2018年1月7日日曜日

千葉県北西部の鳥見神社 (9) <柏市・布瀬ふぜ 香取・鳥見とり み 神社>

今回は、柏市・布瀬ふぜにある「香取・鳥見神社」を取り上げます。

明治22年(1889)、町村制施行により手賀地域の9村7新田が合併して手賀村が発足しました。
当神社は、大正4年(1915)に手賀村の村社に指定されています。
また、古き時代には手賀の島(布瀬村・手賀村・片山村・柳戸村)〔布瀬郷〕の郷社だったといいます。
このあと見ていただく当神社の規模の大きさは、こうした由来ゆえのものと思われます。

神社の周囲の森は、柏市の「ふるさとの森」となっています。
また、近辺には 宮前遺跡 ・ 布瀬貝塚 ・ 浅間貝塚などが存在します。

所在地は、柏市布瀬〔字宮前みやまえ〕1377番地です。

香取・鳥見神社の鳥居前


「香取・鳥見両神社再建記念碑」

本神社の概要を知る上で大切な石碑です。
以下に書き出してみます。

香取・鳥見両神社再建記念碑


  香取・鳥見神社

 当社「香取・鳥見神社」は、経津主命ふつぬしのみこと及び饒速日命にぎはやひのみことを祀り、人皇42代文武天皇、文武2年(698)9月15日創立を伝えられる。
 文武2年6月は、大干害にて諸作物が皆枯死し地方の人々は嘆き、近郷の農民が協力努力して当地に集合、氏神に祈願し忽ちにして甘露の雨を降らせ、五穀豊穣を得たが故に同年9月該所に一宇を建立したのが始まりです。

 本村産神うぶすなと無窮に尊敬崇拝し、その後天慶てんぎょう年間(938~947)平将門の反乱の際に保存し置ける宝物は、兵火で全部灰燼に帰し、本社は付近20ヶ村の総鎮守故に村民の信仰が厚く再建の議起こり、此の時下総国大介、千葉常重公が之を聞き費用全部支出して、社殿を再建するや一族を率いて参拝奉幣祈願し、神社尊敬の範を示した。

 大治だい じ 年中(1126~1130)、相馬郡布瀬郷と称し、布瀬、手賀、片山及び柳戸の村々を手賀の島と言い、同神社は手賀島の郷社でした。
 建長2年(1250)9月、手賀城主原筑前の守胤親殿が更に修繕を加え、文安3年(1446)原氏11代城主が本殿を改築する。
 寛延元年(1748)7月27日、時の嵯峨御所より勅使をして、菊と桐の御紋章、勅額、御紋章付きの幕、高張提灯及び式刀を下賜された。

 天保9年(1838)11月24日に改築された本殿は、総けやき6尺流れ破風造り茅葺き、3面の板壁に透彫り、向拝の柱に双龍を彫りつけ美麗なものであった。

 当神社は、大正4年(1915)8月6日、手賀村社に指定され此れを記念して同6年拝殿新築、本殿は昭和52年(1977)町の文化財に指定されました。

 昭和61年(1986)3月20日拝殿より出火、惜しくも強風に煽られ本殿も共に焼失してしまいました。
 そこで区民一同皆奮起し、氏子総代を始めに再建委員会を組織し区民より寄附を募りました処、区民は元より他市町の方々からも暖かい寄附を頂き、合計五千万円余の基金が寄せられ2年の工期を以って本殿並びに拝殿の再建を見るに至り此処に完成を祝して記念碑を建立。

   昭和63年3月吉日建立


燈籠と鳥居


鳥居 明神鳥居です

以前、ここには 木造・朱塗りの両部鳥居が建っていたようです。

神額には「香取・鳥見両神社」とあります


境内には多くの小社が祀られています


不明の小社


参道脇の景色


大師堂のようです 詳細は不明

『沼南町史 資料集  金石文(Ⅰ)』(沼南町教育委員会 1992) P.176~178によると、境内には 札所石というものが 全部で10基あるようです。
全て文化10年(1813)のもので、札所石の正面には「新四國〇〇番」と刻されています。
番号順に並べると、2番・3番・14番の3基と、82~88番の7基です。
いったい、どういうものなのでしょう。
布瀬にも白井市・平塚の村大師のようなものがあったのでしょうか。

四国八十八カ所 第19番札所の橋池山きょうちさん立江寺たつ え じ の御詠歌が書かれた扁額

御詠歌を漢字かな交じりで書き換えておきます、

いつかさて
西の住まいの(西方の極楽浄土の)
我が館(たち)(立江)
弘誓(ぐせい)の舟に
乗りて到らん


これはトイレ 洒落ています


「香取鳥見両神社社務所」と書かれています


参道がずっと続いています



「鴨猟記念碑」 昭和17年(1942)

碑文の文面は、以下の資料の末尾をご参照ください。

➜ 「手賀沼周辺の鳥猟」 展示説明 我孫子市史研究センター 清水 千賀子

『沼南町史 資料集 金石文(Ⅰ)』のP.188~189にも碑文を活字にしたものが載っており、参考になります。
ただし、全て漢文であり、句読点も一切ないので判読に苦労します。
以下は、句読点を付け、改行を入れて少しは読みやすくしたものです。


鴨獵記念碑


手賀沼獵揚碑  貴族院議員 理学博士 侯爵 黒田長禮 題額

下總州、有一沼湖。名曰手賀沼。
蓋、出于蝦夷語鷲之意也。往時、以蒼鷲群棲名。
大正十二年、関東地大震。其翌夏、於沼底探得獨木舟、前後二回。或曰、是蝦夷所使用之遺物矣。

沿岸成村邑者、曰布瀬、曰發作、曰龜成、曰浦部。
又、沼北・布佐下、有相島、有三河屋、有浅間前、有大作、有新木。
然、沿岸耕地、毎歳被水害不尠。
寛政十年、春乃講救濟策布瀬鄕首倡、諸邑相應胥。

謀栽植 葭葦、菰、蒲 於沼上、招致遊禽。
無幾鳥類果聚、有眞鴨、有葭鴨、有緋鳥鴨、有巴鴨、有小鴨。
聯翮集止、其他鵠、鸛、鷲等。
亦、爲遊棲處、因組織狩獵公會毎出獵、必豊獲乃包賣諸批發荘、各邑認得補活計。

明治二十八年四月、以官准 禁一般銃獵。而樹牌、明治四十二年四月、請農林大臣得允爲共同狩獵地。
偶、及利根川治水協会剏起設置放水路幹線於此。
加之建食糧増産計、盛土埋沼以爲水田。

獵場既失大半、獵獲減少。終至解散公會。
然、多年民生所繋、豈能可忘之乎。
乃、協議 建碑於布瀬・鄕鳥見神社畔。
來屬文于余。而、記其事由、以示來者。


愚因作銘曰、

惟鴨揖揖 一沼萬千

民補生計 獵獲潤然
水路新闢 埋築作田

易風更産 亦是由天
斯跡將滅 情所牽纏

樹碑勒之 百世可傳

昭和十七年十一月一日   筑水 中島利一郎撰幷書  大塚兼吉刻


不慣れながら、若干言葉を補いながら 上記の碑文を書き下してみました。


鴨猟記念碑


手賀沼猟揚碑  貴族院議員 理学博士  侯爵 黒田長礼 題額

下総に一沼湖あり。 名を手賀沼という。
けだし、この名はアイヌ語に由来し、ワシの意なり。
往古、ワシの群生せるにより名付けられしか。
大正12年(1923)、関東大震災あり。 その翌年の夏、沼底を探りしところ、前後2回にわたり丸木舟を得る。
これらはアイヌの使用せし遺物ならんや。

沿岸の村々は、布瀬、発作、亀成、浦部。
また、沼北には 布佐の西側に、三河屋(新田)、相島(新田)、浅間前(新田)、大作(新田)、新木あり。
しかして、沿岸の耕地は、毎年、水害を被ること少なからず。
寛政10年(1798)、「春の講救済策」を布瀬郷が首唱し、諸村も相応じて協力す。

沼の上に ヨシ(アシ)、マコモ、ガマを植栽し、野鳥を招き寄す。
数多集まりし鳥類は、マガモ、ヨシガモ、ヒドリガモ、トモエガモ、コガモ。
他に、コク(白鳥)、クワン(コウノトリの一種・ナベコウ)、ワシ(大鳥)
また、鳥たちの棲み家へと 狩猟公会(組合)を組織して出猟するたび、必ず豊かな獲物を得、これらを売りて各村は生活の補いとす。

明治28年(1895)4月、一般の銃猟が禁じらる。
明治42年(1909)4月、農林大臣に請い、共同狩猟地となすことが認めらる。
たまたま、利根川治水協会がここに放水路の幹線を設置計画するに及ぶ。
これに加えて、食糧増産の計画が建てられ、盛り土して沼を埋め、水田となす。

猟場すでにその大半を失い、獲物の数も減少。 ついに公会(組合)を解散す。
多年、周囲の村民の生活に密接につながりし場所なれば、どうして、これを忘れることなどできようか。
協議に及び、手賀沼のほとり、布瀬郷・鳥見神社の傍らに碑を建てる。
関連文書は多し。 これらに照らし、この鳥猟場について書きとどめ、この場に来たる者に示す。


愚かにも銘を作りたるに因り曰く、

おもう 鴨揖揖しゅうしゅうし   一沼に萬千
たみ生計を補うに   猟獲は潤然    たり
水路新たにひらき   埋築まいちくし田を
風更に産し易し   またこれも天に
斯跡 し せきまさに滅し   情所牽纏けんでん
碑をてこれをろくし 百世に伝うべし

昭和十七年十一月一日   筑水 中島利一郎撰書  大塚兼吉刻


「鴨猟記念碑」の説明板

この説明板にも大事なことが書かれているので、内容を以下に書き出します。


鴨猟記念碑


 この記念碑は、昭和17年12月手賀沼狩猟組合の解散に際し、鴨猟の果たした役割を後世に伝えるために建立されたものてす。

 ここ香取鳥見神社の神域は、干拓前には三方を手賀沼に囲まれ、北に筑波を望む景勝の地でした。

 手賀沼は、時として洪水を起こし自然の猛威を振るいましたが、その反面、あふれんばかりの天然の恵みを人々に与えました。 その代表が川魚猟や水鳥猟です。

 鴨猟の歴史は古く、流モチ縄(ボタ縄)を布瀬の住人が発明したのは、中世中頃の建武年間と伝えられ、豊臣秀吉や徳川家康にも水鳥を献上したとされています。 以後、冬場の貴重な収入源として農家の家計を助け、都の人々からは歳暮として喜ばれたのてす。

 ボタ縄猟は茅から作成した魅くて強力な縄に鳥モチを付け、水面に浮かべ、水鳥を捕獲するという猟法で、張切網と併用されました。

 碑文の内容は、手賀沼の名前の由来とその歴史、猟組合の成立から解散に至った経緯等で、題字は当時の著名な雁鴨類の研究者であった黒田長禮博士です。

 平 成 2 年 3 月
沼 南 町 教 育 委 員 会


『広辞苑』には、以下のように書かれていました。

ながし‐もち【流し黐】

長縄に黐を塗りつけ、晩秋から冬にかけての暗夜に湖沼に流し、遊泳中の鴨類を捕獲するもの。
手賀沼の布瀬と琵琶湖の堅田でかつて盛んに行われた。
ぼた縄。

布瀬の鴨猟は『広辞苑』に載るぐらい有名だったのですね。


参道は さらに奥へと続きます


手水舎 手水石は文化元年(1804)奉納


合祀された 多くの石祠が並んでいます


小さな鳥居がありました


手前は大杉神社


不明の小祠


狛犬と拝殿


様々な石碑


拝殿と本殿


拝殿の正面


拝殿の神額


本殿 周囲をグルリと囲まれています

『沼南町史(一)』(沼南町役場 1979)の P.180には、以下のように書かれています。

境内は、古来手賀の島と呼ばれる高台の最東端に位置し、左右と背後とを広遼たる田園に囲まれた森域(神域)である。

近年に完成した千賀沼の干拓以前までは、あたかも水中に突出した半島さながらの天然の景勝地であった。

水鳥の 木の間 こ    ま に見えし 手賀の島

干拓される前には、本神社の三方は手賀沼に囲まれていました。
さぞかし美しい景観だったことでしょう。