2013年11月1日金曜日

鎌ケ谷の野馬土手(11) 船橋市咲が丘に残る下野牧の捕込跡

鎌ケ谷市に残っている野馬土手の跡は、主に中野牧に属しています。
中野牧の南には下野牧(しものまき)が接しており、鎌ケ谷大仏から歩いてすぐの場所には下野牧の捕込跡が一部残存しています。

大仏十字路から井草三叉路の方へと歩くと、左手に千葉興業銀行が見えてきます。
道路を隔てて その反対側に下野牧の捕込跡があります。
その所在地は鎌ケ谷市ではなく、船橋市咲が丘です。

畑の奥に捕込の跡が見えます
作業をしている農家の方に必ず許可を得てから 土手へと進んでください


ここまで近づくと土手がはっきりとわかります


土手の盛り上がりがよく残っています


土手の上から見たところ


下から見上げたところ

かつての中野牧のようすは 絵の形で残っていませんが、この下野牧の絵は残っています。
江戸時代の観光案内とでもいうべき『成田参詣記』〔別名 『成田名所図会』〕(安政5年〈1858〉)の巻三には、下野牧の野馬捕りの絵が5面にわたって載っています。

『成田参詣記』原本  (千葉県デジタルアーカイブより)

なお、『成田参詣記』の作成者は、国立国会図書館サーチによると、「中路定俊(1783~1838)著、中路定得(1821~1870)補校、長谷川雪堤(1819~1882)ほか画」となっています。

ちなみに、以下の「下野牧野馬執の圖」を描いたのは「雪航」という人のようです。印の上にも「佐倉藩 雪航画」と書いてあります。
「雪堤」の印は、瓢箪の形の図案で囲まれ、縦書きで名が入っています。
印章を見ると、『成田参詣記』の図は 多くの人によって描いていることがわかります。

「下野牧野馬執の図」  其 一 (『成田参詣記』より)

まず、野馬捕りです。
勢子たちが、棒をもって馬を追っています。

其 二   「穿處(うど)へ追い入るの図」   (同 上)

「うど」というのは、「大込」と同じです。
第2回でふれたように、鎌ケ谷総合病院には「大込」の土手が残っていましたね。
「大升」(おおます)や「袋ごめ」ともいったようです。
野馬をまず「うど」へ追い込んでおいて、それからあらためて捕込へと追い込みました。

其 三   「込へ追こむの図」   (同 上)

「うど」から捕込へと追い込んでいます。

其 四 (同 上) 『総常日記』(文化12年〈1815〉)からの引用あり

清水浜臣(1776~1824)著の『総常日記』からの引用部は、

  「牧使ひ 心して捕れ 春までは
       野飼ひの牝駒 身籠もりぞする」

と読むのでしょうか。  やさしいこころねのうたです。

前半部分が どうしてもわからなかったのですが、古文書講座でいつもお世話になっているN先生のご教示で何とか読み取れました。

なお、『成田参詣記』の本文にも『総常日記』から長文で引用されており、読むと野馬捕りのようすが詳しくわかって面白いです(これは翻刻されたものを読みました)。

   「下野牧込之圖」(左)    其五「野馬を込より引立るの図」(右)

「下野牧野馬執の図」の其一~四は、鎌ケ谷市のパンフレット『国史跡 下総小金中野牧跡』にも載っています。
パンフレットに載っている図では文字が判読できないので、上の図は復刻本を利用しました。

すぐ上に掲載した「下野牧込之圖」と合わせて 次の絵を見ると、全体的にはどんな形をしていたのかが よくわかります。

上野牧捕込全体図 (『船橋市史  前篇』(1959)より)


下野牧の捕込は、昭和56年(1981年)5月26日~6月10日にかけて、船橋市遺跡調査会により発掘調査が行われています。
その詳細については同会発行の『小金下野牧捕込遺跡』(1982)にまとめられています。
調査当時の写真を見ると、30年前にはもっと広い範囲で下野牧の捕込が残っていたことがわかります。

下野牧捕込を西から撮った写真 (『小金下野牧捕込遺跡』(1982)より)


下野牧捕込を東から撮った写真  (同 上)


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