「高西新田」という地名は、現在は印西市の大字名となっていますが、元々は 江戸時代に浦部村(「浦辺村」とも書く)と白幡村が 共同で「持添新田」として開発した新田の名前でした。
「
両村は高西新田に先立って、印西牧の一部に共同で「浦幡新田」を開発しています。
この「浦幡新田」も、印西市の大字名として現在用いられています。
「浦幡新田」の名前は、「浦部村」 と 「白幡村」から一字ずつとって付けられていますが、「高西新田」の名前の由来は不明です。
両村の西側にある小高い土地を拓いて新田としたからでしょうか?
さて、本題に戻ります。
阿夫利神社はかなり広く、その周辺を含めると 記事はけっこうな分量になるため、4回に分けて掲載することにします。
阿夫利神社への入口は、木下街道沿いに建っている大きな鳥居が目印になります。
木下街道沿いに 大きな鳥居が建っています かつて、鳥居は 旧道(鳥居右の道)を跨いで建っていたのだそうです |
阿夫利神社は、この鳥居のすぐそばにあるのでしょうか |
いえいえ、鳥居横の道を1km近く進んで ようやく阿夫利神社に着きます |
阿夫利神社境内のすぐ手前には、ガランとした建物があります |
建物の向かって左には、小堂があります |
小堂の中には 何も入っていませんでした |
そばには「南無大師遍照金剛供養塔」が建っています |
建物の右手には、手水鉢と 半ば以上埋もれた石塔があります |
建物の中を見ると、不動明王像が安置されています |
このガランとした建物は 不動堂なのでしょう。
阿夫利神社の石段脇にある不動明王像(線刻) |
印西町教育委員会『印西町石造物 第六集 永治地区調査報告書』(1989)によると、調査当時、この不動明王像は 不動堂と同じ「石尊下」にあったようです。
かつての不動堂や小堂が、どんな様子だったのか知りたいものです。