2018年10月21日日曜日

「大津川中流域の自然と歴史を歩く」 (その3)
 福寿院 ・ 善龍寺

福寿院と善龍寺を訪れました。
この二つの寺院は、400mほどしか離れていません。
両寺の関係については、のちほど ふれます。


(5) 福寿院 ・ 高柳観音堂


福寿院は、「宝光山 福寿院」と号す 真言宗豊山派の寺院。
寺号は付いていません。
元は流山市鰭ヶ崎の古刹・東福寺の末寺とのこと。

所在地は 柏市高柳(字・中島)1366番地。
どうして「中島」などという小字がついたのでしょう。

福寿院と その周辺
国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用

地図を見ると、中島の北で 大津川と その支川である上大津川が合流しています。
「中島」は、川と川の間で、半島状に北に突き出した地区の名として付けられたことが分かります。


「真言宗 福寿院」という 寺への案内表示板がありました

案内表示に「真言宗」と謳っていますが、千葉県宗教法人一覧には 仏教系の「単立」となっています。

学校法人福寿学園 沼南幼稚園 ちょうど運動会をやっていました
この右手に 福寿院と高柳観音堂があります


福寿院と高柳観音堂の遠景

福寿院に到着。

左が福寿院、右が高柳観音堂

観音堂の左前方に 石碑等、様々なものが立っています。

「高柳学校 風早南部小学校発祥ノ地」という石碑


六地蔵 寛延4年(1751)造立


左: 不動塔(1879) 右: 札所石「四國八十二番移」(1808)


不動明王坐像 下部右から 矜羯羅童子こん が らどう じ 制吒迦童子せい た か どう じ


観音堂が、ここの「メダマ」です。

高柳観音堂の説明書き

この説明書きは、おもに 『沼南風土記』(1981 沼南町役場)の Pp.124~126 に拠っているようです。
同書には、さらに詳しく書かれています。

観音堂 3間半四方であり、茅葺きです


観音堂の右手に大師堂がありました。

東葛印旛大師講の札所となっている大師堂


二つの札所となっており、扉も2カ所あります

二つの札所となっているのは、いかにも真言宗のお寺らしいと思います。

第82番札所の御詠歌の書かれた扁額 (右) 高柳 福壽院

第八十二番
  さんしゅう (讃岐)  根香寺 ね ごろ じ

よひのまの たえふる
  霜の消えぬれば
あとこそ かねの
  勤行のこえ

     高柳
     福壽院

(宵の間の 絶え降る霜の 消えぬれば 後こそ鉦の 勤行の声)


第27番札所の御詠歌の書かれた扁額 (左) 高柳 観音堂

第二十七番
  しゅう (土佐)  神峯寺こうのみねじ

み仏の ちかいのこゝろ
  かうのみね
やいばのぢごく
  たとひありとも

     高柳
     観音堂

(御仏の 誓いの心 こうのみね 刃の地獄 たといありとも)


観音堂の右手には大師堂がありましたが、その後方には石塔などが並んでいました。

観音堂の右手は広くなっており、五輪塔、石塔、石祠等がありました


「動物供養碑」 十一面観音を示す種字「キャ(カ)」が彫られています 


観音堂の左側は 地所が画されていて、入口には石塔が建っており、奥には集会所のような建物がありました。

神宮三社の名が彫られている石塔 (1897造立)


ここが福寿院のようです 元々は神宮三社が祀られていた場所かもしれません


(6) 善龍寺


福寿院から歩いて5分ほどの善龍寺に向かいました。

沿道で カリンやピラカンサが実を付けていました。

カリン(花梨、榠) バラ科 カリン属


ピラカンサ バラ科 トキワサンザシ属(Pyracantha


大津川17号橋 この橋まで ずっと大津川の左岸 さ がん側を歩いてきました


善龍寺は、「高柳山 善龍寺 龍正院りゅうしょういん」と号する 天台宗の寺院。
元の本寺は、印西市の名刹・泉倉寺せんぞう じ とのこと。
柏市には、同じ「善龍寺」という名の寺院 が 鷲野谷にもあります。

所在地は、柏市高柳(字・馬洗戸 ま らい ど )169番地。

善龍寺に到着 六地蔵が見えます(1713造立)


東葛印旛大師講の結願記念碑 どちらも「南無大師遍照金剛」とあります

大きな結願の記念碑です。
左は 昭和62年(1987)建立、 右は 昭和30年(1955)建立。


善龍寺 山門 境内左手に鐘楼、右手に観音堂が見えます


如意輪観音堂


善龍寺 本堂


東葛印旛大師講 第2番札所の大師堂

時間に追われ、扁額を撮りそこないました。

四国八十八カ所霊場の第2番は、日照山 極楽寺。
その御詠歌は、
  極楽の 弥陀の浄土へ ゆきたくば 南無阿弥陀仏 口癖にせよ

扉の欠けたところから お大師様が覗けます


「五葉の松」 柏市指定天然記念物


福寿院と善龍寺の関係については、『沼南風土記』(1981 沼南町役場) P.126 に、以下のように書かれていました。

福寿院は、もともと特定の檀家をもたず、住職は当地区の鎮守・香取神社の別当職をつとめ、寺は その氏子(香取神社の氏子)の手によって維持されてきました。
つまり、高柳地区は、善龍寺は檀家、福寿院は氏子とわりきって、ともに共存共栄をはかってきたようです。

大村にみられる宗教上の好例として、注目される現象です。

福寿院には 山門や本堂らしき建物が見えず、善龍寺には 山門や鐘楼、堂々たる本堂があって 墓地を備えていることの理由が分かったような気がします。

高柳香取神社は、福寿院の東700mほどに位置する大きな神社です。
  船取線沿いにあり、その隣には 赤い看板の「支那そば・ふなとり」があります。

福寿院と その周辺 (明治時代はじめの「迅速測図」から)

今日では、県道8号(通称「船取線」)が敷かれ、周囲の道路も整備されて、福寿院から香取神社に行くための経路も かつてとは違っているのではないかと思います。
明治時代のはじめは、江戸時代から変わったばかりで、その様子を色濃く残しています。
「迅速測図」を見ると、福寿院と香取神社は ほぼ直線的に結ばれていたようです。

福寿院から香取神社までの部分を拡大 (1880 「迅速測図」から)
「千葉縣下總國 東葛飾郡佐津間村・逆井村 及 南相馬郡髙柳村 近傍村落」 部分


➜  「大津川中流域の自然と歴史を歩く」 (その2) 「かにうちの森」 ・ 大津川沿いの道

➜  「大津川中流域の自然と歴史を歩く」 (その4) 徳本 ・ 神明社