光院  生大師  三宝大荒神社
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1 大師堂


「そうふけ ふれあいの里」のすぐ近くに 大師堂と丸山観音堂があります。

右は印西大師の大師堂、左の大きなお堂も大師堂


この大師堂は、89体の大師像を蔵しています


大師像の一部

五十嵐行男(監修)『印西大師八十八か所 *印西・白井編*』(北総ふるさと文庫 2005)の P.4には、この大師堂について、次のように書かれています。

・草深の大師堂は、旅の僧 亮観の発願によるという。

・大師堂は、四国八十八か所を小型化していて、一堂を拝すれば、八十八か所を巡ったものと同じご利益があるとされている。

・堂には、89体の大師像が祀られ、このうち66の像(「88の像」の誤植と思われる)は亮観に感銘した村人が寄進したもので、文久2年(1862)と3年(1863)の銘が刻まれている。

よく見てみると、右端の大師像の台座には「九十番」と刻まれています
(2013.04.26 撮影)    〔2016.07.25 追記〕

印西町教育委員会発行の『印西町石造物 第三集 草深地区調査報告書』(1983)によると、大師像の造立年は以下のとおりになっています。

・ 1~21番  文久2年(1862)
・ 22~87番 文久3年(1863)
・ 88番   文久2年(1862)
・ 89番   慶応元年(1865)

印西大師の札所は、全部で89カ所あります。
全国津々浦々に「新四国八十八ヶ所霊場」がありますが、札所の数は いずれも、原型である四国八十八ヶ所霊場に合わせて88カ所であるのが一般的です。

90番の造立年は、平成元年(1989)と台座に刻まれています。
90番の大師像は、報告書が上梓された頃には、まだ大師堂内に置かれていなかったことになります。

印西大師 第79番札所の大師堂

追 記 2016.08.09

「印西大師」については、印西市立印旛歴史民俗資料館にあった説明が、簡にして要を得ていますので、以下に引用します。

印西大師いんざいだいし


印西大師は 「でぇしさま」と呼ばれ、法螺貝の音と白装束のいでたちでの巡礼は 印西の春の風物詩です。

この講は、飢饉などによる民衆の困窮救済が目的で、享保6年(1721)(一
説には享保2年)に、笠神に所在する南陽院の臨唱法師の提唱により始まりました。
四国八十八か所霊場を移した札所を巡り、大師講講員によって伝承されています。

札所は、白井市、印西市にまたがり、89カ所の「本番」札所と 71カ所の番外の札所(掛所 かけしょ)が所在します。

結願は、三寺が1年交代で順番に結願寺になります。
南陽院(笠神) → 広福寺(師戸) → 来福寺(平賀) の順で、この結願寺が所在する地区の笠神・師戸・平賀の三地区は「元村」と称されます。

毎年 4月1日から9日まで泊りかけて行われていましたが、宿泊がなしとなり、平成19年からは 日数も短縮され、4月1日から6日までに変更になりました。
徒歩ではなく 車での移動になったことと、負担を少なくするためとのことです。

この追記 おわり


印西大師の大師堂の左手には、中ノ側(小字)地区の集会所が建っています。
集会所の名前には、「仲ノ側」の文字が充てられています。
石塔に刻まれている文字を見ると、元々は「仲ノ側」と書いたのでしょう。

仲ノ側集会所


2 丸山観音堂


丸山観音堂は、仲ノ側集会所の右手奥にあたる位置にありますが、観音堂の東側には参道があります。
いちど広い道に出て、参道から訪れた方が趣が深いと思います。

参道から見た丸山観音堂


丸山観音堂


参道の右側には、石仏等が並んでいます


写真中央は 三面八臂の馬頭観音像(1865)です 珍しいと思いました
(2013.04.26 撮影)    〔2016.07.25 追記〕


参道の左側には 庚申塔などが見られます

(丸山観音堂についての記事は、2016.07.21 に追記)


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