2016年5月3日火曜日

木下街道をゆく(4) 阿夫利神社 (印西市・高西新田)

その2 社殿と神社境内

阿夫利神社は小高い場所にあります。

この石段をのぼったところに神社があります


石段下の右手には井戸があり、その後ろには小祠があります


石段をのぼりきると 鳥居が建っています 二の鳥居になるのでしょうか


拝 殿 左手は御輿庫、右手は社務所


拝殿の正面 神額(扁額)が懸かっています


拝殿とつながっている本殿


本殿の後ろは 切り立った崖になっています


説明書き 「阿夫利神社の由来」

上の説明書きのうち 鎮座地から由緒までの部分は、大正2年(1913)発行『千葉県印旛郡誌』中の「永治村誌」にある「神社誌  (4) 村社 阿夫利神社」に拠っています(後編 P.542~543)(ほとんど、そのままです)
後ろの方の記述は省かれていますが、重要な部分ではありません。

「阿夫利神社の由来」の内容を以下に書き写します。


   阿夫利神社の由来


鎮座地
 千葉県印旛郡印西町高西新田字石尊に鎮座、境内面積は1150坪、神域内は老木鬱蒼として、森厳の気 自ら襟を正さしめる。

御祭神
 石凝留命いしこりどめのみこと石裂命いわさくのみこと日本武尊やまとたけるのみこと根裂命ねさくのみこと

由 緒
 明和元年(1764)、海上郡銚子海底より青石2個取上しに、その石、往々奇怪のことあり。その土地において、住民これを崇敬する者多し。
 以後、祈願もその願いに応じ利益少なからず。のち住民どもこれを名づけて世直し石尊と尊称す。すなわち悪風を直し正(せい)に帰せしむるが故なり。
 住民、或は その里に移し鎮守となさんとするものあり、或は 相模の国石尊社へ奉納なさんとするものあり。論議の末、ついに奉納するの議に決せり。よって俄に神輿を作りその内に蔵し、発程(はってい・ほってい)(出発するに当たっては) 方角を占して、各駅村を巡行し、まさに奉納なさんとす。
 同年12月中旬、近隣 誉田村及び清戸村へ着せり。それより浦部村・島見社に着し、ここに暫時安置し、程なく近隣同国相馬郡布佐駅へ奉送せんとせしに、あに図らんや時すでに月迫(げっぱく)(月末)の故か、同駅においては更に受けず引き返し、なおまた帰村の上 安置す。
 その夜、村吏の者 夢みらく、青衣の老人2名、来りて日く「我等を高西新田 鎮守両社の内ヘ合祭せよ」と言いすて消失せり。
 村吏驚きて、その夜明くるを待ち、同新田兼帯(高西新田管理の職務を兼ねる) 浦部・白幡両村一同 集議して、神意に任せ、同2年(1765)6月27日、右両社境内の凸地の頂に奉納す。
 よって年々歳々同日を以て祭る。

御神徳
 荒神なるをもって
  破魔勝運、家内安全、商売繁昌、交通安全、学業成就
に霊験あらたかなり。

御祭日
 初 囃 1月最終土曜日(宮内) 1月最終日曜日(本郷、白幡両区)
 渡御の道程における部落、各当屋にて御神輿の梯子立てをし囃す。
 例大祭 7月最終土曜日
 浦部区鎮守・鳥見社より発輿し、宮内、本郷を渡御し、白幡区鎮守・八幡宮に奉じ、阿夫利神社に至る。提灯をかざし、境内に至る。石段を登り来る雄姿と、境内における梯子立てはまさに当大祭の圧巻である。
    7月最終日曜日
 遠方各地より講中講員多数參拝す。なお当日神楽殿においては、千葉県指定無形文化財「浦部の神楽」が奉納される。

  平成4年7月吉日
                      阿夫利神社社務所


神楽殿 ここで「浦部の神楽」が奉納されます


神楽殿の横にも建物があります


御輿庫でした お神輿が置かれていました


境内には稲荷神社がありました


様々な石碑が境内にあります