印西市内の鳥見神社の4回目。
今回は、「大森鳥見神社」を取り上げます。
所在地は、印西市大森〔字
大畑〕1943番地です。
大森鳥見神社は、印西市役所から程近い場所にあります。
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周辺案内図 |
近くには、
上宿古墳や
長楽寺があります。
上の「周辺案内図」の画面をクリックし、拡大して ご覧ください。
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大森鳥見神社の鳥居 明神鳥居です |
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神額には「正一位鳥見大明神」とあります |
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本神社についての簡潔な説明書きがあります |
以下に書き写します。
大森島見神社
大森島見神社は、饒速日命・御炊屋姫命・宇摩志眞知命の三柱(神様の数え方)を祀っています。
鎮座年は明らかでありませんが、本殿は寛永13年(1636)12月再建、延宝4年(1676)修繕、文久3年(1863)の再建の記録があります。
大鳥居は元禄12年(1699)5月の建立で、手水石は嘉永2年(1849)奉納、狛犬一対は大正5年(1916)奉納、御神輿は寛政6年(1794)に造られたものです。
本殿には四周に見事な彫刻が施されています。
杉の木立に囲まれた境内は、797坪(約2,630㎡)の広さを有し、さらに拝殿の左右に榧(かや)と銀杏の御神木は樹齢500年以上の巨木です。
現在、平岡の鳥見神社に伝わる獅子頭と獅子舞は、元来、大森の鳥見神社に伝わるもので、赤松宗旦著『利根川図志』によれば、大森島見神社では文明年間(1469~86)の頃から獅子舞が社前で舞われていたと伝えられています。
印 西 市
この神社の境内には、実に多くの情報が掲示されています。
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『常陸国風土記』の有名な下りが、由緒書きに書かれています |
「御神徳」と「御由緒」の部分を以下に書き写します。
御 神 徳
古事記によれば、饒速日命が瓊瓊杵尊に先立ち河内国に天下り、大倭国鳥見の白庭山に遷り住み、登美(鳥見)の族長 長髄彦(ながすねひこ)の妹、御炊屋姫命を后にされ、宇麻志間知命(物部氏の祖先)が誕生した旨 記されており、神武天皇の御東征に際しては、大伴氏と並び、天皇の親衛軍として国土平定に力を尽くされたという。
大神は、開拓の祖神であるとともに、病気平癒、安産子育て、五穀豊穣、子孫繁栄等の御神徳を顕し給う。
御 由 緒
大森の鳥見神社は、崇神天皇の御代に全国平定の基礎を固めた大和王朝の東国経略に伴い、有力豪族であった物部氏族がこの地方に進出開拓、経綸の勢威を示すと共に、その安全と繁栄を祈り、土地神(くにつ かみ)として大森の地に祖先饒速日命の霊を祀ったのが創建の由来と承る。
『常陸国風土記』によれば、古墳時代の前期(4世紀)に景行天皇が日本武尊の戦跡を廻られ鳥見ヶ丘に立って霞の郷(常陸国)を眺望されたと記されている。
以下、その原文である。
大足日子天皇(景行天皇)登下総国印波鳥見丘。
留連遙望顧東勅侍臣曰。
海即青波浩汗。陸即丹霞空濠。国在其中。
(オオタラシヒコ=スメラミコト景行、下総の国のいなみ とみの丘に登る。
とどまりのぞみ、東を顧みて おもとひとに さとしていわく。
「海は なみただよい、陸は かすみ、たなびく。国はその中に在り」と。)
〔 海にただよう青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるように
この国は見えることだ」と。 〕
祭礼の際、社前にたなびく幟は巾1m余り、長さ10m余りで 一対あり、「海即青波浩汗」・「陸即丹霞空濠」と記されており、いずれも安政3年(1856)における氏子の奉納で、水雲宮本茶園筆となっている。
当時、海が銚子の河口から内陸に深く侵入していて、北浦、霞ヶ浦と共に、印旛沼、手賀沼を含めて「香取の海」と呼ばれ、その南岸に広がる下総台地の何処かに「鳥見ヶ丘」があったと考えられる。
そこには古来「鳥見十八社」が点在している。
印西市(大森、平岡、小林、小倉.和泉、浦部)の外に、白井町、沼南町、本埜村、印旛村にわたり、古くから鳥見の信仰と崇敬の念が深まり、今日に至っている。
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本神社の獅子舞が 平岡鳥見神社に伝えられた経緯が書かれています |
獅子舞について
『利根川図志』によれば、当神社では 文明年間(1469~87)頃から獅子舞が社前で舞われていた。
毎年4月28日を「御事」と言い、古新田の小川で馬を洗い、背に御幣を奉じた馬を先頭に、神楽橋(鹿黒橋)際で悪魔払いの獅子舞をしてから、「道笛」にみちびかれて社前に至り、豊作を祈願して演舞したといわれている。
これが、延宝7年(1679)に平岡の鳥見神社に伝えられ、今は県指定の無形民俗文化財となっている。
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掲示板には カラー写真が貼られていました |
写真の説明が以下のように書かれていました。
「浦安の舞」 を
小学生が拝殿で奉納 しているようです。
神前神楽舞 「浦安の舞」
昭和59年(1984)より石井宮司のお計らいにより、祭礼には現在小学校6年生女子4名により奉納が行われている。
この舞は、
昭和天皇御製 〔昭和8年(1933)〕
天地の 神にぞいのる 朝なぎの
海のごとくに 波たたぬ世を
を神楽の歌詞として、 昭和15年(1940)、宮内省が謹作曲・作舞したもので、神社本庁の本庁の推薦により、神霊をお慰め奉っている。
YouTube には、多くの「浦安の舞」の動画がアップされていますが、それらを見て、以下のものが本神社で奉納されているものに一番近いのではないかと思いました。
➜ 2016 浦安の舞
「浦安の舞」は、前半が「扇舞」、後半が「鈴舞」と分かれています。
鈴の音がさわやかな「鈴舞」を ぜひ、ご覧ください。
本神社内で得られる情報だけで すでに十分だと思いますが、重複していない部分もあるので 100年前の記述も載せておきましょう。
大正2年(1913)発行『千葉県印旛郡誌』所収の「
大杜村誌」のうち、「神社誌」に 以下のように書かれています(P.521)。
(2) 村社鳥見神社
大森村 字大畑にあり、饒速日命、木花開邪姫を祭る。
由緒不詳なれども、明治43年(1910)12月9日 許可を得て同所 字後庵2636番地にありし浅間神社を本社に合祀す。
社殿、間ロ 1間、奥行き 5尺。
境内、797坪。
氏子、350戸を有す。
10月17日を祭とす。
大庄屋 宮嶋勘右衛門代々、諸帳面を管理したりしが 火災にかかり全焼せるを以て その由来を詳かにするを得ざれど、棟札を按ずるに(調べたところ)古来より人民一致の鎮守として祭祀し、寛永13年(1636)12月に至りて本殿再建。
延宝4年(1676)3月修繕。
亨保12年(1727)9月14日、神部伊岐宿禰より「正一位烏見大明紳」の宣旨あり。
文久3年(1863)3月、また村民及び隣村有志の寄附により再建して今日に至る。
而して寛永以後、明治まで大森の鎮守として祠官を置きたり云々。
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手水舎 |
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拝殿と参道 |
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拝 殿 |
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拝殿の後ろの本殿と、それらの接続部となる幣殿 |
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壁面の羽目板には 美事な彫刻が施されたいます (向かって左側) |
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本殿背面の彫刻 |
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玉垣が煉瓦造り 珍しいです |
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玉垣に近寄って撮影 |
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合祀された石祠でしょうか |
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古木だと思われる樹木がありました |
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根上がりしてしまった樹木も見られます |
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この神社には トイレがありました |
付 記
掲載した写真は、2015年11月中旬に撮影したものです。